くらがり散歩道
「ちょっとまったまったまったまったまったああああああってえええええええええええええええええええ!」
滑る滑る滑る。手を出そうと足を出そうと引っかかる場所がまるでない。どこもかしこも粘液塗れで掴める様子もなくて、粘液が身体についたらもっと滑りが良くなって奈落の底へと落ちていく。ローションの湖に飛び込んだように体は滑らかで、有り得ない速度が出ているにも拘らず摩擦による怪我はない。ただ底は見えずいつまでもいつまでも落ちていると、果たしてここに終わりはあるのかと別の意味で不安になる。
「助けてええええええええええええええええええええ!」
肉壁に指をひっかけようとしてもブヨブヨしたこの物体でどうやって体重をせきとめる。刃物があっても柔らかすぎて切りながら落ちて行ってしまいそうだ。ベルの音も近づいているようないないような、分からない。五感が薄まっていく。
手元を見ると、粘液が皮膚がじっとりと溶かし、血肉の中にまじりこもうとしていた。
「うわあああああああああああああ!」
これは、長い長い滑走で感覚を鈍らせている内に消化するつもりだ。話が変わってくる。もたもたしていられない。滑っている最中に体勢を整えると、出来るだけ地肌が触れないように立ち上がろうとして―――転んだ。
「あばばばばばばばば!」
視界が目まぐるしく横転し、前後左右が不覚になる。電話の音はちっとも近づいている気がしない。かといって遠ざかっている気もしない。どうする。どうすればいいい。俺はいつまでこの食道を通らなければならない。
転げまわる事実に三分弱。慣性を止める物体もなく殆ど自由落下のように滑落していると何かが身体を強く打った。それは食道にしては冷たく固く、勢いを殺した反動でバタンと倒れる。
「いっづ…………! ぐおおおお…………!」
背骨を通じて全身に広がる麻痺。手足の痺れを抑えて何とか視界を正常に戻すと、過去に芽々子が落とした『黒夢』が俺を待っていたように倒れこんでいた。
――――骨が、折れるかと思った。
折れなかったのは奇跡、か。這う這うの体で鞄の取っ手を掴み、真っ暗闇を当てもなく歩いていく。頼りになるのはベルの音。昔の電話を思い出すようなけたたましさが、今は光源よりも頼りになる。
「黒夢…………分析、終わったのか?」
薬を使わないと会話が出来ないが、会話したような気になるだけでも十分だ。声が響くので、ここは大きな空洞? 器官で言うなら胃だと思う。消化液は溜まっていないが、あちこちから生臭いニオイがする。死体のニオイは不本意にも覚えてしまったので、それが発行したような物だと瞬時にわかる。正直、視界不良で助かった。何が周りにあるかなんて見たくもない知りたくもない。
足に引っかかった物が何かも知りたくない。靴が溶けたせいで感触がそれとなく伝わってくるけど、知らない知らない。学校の制服が見えたけど、きっと気のせいだ。
じりりりりりり。
ベルの音が近づいてくる。無機物が良く噛まないせいか内容物が残りすぎだ。学校の制服、骨の残骸、髪の毛、半端に溶けた内臓。こんなに視界が狭いのに、強烈な存在感が目を奪ってくる。見たくない聞きたくない。知りたくないし理解したくないし。
そんな中でこの電話。無機物が食道に送り込まれているとは考えにくいが、電話線が何処にも繋がっていないのに、鳴っている。
受話器を手に取ると、奥からノイズ交じりの声が届いた。
『もしもし』
『あ、もしもし……え? もしもし?』
人の、声?
お化けとかではなくて?
