仮想的 現想の味方
人には役割がある。芽々子は複数人居る事を活かした情報収集。そして俺は、唯一薬を服用出来る立場から最後まで生き残らないといけない。弁えてるつもりだ。女の子を守るのが男の役目とかほざいている暇はない。俺にしか出来ない仕事を果たした方が芽々子はずっと感謝してくれる。
そんな事は分かっているけど、わざわざ二人が死ぬまで待たないといけない事の苦しさをこれから味わうかもしれないと思うと頭がどうにかなってしまいそうだ。
バタン! パリン! ジャッ!
「いやあああああああああ!」
「助けて! 誰か!」
「あぎゃあああああああああああ!」
クラスメイトの断末魔など聞きたくなかった。それは三つ顔の濡れ男の時も同じだったが、あれは未来を先に知ったせいで目撃しただけだ。今度は過去に戻ってこの現在を書き換えないといけない。俺の活躍ありきの行動である為、芽々子だけは確実に死ぬ。人形の彼女にこんな表現は似つかわしくないけど、俺の中ではやっぱり彼女もクラスメイトで…………少し気になるのは、何故だろう。公に出来ない秘密を共有する事になったからだろうか。
ともかくそうと分かっていてもやっぱり死んでほしくない。仮想性侵入藥のストックは彼女しか所在を知らず、渡されたのは一つだけだ。俺が濫用する事を避けているのだと思う。きっと俺の性格を考慮したのだ。
―――何が起きてるんだ。
ここは離れの屋敷。森を挟んでいるからこの声が届く事はないし、仮に届いても無視する事が正しい対応だ。そう、その対応が正しいからこそ響希は巻き込まれてしまった。島民は皆いい人だけど、響希のように知人の声が聞こえたからと破る程暗黙のルールを軽んじている訳でもない。
屋敷はいつまでも俺の来訪を受け入れるように扉を開いたままだが、見えない圧力が俺を縛り付けている。芽々子の約束なんて関係ない。身近でそれでいて最も強烈な『死』の予感。
それは三つ顔の濡れ男の時には強い潮の匂いとして表れていた気がする。心の準備をする猶予としか思わなかったが、今、分かった。この本能がもたらす危険信号に逆らってはいけない。後悔する。
「あは! はははは! おれ、お、れの指! あああははははははははは!」
「雪乃さん! 助け―――!」
ドン!
「芽々子! そろそろタイムリミットが近えぞ! 早くしろ!」
「天宮君」
窓から芽々子が顔を出す。俺は素早く真下に移動すると、彼女が落とした『黒夢』を―――そういえば鉄製だったのを思い出して地面に落ちるのを待った。持ち上げつつ芽々子を見上げると、彼女の頭部にカーテンが絡みついている。
「後は…………お願いね」
ばきっ、という音と同時に首が絡めとられ、芽々子の体が窓の奥へと引きずられていく。命令に反して助けにいこうとする体を踏み止まらせ、俺は森に向かって一直線に駆け出した。
雪乃は直接目撃した訳じゃないが、恐らく死んでいる。
芽々子は元々死ぬつもりで、そして本当に死んだ。
何もせず家に帰ってもこれは夢なんかじゃない。翌日には全員が引っ越した扱いを受ける? そこまで行くといよいよ不審に思う人間もいる筈だ。いるからなんだ。それで死んだ皆は帰ってくるのか? 俺がやらないといけない。二人は俺を信じて死ぬ事を選んだのだから。
森の抜け方なんて分からないが、その心配は無用だった。恐らく別の芽々子が後ろから道を示すように動いていたのだろう。特定の木の根っこにペンライトが置かれていて、近くには矢印が刻まれている。その方向に走ればいいという事だ。
「『黒夢』! 薬を使ってないからお前とは会話出来ないけど、また力を借りるぞ! お前が居ないと芽々子を……皆を助けられない」
森を抜けて住宅街の裏地に出る。後は響希の家に戻るだけ―――
スーツ姿の男が三人、立っていた。
今度は遠目からではなくて、正面を阻むように。
「な、な」
今まで気にした事もなかったが、夜間は視界が制限されるから気になる筈がない。雪乃が感じた視線ってもしかして……こいつらの事だったのか。佇んだまま動かないので横を抜けるように一度大通りに入る。角を待ち伏せるように二人。一人はスカートを履いているし骨格も女性のそれだが、顔は男と全く同じだ。
「っあぶね!」
一人、二人、三人、四人。道を行けば行くほど、人が増えていく。追い込み漁をされている事なんて随分前から気づいていたが、打開する術はない。俺はこの男達に誘導されるようにただ走らされている。
―――こいつらも怪異なのか!?
