██体██明 ███████
一人暮らしでどんなに忙しくても、風呂には入れ。
両親の言葉を守り切る事は早々に出来なくなっていたけど、今でもその言葉は覚えている。初めて破った時はそう。あの二人は社会の厳しさを知らないなんて余程知ったかぶりしているのはどちらなのかという程の悪態を吐いていたっけ。今では全く違う理由で今度は普通の暮らしの方が出来なくなったが、湯船に浸かっていると思考回路が明瞭になってぼんやり浮かんでいた疑問もハッキリと浮かんでくる。
真紀さんは恐らく答えてくれる。実は少し疑わない瞬間がない訳でもなかったが、この人の動向は少し違う。どう違うかは分からないが、誰がどういう風に動いているのかハッキリしない勢力に対してこの人はなんか……妙だ。妙としか言えない。
―――警戒、しないとだよな。
真紀さんには、年上の女性に抱くような憧憬を持っている。それにお祝いは今回が初めての事ではないからつい気を緩めそうになってしまうが、今は事情が違う。隠すようなモノなどなく、身一つだった学生時代はとっくに終わっている。湯船の中で息を吐くと、身体の奥に倦怠感が広がっていく。上がりたくないと思うのは体が休まっている証拠だろうか。それとも血圧が上がって意識が朦朧としているのか。時間は永遠じゃない。彼女に敵意はなさそうだし、そろそろ戻るべきだ。
心に決めた瞬間に動かないと、俺の中のナマケモノは意思を徹底的に捻じ曲げてくる。緊張はしないと決めたつもりだったが、やたら体を綺麗に洗おうと慎重になってしまった。
脱衣所に戻ると、タオルの隙間から雀子が興味ありげに俺の身体を見つめている。
「…………!」
だが隠せるモノもない。彼女の視線が下に行った途端顔を真っ赤にして洗濯機の中に沈んでいったのは不幸中の幸いだ。あのままみつめられていたら俺の方がどうかしていた。年が幾つでも女の子に裸を見られるのは常に恥ずかしいという感情だけがある。
着替えてから部屋の方に戻ると、食卓に料理が並んでいた。タイミング的には俺が湯船から上がった音かシャワーの音でも聞いてから始めたのだと思われる。
「やあやあ~。色男になったねえ、泰斗くん。お姉さんは嬉しいぞお。ちょっと見ない間に顔つきが変わったね~。うんうん。良い傾向だ。このまま立派な人になってくれたら、一応立場上の保護者としても鼻が高いってもんだ~」
「真紀さん。俺は」
「まあまあ、とりあえず座りなよ~。何か危険な予感がしてるなら、それはきっと気のせいさ~」
左目でウィンクをするくらいには、あまりに向こうは警戒していない。俺が何かするとは思わないのだろうか。席に座るとハンバーグの匂いにまた気が緩みそうになった。デミグラスソースを焦がしたような匂いがまた何とも心に作用して。
「まずはテストの点数おめでと~!クラッカーは勘弁してね、ここは壁が薄いからさ~。学生の本分は勉強とも言うし、バイトに気を取られてて勉強がダメダメじゃ将来の進路にも拘ってくるし~? お姉さんとしては君にそんな危ない橋を渡らせたくないの」
「真紀さん」
「一人暮らしさせたはいいけど子供が腑抜けになって帰ってきたじゃ私も怒られるしさ~。あ、ごめんよ。お姉さんは大人だから自分が怒られるのは避けたいんだ~。だって、それは面倒が起きてる証拠だからね」
「真紀さん」
「怒られない範囲でサボる。怒られない範囲で頑張る。それが社会人の秘訣だよ泰斗くん。君はよくバイトを掛け持ちしてるようだけど、全部に全力で打ち込むのは違う―――」
「真紀さん!」
そんな話をしたいんじゃない。普段なら照れていたけど、違うだろう。美味しいご飯を食べたいなら解決すべき話題がある。どういう方向にせよ納得したい。驚かせるつもりで声を張ったのに、彼女の態度は崩れなかった。
「あーはいはい。君はせっかちだなあ。じゃあその話をする前に少しこのビールを飲ませてもらうからね~」
「未成年の前でお酒ですか」
「今までは控えてたけど~酒の席じゃないと話せないな~」
ブルタブを起こしてビール缶を勢いよく呷る。デザインは本島でも見た事がないどころか、そもそも真っ白くて何にも書かれてないビール缶なんてあっただろうか。
これは総合ストアと呼ばれている本島からの商品を雑多に扱う場所に売っている。孤島価格という奴でどの商品も半端じゃない価格をしており、ここに移り住んだ身から言わせれば使わずに済むならそれに越した事はない。ただしそれでは立ち行かなくなるのが生活であり、例えば化粧品はここで買うしかないし、宝石やアクセサリーのような高級品や映画やゲームのような娯楽品もここしか扱っていない。扱う基準は謎だ。食品も勿論扱っているが専門店は別にあるし、書店も書店でやはり個別に存在する。
「…………はぁ。酒を飲むとさあ~心が凪ぐんだよねえ。浮ついた世界が沈んで見えるって言うかさ。とりあえず食べよ。美味しいよ」
食べないと冷めるから、美味しくない。少し空気の変わった真紀さんに注視しつつもハンバーグに箸を入れて切ってみた。肉汁があふれ出し、外にかかっていたデミグラスが断面に絡み合う。かかり方に不満があったので切った一部を摘まんで自分からソースに浸けた。