『黒夢の機能を随分生かしているようですね。私に繋ぐとは』
『貴方は……誰ですか?』
『私の名前を知る事が、今の貴方の状況よりも大切な事ですか。仮想性侵入藥も使って決定的な有効打が見つかっていない……違いますか?』
その通り、と言おうとして言葉に詰まる。電話の主について心当たりはない。声は元々当てにならないとしても、喋り方や事情の知っている領分まで全く未知の人物だ。
仮想性侵入藥は俺達にとって最大最強の秘密であり、極端な話没収されたら打つ手がなくなる。芽々子が俺に渡す個数を渋っているのは気遣い以外にも多分そんな理由があると思う。
『それもその筈、貴方達が『潜失』と呼ぶその怪異は正規の地方ではくらがりさんと呼ばれています。正体を誤認するばかりか名前に惑わされるようでは有効打は得られませんよ』
『くら、くらがりさん?』
『くらがりさんの正体は真夜中に遺棄された子供の幽霊です。本当に幼い、妖精が見えるとかぬいぐるみと会話出来ると言われるような年頃の、子供。くらがりさんは必ず近くに居る一番暗い場所に隠れています。もし目をつけられたらその場所にくらがりさんの欲しい物を入れると遊ぶのをやめて帰ってくれると言われています』
『で、でも黒夢はひそみしつだって』
『彼らは怪異の正式な名前などに興味ありません。黒夢がたまたまその誤情報にアクセスしてしまっただけでしょう。今、貴方は巨大な肉袋の中に居ると思いますが、ご心配なく。貴方の御学友が助けてくれるでしょう。貴方が意識するべきはくらがりさんの隠れてる場所と、欲しいモノです』
「欲しいモノって!?』
『それが毎度変わらなければ答えられましたが、大丈夫。怪異の性質上、答えは必ず近くにあります。見つけてあげたらこう声をかけてください。もう暗いから、お家に帰りましょうと』
それではと簡潔に電話を切ろうとする声を無理やり引き留める。突然発狂したと思われようが頭がおかしくなったと言われようが、まだ聞きたい事があった。
『待ってください! 何で、俺達を助けてくれるんですか!』
『―――新世界構想によって歪んでしまった未来に手を貸すのは、当然ですよ。私に繋いだのはそこの最先端技術です。お礼は彼にでも』
今度こそ待ったはなく、電話が切れた。現実では黒夢など物言わぬ鞄だ。こいつが何を思ってこんな電話を作ったかは見当もしない。怪異を一撃で倒す薬剤みたいな物は作れなかったのだろうか。
「黒夢。お前は怪異に有効なアイテムを作るんじゃ……うぉ!」
胃の中が、反転した。
奈落に続いた落とし穴は一点、地上へと続く脱出口に代わる。だが影響を受けるのは俺だけじゃない。ここに転がる有機物の残骸も等しく外へ。人間の本能で受話器を握りしめたままだが、何処にも電話線が繋がってもいないのに、何故命綱の代わりになるとでも思ったのか。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」
「おい、しっかりしろ! 天宮泰斗! おい!」
「ぐぅ…………もうやだあああああ………………」
「やだじゃねえ! ガキかてめえは! こんな所でくたばったらその辺の死体と混同されるぞ!」
粘液塗れの体が空気に触れると途端に冷えて針にも似た鋭い痛みに切り替わる。そんな痛みに背中をつつかれる勢いで目を開けると、雪乃が猟銃を片手に俺を見下ろしていた。肩や手など一部齧られたと思わしき出血はあるが、重傷とは言えない。
「ゆ、雪乃……死んだ、はずじゃ」
「あ? 死んだ? まあ確かに私も死ぬつもりだったけどよ。なんだか知らんが途中から攻撃してこなくなった。だから外にクラスの奴ら運び出せてるんだ。手遅れなくらい襲われてる奴もいるが、無事な奴は気を失ってる程度で済んでるかもな」
「め、芽々子は……」
「……ああ、それがな。んな仕込みをした覚えも見た覚えもないんだが、首が折れた途端に血が流れてよ。早い話が響希だ。お陰で無機物が無暗に暴れられなくなってる。この屋敷の支配権を持ってるのは今、アイツさ」
「…………?」
「人格のある血液もまた、意思ある器物に変わりはねえ。私が出ずっぱりなんだから今のアイツも同じように耐性があるのさ。とりあえず機能停止してる内に私はクソ共への制裁準備をするつもりだ。お前はどうする?」
「おれ……は」
女子制服の残骸を頭から振り払う。足元で中途半端に崩れているのは……誰かも判別出来ないが、判明している犠牲者からして絵里かもしれない。本当は助けたかったけど、助けられなかった。薬を使っても変えられない。それはまた違う別の最悪を生んでしまう可能性があったから。
みんなに死んでほしくないなんてのは俺の我儘で、契約は違う。約束は守る。俺は芽々子の体の部位を取り戻す為にこんな宵越しの命も持たないような生活に身を投じた。
矜持よりも何よりも、約束を守らない奴は男じゃない。
「………『くらがりさん』を倒す。破壊じゃなくて多分、ちゃんとした方法で撃退する」