届かない気持ち
仮にも俺だって男性の一人だ。この臭いが何を意味するかなんて分かるが、どうか魚市場であってくれと願わずにはいられない。働きづめだったり、女の子が住んでしまったり、そもそも命の危険にばかり巻き込まれていたり。いろんな理由で縁遠かった臭いには殆ど確信を抱いていた。
案の定、それは精液であり、浴室の至る所にぶちまけられている。臭いが強烈なのは血と混ざっているから……と信じたい。元々空き家で、鍵の場所を知らなければ入れもしない場所。掃除が入っていないのは当然だが、それにしてもこれは酷い。密室でなければ異臭騒ぎでクレームが入る所だ。
臭いからして電気を点けようという気にもならないが、一応現場を確認する。やたら視界が利かないと思ったら、浴室が血で真っ黒に染まっていて光を通さないからだった。死体がそこに転がっている訳ではないが、血だまりは残っている。栓がしてあるから最後まで流れなかったのだろう。顔を近づけるだけでも凄い臭いだ。率直に言って、水が腐っている。
「これは…………触りたくないな」
まだ仮想世界での意識が抜けていない事を自覚しつつも、だがこれは物申さずにはいられない。独り言だったとしても言いたい。言わなきゃ嘘だ。触りたくないという気持ちをきちんと表明しておかないと、これが如何に穢れているかを理解してもらえない。
蝕穢を起こせばこの身に何が起きるか予想もつかない。人の血がどれだけ不潔かは医療知識がなくてもなんとなく分かる。だから医者は手袋をするのだ。俺の手は人形だから最悪切り離せばいいという考え方も出来るが、人間としての尊厳を優先してしまった。まだ、その必要はないと。もっともらしい理由をつけて。
「あああーあーあーあーあーあーあ! 二人共! 絶対風呂場に来るなよ! 見たら後悔するからな! 近づくな! マジで!」
「とりあえず集まりましょうか。注意深く探すまでもなく、収穫はあったわ」
「おっけ………………………ていうかもう待ってるけどね」
電気は可能な限り点けたくはない。空き家だという認識が重要なのだ。だから部屋の隅に置いてあったランプ一つを光源に、俺達は机を挟んで向かい合った。
「一応聞くけど、誰から報告したい?」
「いや俺俺俺俺俺! 待ってくれ、こればっかりは自己主張する。先に言うべきだ。最悪なんだよ」
「どう考えても私だから。人生で出会いたくなかったし見たくもなかったわよあんな光景」
「………なんだかハイテンションっぽいし、天宮君から」
「風呂場を見た! 理由は、響希と一緒に見たあの三姫先輩の死亡写真に浴槽っぽい部分が映りこんでたからだ!」
「あ、あの人ってそんな名前だったんだ」
「正しくても死体が残ってる筈はないと思いつつ、一応確認をな。そしたら…………多分だけど。自慰の痕跡があった!」
ああもう、最悪だ。
どうして仮にも女子二人にこんな事を言わなきゃいけないのだ。自分で自分を殴りたい。こんなワード、公衆の面前で言いたくない。
「アンタ何で興奮してんの? 変態?」
「興奮っていうか、どう受け止めていいか分かんないんだよ! あんなの気持ち悪くて冷静に受け止められるかよ! や、自慰じゃない可能性もあるけどさ! その、局部を握りつぶされてみたいな可能性もあるかもだけど、それはそれで男として想像したくないっていうか……」
大袈裟に喚いているつもりもなかったが、存外冷静な二人を見ていると次第にこちらの気分も凪いできた。もしや自分がおかしいのか、という疑念は客観視とは違うものの考える時間によって感情が抑制される。
自称感情がない芽々子はともかく、響希は?
「じゃあ次は私ね。私は台所の方に行ってみたの。理由は特にないんだけど。冷蔵庫ね、電気が点くなら稼働もしてると思ったけど中身があるとは思わなかった。でも……全部血がかかってる」
「はああああああ!? え、料理は普通の料理なんだよな?」
「ええ、見た感じはね。ほら、私は一応家が食事処だからさ……ああいうの見ると気分悪いの。冷蔵庫が動いてるなら腐ってはないと思うし、だけど血がかかった食べ物なんて基本的に食べたくないでしょ」
魚の下処理においても血抜きという工程があるように、血はとにかく穢れているし、味という点においても雑味になりやすい。俺とはまた違うベクトルで、その光景は気持ち悪いだろう。
家にある作り置きの料理に全部血がぶちまけられていたらと思うと、流石の俺も面食らう自信がある。
「…………私は二階の寝室を調べたわ。箪笥には女性物の服や日用品があったけど……全部ベッドの上に引っ張り出されて、体液をかけられていたわ。はしたないから、明言はしない」
「はああああああああああああああ!?」
ちょっと待った。
理解が追い付かない事は何度もあったが、追い付きたくないと思ったのは初めてだ。
「待て。ここは空き家じゃなかったのか!? なんだこの状況! 変態が住んでるじゃねえか! おい、変態のテリトリーだここは! 危ないから逃げよう! 危険すぎる!」
「泰斗、アンタのが変態っぽいよ。そのハイテンションは何? 私も~う嫌すぎてげんなりしてるところなのに」
