君のキメラ
「…………」
「お茶でも飲む?」
「ここ、響希の家だぞ。勝手に冷蔵庫を開けてやるなよ」
自分事でもないのにびっしょりと汗を掻いてしまった。夏だからは勿論ある。エアコンのない空間ほど暑い場所はない。扇風機程度ではどうにもならない猛暑だ。打ち水で多少なりとも対策されているが、緊迫感までは解決出来ない。
「……正直、この家の家具まで怖くなってきた。あんな事ってあるのか? もう噂とか関係ないだろあんなの」
「浸渉が深化した結果、無機物の大好物に代わってしまったのでしょう。でもそれは単なる症状の観察であって、考えるべきはいつ、どこで相互認識を果たしたのか、何故あそこまで早く症状が進んだのかね」
怪異は相互認識―――互いに居ると認めない事には始まらない。それは怪異をルールと称する発言に則るなら、合意と言ってもいい。そのルールに従ってもいいという合意が執り行われて初めて怪異は干渉出来る。柳木は以前から怪異を知った風だったので襲われてしまった。家族は―――死因が違うので何とも。
「私の知る限りあの家で怪異を見たという話は聞かないし、当然噂もない。どうしてあの三人だったのかしら。私はそもそも声が聞こえない時点で仮に対象に選ばれていてもそれすら認識出来ないとは思うけど……」
「ランダムに三人って事なんじゃないか?」
「ランダム? 本当に?」
確証はないし、それだと毎朝一人だけ扉が開かない事にも説明がつかない。仮に複数人襲われていたとして、何故一人だけ身代わりのように不自然な状況を作るのか。
―――芽々子が分からないなら誰も分からないよな。
だから俺も、無責任な発言をするしかない。
「……無作為なんてあり得ない。怪異は機械じゃなくて意思ある怪物、もしくは事象よ。三人が対象だったなら、少なくとも三人は条件を満たしたと考えるべき」
「んだよ。私を置いてけぼりにして二人仲良く考察かぁ?」
芽々子が一人の世界に没頭するかしないかのところで、裏口から爆速で階段を駆け上がってくる音。間もなく雪乃が全身ずぶ濡れのまま姿を現した。この雨の中、傘も持たずに行ってきたのなら帰ってくる時もそのままで良いと思ったのだろうか。響希は女性だけど、雪乃のガサツさは男性に近くて、実際の所どうなのか不明だ。名前はだって、響希のだし。
「この雪乃様を労う言葉はないのかよ。私はちゃんと約束を果たしたぜ」
本当に、後もう一歩だった。
彼女(便宜上)が部屋に入った瞬間、航の部屋は悪夢から覚めたように勢いを失い、彼は一命を取り留めたのだ。俺達が呑気に考察を重ねていたのも助かった事が分かり、病院へ連れていくと約束してくれたからである。
「ありがとう、雪乃。距離的にも間に合う奴がお前しかいなかった」
「そうでもねえだろ。芽々子だって向こうに居たし、今回のは密室を解除してやれば収まったんだぞ。まあ結果論だがな。入ってくる奴もまとめて巻き添えにするんだったらやっぱり私の方が良かったって結論になっちまうし」
「ありがとう。響希さんの為にもシャワーを浴びてあげて。それから話を聞くから」
「戻んのはもうちょい先になりそうだな」
再び雪乃が階段を下りていく。扉も開けっ放しなので彼女が脱衣所に入る音までしっかりと聞こえてきた。代わりに俺が扉を閉めていると、芽々子が声を潜めて言う。
「あれを離れに入れたのは私だから言うけど、中々どうして便利な能力を持ってくれたわ」
「人格が変わって耐性を得ただけなのがそんな便利とは思わないけど。響希はああ見えて怖がりだから、そういう意味じゃプラスだな」
「それだけじゃない。カメラを見ていたら気づかないだろうけど、雪乃にはどうも雨の中という限定状況での迷彩能力があるみたい。実際に扉を叩かれるまで私も到着を感知できなかったから、道中に監視者が居ても気づかれなかったでしょうね」
「……だからずぶ濡れなのか!」
ガサツだと決めつけた自分が恥ずかしい。雪乃は自分が出来る最大限を用いて帰ってきただけじゃないか。元の体の持ち主である響希に迷惑をかけまいと。その件に関しては一方的に俺が悪いが、身体が濡れる事には変わらないので体調を崩すリスクはある。あまりこちらに都合の良い能力とも言えないと思う。
