夜明けの涙が目に染みる
「雀子…………!」
部屋に帰った瞬間、晩御飯を用意して待ってくれていた後輩を抱きしめてしまった。尻尾の事なんて関係ない。真っ当にテストをやっていた時は有難みを感じない薄情な奴だったと思うが、今に分かる、その尊さ。帰ってきたら出迎えてくれる存在が居る。それだけで俺は……幸せだったんだと。
「わわっ、センパイ、どうしたの? ボクの事が恋しくなっちゃった?」
「うん…………恋しくなったんだ……本当に」
「ええ!?」
下着とか尻尾とか浸渉とか、全部どうでもよくなった。本当に今さっき、「お帰りなさい」と言ってくれた後輩の声が、あまりにも愛おしくて。そうだ、何もかもおかしいのだ。テストも終わった『くらがりさん』も倒したのに次から次へとおかしな事が起きて、平和という奴は全く訪れる気配がない。俺が悪い? 誰が悪い? 原因を探したくなる程理不尽で、息が詰まるような生活が続いた。
響希の家族はうっかり死にそうになるし、岩戸先輩は気が狂ってしまったし先達の三姫先輩は死んでいる。どうにか出来るのは俺だけで、薬を打てるのも俺だけで、芽々子も響希も薬を打てば薬を打てばと言ってくる。また違う世界の芽々子はそんな自分達が最悪だと自嘲した。ああ本当に最悪だ。誰も彼も最低だ。
出来もしない事をやり直せるかトライする奴も。
泣いてる姿を見たくないからって自分を大事に出来ない奴も。
死にかけの癖に愚痴ってしまうような性根の腐った奴も!
「せ。センパイ、本当にどうしちゃったの? テスト勉強でおかしくなった?」
尻尾が背中を包むように丸まっている。正直硬質的で何の癒しも感じられないが、それでいい。それだけでいい。雀子がご飯を用意している姿を見たら、全部どうでもよくなった。
「…………ボクには何が何だかさっぱりだけど、安心して! ちゃんとここに居るから! ほ︿︿ら、今日は鯛の煮つけを作ってみたよ、一緒に食べよ? ボクに抱き着いてないでさ」
「うん…………うん」
この雀子にとってはテスト期間の最中に突如として俺が泣きついてきたのだから困惑するのも無理はない。ただもう…………色々と、限界だった。なんとなく先輩達には見られたくなくて隠してたけど、ここは俺の家だ。感情を発露して何が悪い。
だって私は 人形 なんだから。
その言葉には俺が感じた以上の痛みと悲哀が籠っていた。芽々子だって好きで人形になった訳ではない。それは確かだが―――人形だからこそ、ここまで抗えたのかもしれない。諦める事が出来なかったのかもしれない。人形は笑わない。人形は泣かない。怪物である限り、心を理由に折れるなんて事はあってはならないのだと奮起出来たのかも……なんて、残酷すぎる。これ以上は考えたくない。
「ボクが食べさせよっか」
「い、いや。それは流石に……大丈夫だ」
「遠慮しなくてもいいのにっ」
「…………もう十分、甘えたと思うから」
雀子の尻尾を軽く押しのけて机に座る。家族から離れたいと思ったのは干渉が嫌だったからだ。だがもし両親が居てくれたら、こんな俺を助けてくれただろうか。真相は分からないし、明らかになるべきでもない。失う物があると、響希みたいに取り返しがつかなくなったらどうする。両親を助けようとしたら俺が死ぬ、みたいな択一を迫ろうとは思わない。それは一人暮らしを望むより遥かに親不孝だ。
「…………なあ雀子。お前って夢とか見ないのか? 例えば……名前は知らないけど夢の中ではなぜか知ってる風な友達と遊ぶ夢、とか」
「また変に具体的な質問だ。ボクは寝つきがいいからそういうのないなあ。あ、それは勿論センパイのお陰だよ。安心して眠れる場所とか全然なかったもん」
「本当に夢を全く見ない?」
「うん」
やはり芽々子の事なんて覚えちゃいない、か。まだ現実の方の芽々子から直接認めてもらっていないが、仮想世界の芽々子の証言と、ちょっとした引っかけによって言い逃れは出来ないようになっている。彼女は別世界で確かに雀子と行動を共にして……恐らく、最後は離れ離れになった。
気になるのはその時の雀子にこんな蠍の尻尾と手はついてなかったという事だ。何が違ってこんな事になったのか……それさえ分かれば幾らか対処も考えつくかもしれないのに、ままならない。人生は人間の都合がいいように動かないらしい。
「……美味しい」
煮つけの端を崩して一口。魚の触感と仄かに感じる甘味のような舌ざわりが何とも堪えがたい幸福を運んでくる。味わいは淡泊なのに後味が濃厚というか、いつも雀子の手料理は美味しいが、いつにも増して美味しく感じる。
また涙が出てきた所を、雀子の尻尾が緩やかに顏を通り過ぎて拭いてくれた。