「こんなの無理やりテンション上げなきゃ向き合えねえよ! キモイ! 気持ち悪い! ほんっとうに理解出来ない! ちょ、え? 何? 先輩の死因を調べに来ただけなのになんで変態が住んでるの?」
「落ち着いて天宮君。ボイスレコーダーも見つけたからそれを聞いてみましょう。それがあったのはベッドの隠し収納で、声は女性だった。とりあえずここには汚らわしい痕跡もないのだし、外に出る必要はないわ。外は、それこそ危ないし」
芽々子は机の上にボイスレコーダーを置くと、再生ボタンを押して手を遠ざける。録音の声は飽くまで録音という事を加味しても……先輩以外に思い当たる人物は居なかった。
「…………んん、あー。テスト。まあ失敗してたらやり直すだけ。もしも貴方がこの録音を見つけたのだとしたら、私はとっくに死んでる。残念だけど協力は出来そうもない。でも情報をあげる。学校の先生達は部活が終わっても職員室に残ってるのは知ってる? 深夜になると学校中の窓をカーテンで隠して何かしているの。誰かが一度悪ふざけで深夜まで残ろうとしたけど、そいつは引っ越した。バレずに学校に残る事が出来れば何か分かるかも。ただ、脱出経路まで確保しないと見つかったらどうなるか分からないけどね。私が見つけられたらそれが一番いいけど……一応、保険としてね。貴方が生きてこの情報を活用出来る事を祈ってる。Good Luck」
「…………学校は盲点だったわね」
「いつも通ってるから何かあるなんて思いもしなかった。進路相談とはまだ無縁だったから、あれだけど」
「学校の隠れ場所って事ならクラスメイトの力も借りられるかもな。それはいいんだけど……何によって死んだかはこれだけじゃ分からないな」
「何も分からないって程でもないわ」
芽々子は寝室から拾ってきたノートの上にボールペンで線を引いていく。
「浴室に死体はなくても死体があったような痕跡は残っていた。そこまではいい?」
「ああ。血だまりもあったし、死体があったのは間違いないと思う。先輩のかどうかは置いといて」
「…………あれ? ねえ、引っ越すってさ、もっと綺麗に掃除しない? 柳木のご家族の死体とか……消えてたわよ。血痕とかも。綺麗さっぱり。なんか変じゃない?」
「ええ、私が見てきた引っ越し後の状況も同じよ。死体があったという痕跡だけは完璧に消してくる。都合の悪い証拠になるような物体以外はそのままな事が多いわ。死体は消えてるけど痕跡は残っている…………で?」
「―――死体を片付けた奴が違う人間って線はないか?」
それも少し語弊がある。怪異はともかく俺達はまだきちんと敵対勢力を認識出来ていない。だが個人にしろ勢力にしろ隠滅方法が同じなら同一人物・勢力に因る物だと推定出来るだろう。
「そう考えると、もっとおかしな事もある。死体の痕跡もまとめて消すのは誰かに勘付かれるのを防ぐためって目的がある筈だ。幾ら島の人が恐怖を忘れやすい体質にされてても、突発的に通報とかってあるからな。だから違うとか違わないとか以前に、この家が空き家として認識されてない説ってないかな」
「どういう事? 空き家として認識されていないというのは考えにくくないかしら。三姫? さんは死んでいるのよ。それを誰も気にしていないという事は、少なくとも死んだ事は知っていると思うけど」
「そんな躍起になる程の事はまだしてないからだと思う。俺達の立場を見てみろよ。向こうが血眼になって探して来たら少なくとも薬なしじゃすぐに関係の繋がりを洗い出される筈だ。そうされないのは、怪異への対処をしてるだけで目の上のたんこぶとも言い難いからじゃないのか? 暫定的に大人達を敵としてるけど、名前も付けられないくらい勢力も目的もハッキリしてないんだぞ」
「さっきの録音の感じも、それっぽいわよね。あの先輩の人も、まだ核心的な情報は持ってなかったっぽい感じ」
するとなんだ?
六無三姫先輩は俺達が敵とする勢力とは無関係の第三者に死体を隠蔽された?
何で?
殺したのは怪異で間違いない。あの死に方を人間が行うのは無理がある。そして殺した怪異は真紀さんが話してくれた奴に相違ないとして、では隠蔽した人間は? その意味は? 死体を隠蔽するという事は大人の仲間という認識になってくるが、それだと今度は前提に対して辻褄が合わなくなるというか。
諸々考察は全て仮定に過ぎないが、死体はそれがあったという事実からさっぱり消すように掃除されるというのは事実みたいだ。そこと合わないのはいささか奇妙に映る。
「ここまで来るとさ、突拍子もないけど実は生きてるって可能性もある気がしてきたよ。どうしよ、生きてたら別に全部偽装だって事で話もつくしさ。死んだ扱いで話進めてていいのかな…………」
何だか違う悩みの種が生まれてしまったなと嘆いていると、隣で響希が首を傾げた。
「ね、そういえばあの写真って何なの?」
「何なのって、何なのさ」
「偽装でも第三者が死体を隠蔽したでも何でもいいんだけど、よく考えたらさ―――写真、撮らなくない? 私アンタが死んでても写真なんか撮ろうと思わないよ。ていうかさー」
「あの先輩が、隠したんじゃないの?」
ガチャッ。
ドアノブに、鍵が刺さる音。