今に過去も未来もありえない
仮想性侵入藥には一つ重大な欠点がある。それは適切な使用方法を選んだ場合、周辺情報を極端に制限する閉所が存在しない事だ。要するに人一人が閉じ籠れる場所があればいいだけでそれ程重い問題ではないが、例えば芽々子や響希が殺されるような状態の時、俺は逃げ延びて無事使用する事が出来るのか?
効果は即時発揮される訳ではないだろう。だから追いかけ回されている最中に使うなんてのは、多分不可能だ。前提も結果も変えられるが、いざその時になったら、その時だけは変えられない。電撃戦という言葉にはそういう意味が込められている。
「雪乃はその……内なる人格ってやっぱり相談とか受けるもんなのか?」
「あ? 響希をそんな多重人格者にしてやるなよ。私は飽くまで切れ端で、場合によっちゃ猛毒になる。信頼に足る存在じゃねえよ。だけど決断は良かったな。暫く一人にしてほしいと思ったなら、身体を私に渡すのは大正解だ」
響希はまた瓶の中に。今度は自分から、閉じ籠るように替わってしまった。何もしてやれない自分がもどかしいがそれよりも気にしないといけない事があるのがまた厄介な話だ。
夜になるまでする事がないから勉強をしようとは言われたが、響希がいないのでやる気が出ない。雪乃にも『少し椅子を離れただけで席をパクられたら怠い気分になるだろ』と言って乗り気ではなかったのでそのまま無為に時間を過ごしている。勉強をしている時はあんなに時間が早かったり遅かったり乱高下していたのに、何もする事がないとこんなにも均一的に遅いのか。
「偽物と本物を見分ける方法はあるか?」
「今回複数人が被害になるようなら推定偽物として全員殺害。それからの事は後で考えましょうか。以前貴方に作ってもらった箱はこの家の物置を壁に隠してるあるわ。中に薬を入れてあるから、もし緊急事態で私や響希さんが殺害されるようなら急いで戻って。振り返らずにね」
「……俺が助けなきゃいけないのに、凄く丁重に扱われてる気がする」
「唯一薬を使えるんだから仕方ねえだろ。それに天宮泰斗。偽物はまだしも本物をお前に殺せるとは思えねえ。何事も役割だ。私だったらちゃんとやってみせるよ」
殺すと言えば、雀子に協力を求めなかったのはひょっとするとまずい判断だったかもしれない。頼っておいて何だが、せっかく俺を信じてくれた子を殺しの道具みたいに扱うのは人間としての振る舞いが下劣だと思ってしまった。
多分頼ったら乗ってくれる事も加味した上で頼らない。大丈夫。殺しても薬を使って選択肢を変えてしまえばいい。過去の選択が未来を変える。未来の結果が過去の選択を変える。眠いから寝たのではなく、寝たから眠い。仮想性侵入藥と付き合う上では大事な理論だ。論理性なんて考えるべきじゃない。どうせ眠れなくなるだけだ。
コロシタジジツハカワラナイ。
「そろそろ夜になるわ。そういえば天宮君は屋敷に入った事がなかったし、案内しましょう」
芽々子は猟銃を雪乃に渡すと、俺の手を引っ張って無理に立ち上がらせる。
「私の手を離さないでね」
部屋の電気を消すと、雪乃がなりきって声を上げる。
「二人共! 私、泰斗を送ってくるから!」
「おーう」
「はーい」
裏口からお店を出て、箱を目視で確認する。使った時は芽々子が近くに居たから人の有無は関係ない。ただ恐らく、移動前に箱を開けられるのは駄目な筈だ。情報をいつの間にか移動している、その不明瞭性こそが大切なのだと、理論を聞いて自分なりにそう解釈した。うっかり響希の両親にでも開けられたら目も当てられないので、用事を作っておいて損はない。
「ここから遠いのか?」
「遠くはないけど、森を経由するから近くもないわ」
「近道をしようと思ったら人間らしくは居られないけどっなっ!」
