別/ た=れた /世界
「…………せんぱい。起きて、ほら、朝だよ!」
「うーん…………う、うう」
べしべしと幹のような物で叩かれる。それは随分物々しい起こし方だったがここ最近は仕事とは無関係に文字通り死ぬほど疲れるような事ばかりだった。だからか、少し自分でも寝覚めが悪いと自覚している。
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「そろそろ設定なさった気性のお時間でございます、守り人様」
「うーん……目覚まし時計はあるのに何で貴方が起こしに来るのよ。狐の召使を雇った覚えはないんだけど」
「これは失敬。しかし昨夜、私めは確かに貴方様より申し付けられました。この命救われたのは他ならぬ貴方様のお陰でございます。貴方様の命令こそ私の願い。この身体では最早本来の人生に戻ること叶わず、二度目の命は貴方にお預かりいただいております故」
「因みに、ボクが開けましたー! 駄目だよめーちゃん、不用心だ」
「……朝からがやがやがや。何なの全く」
「夜は忙しくなるんだから昼に遊ばなきゃでしょーっ。あーそぼ。外で二人も待ってるから!」
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「ん…………」
ちらつく世界。景色。言葉が色褪せていく。自分が自分でなくなったように感情が静まり返る。
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「柳木君。貴方、いつまで私に付き纏っているの? 怖いモノなんてあれ以外にないじゃない」
「へ、へへ。いやあその……あ、あんな事があるとさ! 安心したくなるっていうか、君の傍に居ればいざという時大丈夫かなって」
「大丈夫…………? そうね。可能な限りは、守ってみるけど。でも学校に居る時は邪魔! それで先生に怒られても知らないからっ」
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俺はこの少女を知っている。知らない。
彼女はいつも冷静で。明るくて。
世話焼きで。
感情がないと偽る。感情を抑え込まないといけなかった。
普段から心配性で。泣き虫で。
放っておいたら何処かへ行きそうな。放っておけないような。
「う…………うう…………」
「せんぱい?」
「雀子! 尻尾で俺をどつく事って出来るか…………?」
「ええ。またどうしたの? ボクはそんな事したくないんだけど……」
「いいから……頼む」
世界が散らばっていく。叩き割られたガラスのように散乱していく。何かがおかしい。何かが違う。それだけは分かる。脳みそが焼き切れるような高熱を発しているのではといよいよ錯覚し始めた直後、ドン! と勢いよく雀子の尻尾が俺に叩きつけられた。
「ぐへえええええええええええええ!」
しこたま壁を打った衝撃と俺の叫び声は隣の部屋の住人にもしっかり聞こえてしまったと思うが、生活時間が合わないのか顔を見せた事はない。今回も……大丈夫らしい。
視界が、元の現実を構築していく。
「せんぱい、大丈夫っ? ごめん、ボクも加減したけどやっぱり難しいよ。でも手は、余計に怪我させちゃいそうだし……」
「いや、いいんだ。大丈夫…………滅茶苦茶痛いけど、骨は折れてない。加減は出来てたと思うぞ」
雀子の手を借りて机まで体を運ぶ。今日の朝食はトーストエッグか。簡易的だが、そろそろ食材がなくなってきたようだ。買い出しに出ないといけないとも思いつつ、今はこれくらいの量で充分。強く背中を打ったせいで胃腸の方も様子がおかしくなっている。食べ過ぎたら吐きそうだ。
「なあ雀子。変な事聞くんだけど。人形の生首のさ、芽々子分かるよな」
「国津守芽々子? うん、知ってる。生首びっくりした! 先輩が人殺したのかなって」
「もしかして、知り合いだったりする…………か?」
「…………? 知り合いだったら、ボクはそっちを頼ると思わない?」
「だよ、な。うん。悪い。ちょっと考え事があってさ」
俺の見た現実。あれは間違いなく人形になる前の芽々子だ。そして知らない人物もいたが、彼女をめーちゃんと読んでいた少女は確かに雀千三夜子だったような気がしている。
確信を持てないのは、サソリの身体になっていなかったから。どうも俺は人を記号で見ている節があって、雀子の場合は尻尾と手袋で認識している。彼女を抱きしめて寝た時も、手袋越しにチクチクして痛かった。安心は出来たけど。
―――どういう事だ?