実害がないだけ? 相互認識はいつ果たした。でも、いや、違うなら違うで…………こいつらは一体何者なんだ!
響希宅の物置までやってきたが、同時に囲まれた事をなんとなしに悟っている。全員が俺を見つめている。佇んでいる。動く所は見えないのに、確かに距離を詰めてきている。これじゃあ箱の中に入って薬を打つなんて出来ない。
「なんなんだよお前らは! どっか行けよ!」
「どっか行けよ! 俺にはやるべき事があるんだよ!」
ザッ。
全員が一歩を踏み出す。足並みの揃った大きな一歩が空間を隔離するように刻まれた。ザッ、ザッ、ザッ。囲う円が小さくなっていく。一か八かの攻撃はアリだろうか。『黒夢』は鉄製の鞄だから振り回せば鈍器にはなるけど。でも有効かどうかは分からない。
逡巡する時間も惜しいというのに、俺一人でこんなのを対処するなんて―――
「やあ~やあ~。いい大人がこれだけ揃って若者虐めとは感心しないねえ。おねえさんは汚い大人だけど、こんな現場を見たら声をかけない訳にはいかないよね~」
男達の外からゆるふわな声が聞こえる。正面の男の肩が掴まれた瞬間、男は振り返りもせずに背後の手を掴み返している。傍目にも血管が浮き上がって筋肉が膨張しプルプルと震えているが、声の調子は変わらない。
「お、力が強いね~。ようやくおねえさんを相手する気になったかい? そうそう、泰斗君はテスト勉強で忙しいからさ~悪い遊びはおねえさんのお店に寄っていきなよ」
「ま、真紀さん!」
「と~り~あ~え~ず~」
もう片方の手が男の首を握りしめると、握力だけで首の骨があらぬ方向に潰された。穴の開いた包囲網の内側に、酒に酔ったような千鳥足で真紀さんが入ってくる。転ばない為か、杖を突きながら。
「駄目です真紀さん! こいつらは何してくるか分からない危険な奴で……」
「まあまあ。事情は知らないけど泰斗君が危ない目に遭ってるのを見て放っておけるおねえさんでもないさ。今日起こった事はオフレコで頼むよ~。仕事に向かおうかどうかって時に私もクビになりたくないし」
「…………」
この人を、信じるべきか?
真紀さんは、明らかに何かを知っていそうな駐在警官に同伴していた事実がある。敵側の勢力という可能性も否めない。だけどこの人の助力なしに男達の包囲に対処するのは不可能だ。移動している所は今見たばかり。箱に入ったその瞬間こそ袋小路であり、外から開けるタイミングは幾らでもある。薬を打てない。
「…………ま、真紀さん! 俺は後ろにある箱の中に入りたいんです! その箱、絶対に開けられたくないんです! こいつらに指一本触れさせない事って出来ますか!」
「ほお、変わった注文だね~。おけおけ。泰斗君の点数は私が守ってあげましょう。早く入りな~」
俺は、真紀さんを信じる事に決めた。というか今は、その選択肢しか有り得ない。この状況でわざわざ助けに入ってきた事実が、他のどんな状況よりも信頼に足る。
箱の中に入ると、『黒夢』を抱えながら中に落ちていた注射器を首筋に。真っ暗闇の中で目を瞑り、全ての感覚を体の内側に集中する。戻るべき時間は初日。離れの屋敷にクラスメイト達が行った日で、俺が初めて響希の部屋にお邪魔した時間帯。
…………………
………………
…………
「………………真紀さん?」
返事はない。恐る恐る扉を開けると、まだ日が沈もうかどうかという時間帯。学校が終わってすぐの事。一度雀子と和解した後に家に向かったのだった。時間が戻っている事は明らかだが、本来この瞬間には存在しなかった箱と俺達が居る事が、未来を発端に過去が書き換わった証でもある。
「……成功した、のか?」
「肯定。ココハ雪乃響希ノ物置デス。仮想性侵入藥ハ無事ニ効力ヲ発揮シ、ワタシ達ヲ過去ヘ導キマシタ」