雪乃が平然とブロック塀を乗り越えて森の方へと向かっていく。方向は合っているようだ。芽々子を一瞥すると、彼女は俺に自分を抱き上げさせて同じように飛び越えてほしい様子。
人形の体は軽かったが、夜でもないとこんな事は出来ないな、と思う。
「私が殿をやる。お前たちは先を進め」
「し、しんがり?」
「誰か、私達を遠くから見てやがるぞ」
ここには面白半分で試すような怪談も噂もない。だがその一言で十分以上に背筋が冷えた。蒸し暑い夜でも例外はない。
「じゃあ行かない方がいいんじゃないのか……? もし芽々子を追ってる勢力なら大変だぞ」
「貴方、感知も出来るの?」
「へっ、覚えておきな。怪異は見られる事に敏感なんだよ。どの方向、誰が、どうやって。全部分からないが誰かが見てる事は分かる。随分詳しいお前なら、知ってると思ったけどな」
「…………知らない事もあるのよ。何にせよ誰かがついてきてるなら都合がいいわ。このまま向かって森の中で撒く方がいい。道を間違うと浜の方に出てしまったり何やら寂れた墓地みたいな場所へ出るから。念の為にライトはなしで」
「本気か!?」
「だから手を離さない事」
離すとか離さないじゃなくて、木の根っこやぬかるみのある地面に足を取られる事を怖がっているのだが伝わらない。夜目が利くのか知らないが俺にとっては目隠しをしているのと何も変わらず、ただ鬱蒼と生い茂った暗い森の中を強引に進まされている。
森を抜けるのにかかった時間は十分と経たなかったが、その間に八回も足を取られた。怪我はしていないが心がボロボロだ。そんな中見上げた離れの屋敷は、俺達を待ち受けるように佇んでいる。
「私達を見てる人は?」
「今は大丈夫そうだ。そっちこそ、カメラは何を映してる」
芽々子は首を引っこ抜くと中にしまっていたパソコンを取り出し、仕掛けたカメラ映像を確認する。
「…………ちっ」
にわかに雪乃が舌打ちをする。静寂を破る破裂音に俺達の視線が引き寄せられた。
「どうしたの?」
「音が聞こえねえ。私と入れ替わってるからだな」
「…………? カメラ映像に変化はないけど」
雪乃は俺を一瞥すると、確認するように声を荒げた。
「気づいてんだろ天宮泰斗! お前にだけは声が聞こえる筈だ!」
そう、俺には声が聞こえている。複数、それも尋常ではない数。どの部屋から聞こえるかなんて識別できない。どこもかしこも、まるでこの屋敷全体を覆うように数多の声が聞こえる。
ただ言い出せなかった。百聞は一見に如かずとは少し違うが、カメラ映像には何の変化もない。
「き、聞こえる! 沢山聞こえる! でもどういう事だ。カメラには映ってない! アイツみたいに襲われてる映像が!」
「カメラだって無機物だろうが! 話は簡単だ。私が突入した事でこっちの悪知恵がバレたんだよ、カメラも敵だ、信用ならねえ。突入するぞ」
「…………まさか、そんな事って」
「意思ある器物はお前だけだ。こりゃ、頑張って皆殺しコースか?」
猟銃を構えて、雪乃が一足先に屋敷へと入っていく。最早遠慮など必要ないかのように、ドアノブを銃で破壊して。芽々子はパソコンを閉じると、わざとらしく息を吸って立ち上がり、俺の方を向いた。
「天宮君。二階の窓から私が『黒夢』を投げるから、それを受け取ったら一目散に箱の方へと向かって。出来る限り痕跡を集めるから、後は仲良くね」
「わ……分かった………………………し、死ぬのか」
声が密やかに震えていく。慣れたという言葉は、決して耐性とイコールではない。言葉通りにどうか受け取らないでほしい。それは強がりでもあり、思い込みでもあり―――心が壊れている証拠というだけだ。
芽々子は一言。俺の頭を撫でて、去っていく。
「生きる為に死ぬのよ。ただそれだけ」