芽々子は元々知っていた? そう考えるのは簡単だが、繋がらない。幾ら未来が変わったとしても、変えられない条件はある筈だ。仮想性侵入藥がいくらあっても、例えば三つ顔の濡れ男との遭遇自体は避けられなかっただろう。理屈上は可能かもしれないが飽くまで変えるのは薬を打った人間だ。そいつが出来る範囲でなければ変えられないし、無理に変えたらいよいよ現実に不幸な改変が起こってしまう可能性もある。
雀子の体は最初からこうだった。だが俺の見た幻覚では違う。二人が隠し事をしている可能性も今の質問で消えた。雀子は嘘を吐くのが苦手だ。短い共同生活の中でも流石に気付く。
人形じゃなかった時代なら勿論薬は使えるとして、じゃあ人形になったのは? 確かずっと前からこうだというような事は言っていた気もするが、それなら人形になる前と後で誰か気づきそうなものだ。意外と皆意識しないなんて言ったって―――排泄をしないって、あんなに注目されているのに。誰も気づかないなんて事があるのか?
「先輩、今日はテスト返却だよね。カレンダーにそう書いてあるよ」
「ああ。一応面倒を処理しながらも勉強はしたから大丈夫だと思う。応援しててくれ」
「うんっ。先輩なら大丈夫! 特に理由はないけど! あはは!」
ここに住むようになってから悩みの種が減ってきて、雀子が日に日に明るくなっていくのはとても良い傾向だと思う。最初は同じ屋根の下に男女が二人なんてどうかと思ったけど、尻尾の存在が強烈すぎて気にならなくなってしまった。その……万が一にも襲ってしまうかもしれないという自分への不信も、この尻尾がある限りは大丈夫だ。そんな事したら逆に殺される。女性に免疫がなくても命の方が大事だ。
雀子がエプロンを脱いでブカブカの服を露わにする。俺との体格差はこういう時に露骨だ。屈むとまるで閉まりのない首元が露わになって、控えめな胸の膨らみが暗闇の中でも存在感を―――
「…………まずい、な」
種の保存本能、という奴だろうか。日々この尻尾に嬲り殺されたらどうしようとか考えてる? それとも怪異の相手をいつもいつもしてるせいで、疲れからついつい思考がおかしな方向に飛んでしまう?
「雀子。ちょっと、尻尾を下げてくれ」
「ん? 何々? 顔に何かついてる? 血とか?」
「血はないけど」
食卓を立つと、T字に手を広げる雀子を抱きしめて触診のように背中をぺたぺたと触った。
―――テストも終わるし、買いに行くか。
無邪気に懐いてくれる彼女に俗な思いを抱きたくないという気持ちがある。だがノーブラのままは少しまずい。芽々子だって申し訳程度に下着を着けているのにこのままというのは。
「先輩。一応言うけどボクの尻尾は引っこ抜けたりしないからね」
「な、何? 引っこ抜く?」
「もう試したよ、散々。でも体の一部ってくらい変化してるから無理無理。国津守芽々子がくれた制服はでも、スカートのお陰でいい感じなんだよね。壊さないで済むのは良い事だよ!」
尻尾がぶるぶる震えるのを見て、ふと疑問に思った手が太腿の側面からスカートをはらりと捲った。
「あ」
「あ」
自然体に触ればセーフなんて、それこそ都合がいい。手を離した所で遅かった。雀子は顔を耳まで真っ赤にして、肩に指が突き刺さる程掴んで。
「せせせせせせせせせんぱ▔╲︿_/︺▔╲い? し、死にたいんですかあ╲_/!?」
尾っぽの先端が、眉間に突きつけられる―――!