「センパイ、疲れたんだね……よしよし」
「本当にごめん……明日にはまた頑張るから。今日は早めに寝かせてくれ」
「勿論っ。ボクも時間合わせるね。隣で暴れられても嫌だろうし。じゃあ先にお風呂わかそっか。あ、センパイはいいよ。ボクがやる/╲︿_!」
薬を打つようになってからずっと、明日も昨日もなく考え続けて動き続けて、身体は文字通り時間が止まってしまった。だから壊れているに違いない。何も考えない日だって必要だ。休もう。休もう。休まないと。
「あ、センパイ。ご飯は良く噛んでね!」
「…………うん、分かってる」
バイト漬けの毎日だったとしても、満足に眠れたのはこの空間があったからだ。俺だけの部屋、俺だけの聖域、俺だけの結界。それはたとえ未来や過去に移動しても変わらない事実。ただし今回に限っては現実で体が瀕死の影響だろうか、全く眠れそうになかったので雀子を抱き枕になんとか眠りについた。どうしても眠れなかったら尻尾で首を絞めて気絶させてほしいとも言ったくらいだ。
そんな俺の寝覚めを確定させたのは、早朝五時からのインターホンだった。
雀子は隠れ家にしているので当然出られない。建前上は俺の一人暮らしだ。いつだか真紀さんが訪ねてきた時のように一人暮らしなら当然住人が出てくるべきである。
「じゃあボク、ここに隠れてるね」
「頭隠して尻隠さずだな。ホント」
尻尾はクローゼットの中に入らない。もう一度鳴ったのを契機に慌てて扉を開けに行くと、三姫先輩が手を挙げて挨拶をした。
「や、様子を見に来てあげたわ。昨日はよく眠れた?」
「…………先輩。何でここに?」
「早朝は人が居ないから歩きやすいの。考えを整理する時には当てもなくその辺りをぶらつくと、ついでに気分転換も出来てお得って訳ね。君、少し時間ある? 良かったら話さない?」
「朝食食べないといけないので、本当に少しだけなら」
「じゃあ決まり。ついてきて。人気がない所を歩きたいから」
扉を足で閉めて雀子へのケアはかかさない。今回の一件とは無縁でも彼女を守らないと。いつどこで、どんな状況でも。これから先も薬を使えるとしたなら、状況の固定化は必須行動だ。無関係な人物を巻き込みたくない。
先輩の横に並んでおずおずと表情を窺うも、なんとなく機嫌が良さそうという程度しか読み取れない。それも、鼻歌を唄っているから印象が偏っている気がする。
「別に、話したい事がある訳じゃないの。だからそんな、話題なんて気にしなくていいよ」
「は、はい?」
「私はもう死んでるけど、お互い息が詰まるような生活をしてきたでしょ。殆ど周りの人は真実を知らなくて、どうにかしたいと思った自分達だけが危機に晒される。死人が息をするに等しく……孤独。多分、死んだ私はその絶望を味わったからあんな事になったのね」
「岩戸先輩に、裏切られて」
「そ。でも裏切るなってのも難しいでしょ。みんな私と違ってお化けを恐れるんだから。私は異常だなんてかっこつけてるみたいで言いたくないけど、みんなを助けられるんだとしたら……それでも良い気がしたんだけどな」
これから先輩がどれだけ努力しても、観測者たる俺の未来は変わらない。岩戸先輩が狂っている事が、三姫先輩の死亡している証明になっている。それを破ろうとしたら……いや、もしもはない。俺は薬を使うどころの騒ぎではなく、今、正に死にかけている所だ。
「ごめんごめん! 辛気臭い話になったわね。もっと楽しい話をしましょうか。例えば……私と二人で映画を見るとしたら、何が見たい?」
「映画……ですか? 流石にホラーは見ませんね。ていうかホラー大っ嫌いになりそうです。B級でも辛そうだ」
「あ、分かる~。変な目に遭いすぎて、なんかもっと平和な感じ。ペット映画とかね」
「あーペット映画。先輩はやっぱり猫……いや、犬が好きそうですね。なんとなく」
先輩はぴくりと肩を動かすと指先で○を作って正解を示した。
「大正解。ワンちゃんは忠実になってくれるからね。猫も嫌いってんじゃないけど、この島に沢山いるし、何より全員奔放だし、これ以上振り回されるのはちょっとな。今も散々お化けに振り回されてるのに」
また暗い話に戻りそうだ。
俺も含めて同時にその事に気が付くと、どっと笑いが起こってしまった。何かがおかしかった。どうやっても怪異の輪廻から逃れられない自分達が、あんまりにも可哀想だったからだ。
「こっちからも聞いてみるけど、君はこの島の何処で遊ぶ事が多い? 意外とこういうの特色あってさ、聞いておきたいの」
「遊び場ですか? うーん、バイト漬けだったから思い浮かぶとするとそうですね―――」
三姫先輩と、楽しい早朝を過ごした…………。