「クロメア……」
「芽々子様ノ元へ参リマショウ。事情ヲ話セバ協力ガ望メマス」
「…………私はただアンタとテスト勉強したかっただけなのに、何でこうなるのよ」
「今度は私も怪異討伐に参加出来て嬉しいわ。三つ顔の濡れ男では死んだままだったから」
たとえここが薬でトんだ世界だとしても、二人にとっては現実世界に相違ない。響希は面倒事がやってきた事にうんざりして机を叩いている。俺も彼女も本来は勉強したかっただけだから、気持ちは痛いほど分かった。
「なんで! 怪異って! 奴は! こんな! 面倒! なの! 人間様! の! 都合も考えなさいって!」
「落ち着いて響希さん。私達が死なない為に天宮君はやってきたの。協力しないと無駄になってしまうわ。私の事だから、薬はどうせ一つしか渡していないし」
「…………はあ。これが現実じゃないって信じられないけど、だったらする意味なんてないか。私はどうせ勉強しなくても点数取れるし」
響希は教科書を閉じると、心底がっかりしたように溜息を吐く。
「いや、現実じゃないっていうか現実ではあるんだよな。ただ何もしなかった場合同じ未来を辿るってだけだ」
「薬の影響で現実を形作る観測者は天宮君一人だけになり、過去と未来の境目が曖昧なの。過去の選択が未来の結末を、未来の結末が過去の選択を変える。あの薬を使えばそれが出来る」
「あんまり分かろうとしなくていいよ響希。俺もふんわりと理解してるから。科学的にあり得ないとかじゃなくて、現に出来てるし。それで今度の怪異だけど……」
「私ガ取リ込ンダ痕跡カラ今度ノ怪異ハ『ひそみしつ』ト断定。能力ハ無機物ニ対スル衝動ノ扇動。相互認識ヲ果タシタ生物ハ周囲ノ無機物ヲ引キツケル好物ト認識サレルヨウニナリマス」
「鞄が喋ったわ!」
「認識されるとどうなる?」
「本来ノ浸渉デハ気付キヨウモゴザイマセン。物ニ触レタラ必要以上ニ怪我ヲスル程度デス。齧ラレテイルトイウ認識デ問題ナイデショウ」
「物に食べられるって…………でも消化器官なんてないでしょ?」
「ああ。だから家具を壊してみると血肉が沢山詰まってたよ。狙われた人の死体は跡形もなく消えてたんだ。血液のシミはまあ……布団が沢山飲んだ? だけど、飲みきれなかったんだろうな」
人の体の大部分は水分だ。それを幾ら無機物が求めた所で、その物の大きさには限界がある。無機物は無機物でしかなく、生きるも死ぬもなく、そこには本来食欲など存在してはならない。
「シカシ今度ハ浸渉ガ著シク進行シテイマシタ。コレハ支配サレタ無機物ノ内、飲料水ガ含マレテイタ事ガ原因ト考エラレマス」
「影響を受けた飲み水を摂取していたから、という訳。ウイルスを自分から取り込めば症状も早く深刻化する。当然の帰結ね」
「芽々子に言うのも変だけど。向こうには冷蔵庫の中に水やお茶がある。それに直接見てないけど大浴場もあるんじゃないか? 皮膚吸収も考えたら、心当たりは幾らでもあるぞ」
「それ、水に触ったらアウトって事? 無理じゃない?」
「だから未来では全滅したのでしょう。いいえ、問題はそこじゃない。屋敷全体がそうなっているなら、離れの屋敷その物が人間を餌にするトラップハウス。それを捕えているのか飼っているのか、いずれにしても三並先輩が事情を知らないとは考えにくいわ。もう向こうでは何人も水を飲んでいるし、今更止めようなんて不可能」
「クロメア、どうやって倒すんだ?」
「芽々子様ガワタシニ入レタ痕跡デハソコマデ導ク事ハ出来マセン。提案、食欲ヲ解消サセル事。満腹ニナレバ衝動ハ無意味デス」
「………………」
「芽々子?」
「思う所があったの。向こうの屋敷は誰も使ってないという話だったけど、生活ゴミがまとめられていてね―――」