遠い未/ 過来/去から
離れているだけはあり、母屋の方は向こうよりずっと豪華で壁の一辺に至るまで綺麗に磨き抜かれている。白亜の壁が夕焼けに照らされ眩しく輝いており、窓から部屋を覗き見る事は出来ない。だから向こう側から仮に発見されても俺からは分からないが、芽々子に逆光は通用しないみたいなので、その辺りの危険性はない。
「おいおい見てみろよ! 面白いもんあったぜ」
「なんだ?」
屋敷から少し離れたところにあるマンホール。それは別に、何処にでもあるような形状と色だ。俺にはとても面白く思えない。箸が転がっても面白い年頃だったら違うかも。
「浄化槽なのね」
「浄化槽? 水を綺麗にするあれ?」
「確かに面白くはないわね。この島には下水道が通ってない場所が多いから浄化槽自体は何処にでもある」
「それ自体はな。お前達、浄化槽の仕組みを知ってるか? 現物を見た事は? この中には必ず一定の水が溜まってるんだ。流れてきた水の分だけ押し流されて、それが外に放流されるって仕組み何だが、考えてもみてくれ。液体上の繋がりがある。三並って奴を一泡吹かせたかったらこれを利用しない手はないだろ」
「言いたい事は分かるけど、マンホールの蓋はそう簡単に開かないわよ。誰でも開けられるくらい緩かったら事故が起きるし」
「だが別にこの島にゃ業者が居ない。自前で技術持ってる奴が居ればそいつが居るけど、基本的には駐在がやってるよな。だがここは森を挟んで隔離されてる。自分で管理してる可能性は十分だ。それならマンホールを空ける道具だってあるだろ」
「……もしも道具を見つけたら私に知らせて。一応、出来るから」
マジか。
芽々子にそんなイメージは全くない。浄化槽の点検が出来る女子高生ってなんだ。少し意外だが、それはそれとして雪乃が言わんとしている事は理解出来る。それは井戸に毒を流すような物で……間接的には殺人になり得る行為だ。出来ればそんな事はしたくないが、今日を乗り越えても三並先輩がまたいつか俺達をターゲットにするようなリスクまで考えると、恐らく邪魔はしてこない今回―――『ひそみしつ』との対決の内に排除しておいた方が良いという事になる。
屋敷の裏には蛇口とホースがセットになっている場所もあり、続く先にはミストシャワーヘッドがついている。これで庭に水を撒いたり、暑さ対策の為に被ったりするのだろう。そう思ったがこの屋敷にはエアコンがあるので、水撒きか水遊びくらいにしか使わないかも。
「おうおう。こりゃいいな。面白くなりそうな予感がするぞ」
「…………満腹になれば食欲は無意味、ね」
芽々子がクロメアの発言を反芻するように呟いた。
「どうした?」
「どう転がっても穏便には済まないと思っただけ。天宮君、今日を生き延びても私達はクラスごと目を付けられるわ。気を付けてね」
「何でだ?」
「今回の怪異は明確に無害……ではなくても、私達には無関係の位置に巣食っている。それをわざわざこんな形で接触させたからには殺したい理由があったという事。殺したい相手が生き延びたら、当然そこには理由がある筈と探られる」
「要約。芽々子様ハ天宮様ニ二年生ヲ犠牲ニシテマデ皆ヲ助ケタイカト聞イテイマス」
誰かを助けるという選択には、誰かを助けない選択も含まれている。選択とは選ぶ事。選ぶとは、選ばなかったモノがあるという事。最後の敵を倒して皆がハッピーエンド。そんな都合の良い結末は存在しない。そんな事は下手すれば小学生くらいから分かるが、それでも俺はそんな結末を求めていきたい。
ただ今は…………そうなるには情報が足りなさすぎる。
幾らでも選択を書き換えられるとしても、正解を知らない事には何も出来ない。本当はそれが一番いいけど、それが出来ないなら出来る範囲での最善を。
「―――やるよ。覚悟する。俺の綺麗事と芽々子との約束は関係ないからな」
「……」
人形の作る表情には機微がない。何か言ってくれないと芽々子の考えなんて到底見透かす事は出来ない。たまに表情が変わって見えるのは幻覚だ。本来はこのように、いつまでも澄ましている。
「有識者様よお。一つ質問いいかい」
初めて来た場所に目を輝かせる子供よろしく、あっちこっち移動していた雪乃が戻ってきた。手には空になったドロップ缶が握られている。さびているし、中身もないし、少し凹んでいて土も被っている。その辺から拾ってきたと言われるまでもない、状況は明白だった。
「私はここでその『ひそみしつ』ってのと対決してもいい。今、この瞬間な。だけど実際の時間帯ではもうちょっと後の事らしい。私達が仕掛けるべきはいつなんだ?」
「…………今までの情報を加味すると、初日では手の打ちようがないと思う。もう水分は補給してしまったから、ね。だけど本来あるべき時間軸に帰った直後、時空はここでの影響を受けて過去に干渉が発生するわ。天宮君の話では薬を使う直前にはカメラにも裏切られていて全滅を狙われたという話だったけど、全滅は避けられる」
「二日目以降の人も助かるか?」