「美味しい……!」
「ふふ、そういう顔が見たくて頑張ってるからね。で、何が聞きたいの? 私としてはただお祝いしたくて来たんだけどね」
「…………真紀さんが殺しましたか? あの、俺に付き纏ってくる変な人達」
「うん、殺したよー」
あっさりと認めて、またビールを一口。
「さ、殺人は犯罪ですけど」
「はは。こんな孤島で犯罪が起きても警察は関知してくれないよ。駐在警官数人のやる気があれば別だけど」
「…………真紀さんは何者なんですか?」
「そんな何者かと問われて返せるような大した人間じゃないよ。モラトリアムは過ぎてるけどね。強いて言えば夜のお仕事のお姉さんだよ」
それを、俺は今までスナックとかキャバクラのような仕事だと思っていた。或いはもっと踏み込んでソープとか。学生の生活範囲で関わらないだけで何処かにはあるだろうと思っていた。いたが、芽々子に巻き込まれている内に考えが変わった。夜の仕事なんてこの環境で出来る訳がない。スナックやカラオケはあるが、生活のメインの時間帯を夜にするなんて不自然だ。
そこが自分の持ち家ならいいが、家と職場の往復。いつ怪異と相互認識を果たすかも分からない環境で働き続けるなんて正気の沙汰とは思えないのに。
「その、仕事って?」
離すのは片手間で、真紀さんの方が食が進んでいるようなので後を追うように沈黙は食事で誤魔化す。温かい内に食べるべきは間違いない。真紀さんはビール缶を飲み干すと、次の缶を開けた。
「…………どう説明したものかなあ。困るけど、島の人が安心して暮らせるように害虫駆除をしてるみたいな感じ? 私が居ないと島民はもっと困るから、それなりに誇りはまあないけど。頑張ってるよ。給料はいいからね」
「害虫駆除…………ですか。害虫ってのは例えですよね」
「まあ例えだけど。言ってる事に嘘はないよ。これが食べ終わったら少し外に出よっか。大丈夫、お姉さんが守ってあげるよ。言ったろ、どんな事があっても君の味方だってさ」
芽々子に呼び出される事も響希の家のバイトが入った訳でもない。それで夜間に外出をするのは初めての事だ。とはいえそれは当然の話で、用もなく外に出るのは体力の無駄だから。あの働きづめの日々を思えば、外に出るとか考える前に眠っていた。翌朝動けなくなったら非常に困る。
「世の中にはさー、夜に外へ出てはいけないってルールを守ればあらゆる身の危険から守ってくれる町があるらしいよ?」
「……何の話ですか? 別にこの島の事じゃないでしょ。夜間に出歩いてる人は居ますし」
「そうだよ。私のお陰で無事なんだ。仕事馬鹿の泰斗くんには教えなくても勝手に守ってきたけど、夜に叫び声が聞こえても気にするなっていう話。丑三つ時だっけ? 今はそう言われてるけど、前はもっと早い時間からそうだったんだよ」
「…………獣が集まるからじゃないんですか? あ、害虫じゃなくて害獣だったり?」
「いやーなんて言えばいいんだろうなあ」
芽々子は相互認識が大切な怪異において大人は基本的には影響を受けないというような話をしていた。だが真紀さんは自分が仕事をしているから大丈夫だという。怪異の話はしていないが無関係とも思わない。暗黙のルールについて先に切り出してきたのは彼女の方だ。
当てもなく歩かされていると、目の前を人影が横切ろうとした。足は酷く遅く、酔っ払っているにしてはぎこちない。
「おー、いたか」
真紀さんは俺の部屋から拝借したライトを手に取ると、人影を照らして姿を映す。
そいつは体が中途半端にぬいぐるみに変異した、中年の男性だった。
「た、たふ……ふほおぉぉおおおおおおお!」
腕から右半身、切り上げるように肩まで浸食されている。こちらへ延ばした手は間もなく風船のように膨らんで破裂。助けを呼ぶ口は喉から押し上げられてきた綿によって潰され、間もなく絶命した。
―――知らない顔だ。
だがそれ以上に非現実的な惨殺に目を覆ってしまいそうになった。今まで散々酷い死に方を見てきたが…………最終的に血が出てないのに、ここまで惨いか。
「…………!」
「え、何。怯えてるの? 大丈夫、今日は私の都合で連れ出したし守ってあげられるよ。でも明日以降はくれぐれも気を付けてね。知らなかったら気を付ける必要もなかったけど、もう随分前からコレと君は出会ってるみたいだから教えとくよー。結構賢くてさ、手段を選ばず外に出させようとするからくれぐれも夜に扉を開けちゃいけないよ」
「で、でも…………真紀さんが倒してる、んですよね?」
「あーいやさ。私が倒してるのは例えるならゴキブリの子供なんだよね。今は目の前で死んだけど、大抵こっちに襲い掛かってくるタイプで、放置してたら碌に誰も外を歩けなくなるからさ。親は行方が分からないから放置するしかないって事」
「出会ってるって! いつの話ですか!」
真紀さんは振り返って悪戯っぽく笑ったつもり。「ははは」という声がそう思わせたものの……実際はどうだろう。俺達を、試しているように。
「君達が―――浜でバベってた時かな」