夏には梅雨と呼ばれる時期もあるけど、それでもこの島はどちらかと言えば雨が降らない方だし―――まあ能力の詳細なんて後で本人に聞けば済む。味方の力をあれこれ考えても意味がない。
「よお、戻ってきたぞ」
三〇分程待っていたら雪乃が帰ってきた。人格が変わったからと言ってシャワーを浴びる時間に変化はないようだ。シャンプーの爽やかな匂いがまだ髪に残っている。
「手短に終わらせようや。何が聞きたいんだ?」
「花嘴君(航の事だ)は何処に?」
「病院に運んどいたぞ。私の姿は誰にも見られてない。驚いたか? 全身が濡れてる時に限って任意で透明になれるのさ」
芽々子の方を見遣ると、彼女は気まずそうに目を瞑っていた。考察が外れて、恥ずかしくなっているようだ。
「三つ顔の濡れ男にそんな能力なかった気がするけど」
「放射性の蜘蛛に噛まれたから蜘蛛の能力が手に入ったような発想だな。別に間違っちゃいねえと思うが、使い方の問題だろ。あっちは液体干渉が出来るらしいし、液体を介して何かしてるのは同じだろうが」
「あんなに騒がしくしたのに、誰も起きなかったわね」
「聞こえてねえんだろ。実際、私達も中に入らなきゃ異変に気づかなかったんだしな」
「本当に何の抵抗も受けなかったのか?」
「おう。相互認識をしてないからだと思うぞ。すぐに出て行ったんで分からないけど…………今日はギリギリ死人も出てねえし、明日調べてみろ。鍵は私が無理やり壊したから妙な作業する必要もないぞ。多分、問題があるのはあの屋敷じゃねえかな」
「みんなにお知らせがある。知ってる者もいると思うが花嘴が引っ越した。最近本島に引っ越す人間が多くて先生は嬉しいやら悲しいやら―――――」
途中から、言葉が右から左にすり抜けていくようだった。
HRでそのお知らせが入る意味は一つしかない。だって、入院中の栄子達にそんな通知は来なかった。誰も気づかなかったという考察は正しく、参加者は『勉強会に参加してたのは思い出作りだったんじゃないか』と納得している……ああ、これは順序が逆だ。そう思わないと辻褄が合わないというだけ。そして辻褄が合うからと言ってそれが事実とは限らない事を知らないだけ。
薬を使えば、助けられる?
病院にさえ運ばなければいいのなら可能だろうが、それじゃあ一体どこに運べばいいのか。仮想性侵入藥に制限時間はないが個数は有限だ。怪異について知らなければ正解を選べない。正解が分からないまま行動するなら求められるのは試行回数であり、それを稼げる程薬がない。
「………………!」
悔しくてつい机を叩いてしまった。怪しまれないように頭も一緒にぶつけて、寝不足のように振舞いフォローを入れる。響希が一瞬申し訳なさそうに目を伏せてこちらを一瞥していたが悪いのは彼女でもないし雪乃でもない。栄子達がまだ無事な様子から、病院は安全地帯であると誤認した俺達が悪い。救出を選ぶには情報が足りなかったのだ。
「天宮、寝不足って感じ?」
「ん…………」
百歌には悪いが、意識が散漫している風を装わせてもらう。心ここに非ずなぼんやりした返事をしたつもりだが、彼女は構わず話を続けた。
「花嘴が引っ越したなんてびっくりだよネ。全然そんな兆候なかったどころか、明日は早起きして自習するなんて息巻いてたのにさ! ……偶然の連続だろうけど、最近引っ越す人が多くてちょっとブルー。本島に憧れるのは分かるけどさ、寂しくないのかな。引っ越す人は」
「…………寂しさなんて感じないだろ」
俺みたいに望んでその選択をした人間でもないし。そもそも寂しさを感じる余地もないだろう。彼らが最期に抱く感情は恐怖やら不安やら、およそ体を蝕むような感情の終着点ばかりだ。
携帯に何やらメッセージが入ったので殆ど反射のようにスリープを解除して中身を見る。芽々子からだ。写真には病院のベッドが映っており。
マットに、黒いシミ。そして周囲の至るところに血痕が付着していた。