「それは……やってみないと分からない。水を飲まないようになんて言いつけるのも難しいの。私が事情を知ってる風だったらそれこそ人形を探す誰かが私に目をつけてしまうかもしれないし。ただ、過去でやるべき事は―――あれだけね」
芽々子はそれっきり話を切り上げると、用事を済ませたらすぐに響希の家に戻ってきて、箱の前まで俺を送り届けた。
「もう行かせるんだな」
「仮想性侵入藥であまり複雑に干渉を引き起こすと何処がどういう風に変わるのか予測出来なくなってしまうから。制限時間はないけどこれ以上何かを変えるのは博打になる。だからもう、帰るべき」
せめて本人に見送らせるべきだったなと雪乃がバツが悪そうに笑って裏口から帰宅する。周囲の情報を制限する意味で人が周囲から消えるのは正しいが、芽々子は箱に入ろうとする俺の手を掴み耳元で囁いた。
「黒夢を食道の中に落としてきた。あれは自力で採取と分析も出来るから元の時空に戻ればサンプルは十分でしょう。貴方も食道に入って、回収してきて。声は聞こえないだろうけど、やる事は自ずと分かる筈よ」
箱の中に俺の体を押し込んで、後は扉が閉まるのを待つだけ。行く時と違って過去では芽々子が扉を閉めてくれる。彼女は目を瞑って―――何度か虚空に視線を飛ばすと、やっぱり俺を見つめてきてぐいと顔を近づけた。
「な、なんだ」
「幸運を祈ってる。絶対に無事に帰ってきてね―――」
過去と未来の境を繋ぐ箱が閉じていく。帰ってきてねなんておかしな話。俺が行くのはもっとずっと先の未来だ。帰ってくるなんて、そんな事にはならない。言葉の綾だ、分かっている。
「ああ……………絶対、約束する」
箱を再度開けると、物置周辺には凄惨な風景が広がっていた。
「―――ま、真紀さん!?」
スーツ姿の男達が無残に斬殺され、無造作に転がっている。等しく全員首がなく、ブロック塀の上に並べられている。後はてんで状態はバラバラ。腕がなかったり足がなかったり、胴体に大きな穴が開いていたり。足の踏み場もない程の血みどろに言葉を失ったが、箱には一滴たりともかかっていない。当人の姿も消えている。
何をしたのか探し出して問いただしたい気持ちをぐっと抑えて駆け出した。目指すは森の奥、離れの屋敷。三つ顔の濡れ男と違って今度は三人で協力した。大した事はしていない。
未来で判明する情報の提供と、焼却炉の謎の解明。
たったそれだけでも活路は開ける。開かないといけない。学生はすべからく勉学に励むべきで、それを強いられるのが学校だ。犠牲を止めたいからってテスト勉強をやめさせる訳にもいかないし、やめさせたら今度はこっちに戻る気がなくなるほど変わってしまうかもしれない。過去を変えられても過去と未来の行間はどうにもならないのがこの薬の欠点だ。
芽々子は制限時間はないと言っていたが、仮想性という言葉通り、あそこは飽くまで俺にとっては仮初の場所。いつか本来の現実に戻らないといけない。だから薬を使って戻った過去で逐一手直しをして、こっちの方が都合が良いからと本来の現実よりも未来まで過ごしてしまったら、いざ戻る時に本来の現実がある筈のない未来の影響まで受けてしまうようになる。
いや、実際はどうか分からないけど、過去と未来と現在が一つという考え方ならそうなる可能性が高い。三つ顔の濡れ男を思い出せ。あれは未来が、明らかに過去という名の現在に影響を及ぼしていた。
―――芽々子にも、色々聞かなきゃな。
親しき仲にも礼儀あり、と思って無視しようとしたが。駄目だ。この違和感は拭いきれない。落ち着く時間が生まれたらちゃんと聞こう。この薬の事と、彼女の事。
森を抜けて離れの屋敷に戻ってくると、騒ぎはまだ続いている様子。屋内から阿鼻叫喚の声が聞こえてくる。耳を潰したくなるような高音と、血の混じったような濁音だらけの低温と。声という認識さえ疑わしくなる誰かの錯乱。
裏側に回り込むと、焼却炉の扉が開いていた。待ち受けるは大きな肉の管。食料を今か今かと待ち望んでいるかのようで、上から大量の血が降り注いでいる。
「こ、ここに入らなきゃいけないのか……」
覚悟は出来ているつもりだったが甘かった。人間のまともな感覚が―――語彙としてまとめるにはあまりに当然すぎてそれ自体を示すぴったりな言葉がない―――嫌な気持ちが、逡巡を生む。
そんな恐怖を打ち消したのはほかでもない、食堂の奥から鳴り響くノスタルジックな呼び出し音。
じりりりり。じりりりりりり。
今日日聞く事のなくなった音だ。現代はどちらかと言うと電子音というか着信音というか。これはベルが鳴っている。昔の電話、みたいな。正体を確かめたかったら行くしかない。
「…………」
溜まった唾を飲み込んで焼却炉に足を踏み入れる。瞬間、床が肉のヒダが靴を絡めとり、上下に動いて俺の体を巻き込んだ。
「え、ちょ!」
股が裂かれても無事でいられるような体のつくりではない。悲鳴を上げる身体を助ける為に他の部位まで引き込まれていく。
「うわあああああああぎゃあああああああああああああああああああああ!」