形代の来未と地図なき未来の恋に落つ
「…………おーい。形恋。起きろ。朝だぞ」
「……うーん。おにいちゃん、眠いよお」
「確かにお前は寝なすぎだけど、今日だけは起きてくれ。時間だ」
時刻は朝の五時。やはりバイト漬けで慣れてしまった時間帯に身体は起きてしまうようだ。素早く起きようとしたが、妹が引っ付いて離れない。目の隈も少しは薄くなったかもしれないが、それは思い込みかもしれない。とても眠そうに眼を擦っている。
「……うーん。五分。後、五分…………」
「アイドルが聞いて呆れるな、分かったよ。お兄ちゃんが料理作るな」
こればかりは無理強いするものじゃない。妹の手を引き剥がし、冷蔵庫のあまりものからなんとなくメニューを考える。サンドイッチとかでいいだろうか。それくらいしかバリエーションがない。
挟む食材は卵とレタスとハム。これに限る。軽い贅沢をするつもりでハムを三枚ほど重ねて、手際よく挟んでいく。自分で料理をするのもずっと昔の出来事だったような気がしている。あまりにも濃密な数か月だった。
「……おにいちゃん、おはよ」
「起きたか」
振り返って妹の顔を見ると、メイクで隈を隠していないせいかかなり目つきが悪く見える。だが久しぶりに眠れたお陰で声はふわふわしているし、どことなく機嫌も良さそうだ。精神的に安定しているならそれでいい。
「ご飯なら私が作るのに……」
「いいよ。無理に起こす俺もどうかしてる。お前はようやく解放されたんだ。好きなだけ眠ればいい。よく眠れたか?」
「うん。お兄ちゃんと一緒に眠れて私幸せだよ。えへへ、こんな安心したの生まれて初めて!」
「それは良かったな。じゃ、食べるぞ」
目つきは悪くても笑うと可愛い。それが形恋の良い所だ。会った事も話した事もない割には気が合うというか、話しやすい。両親然り、家族であっても相性の善し悪しはあるので、そういう意味では最高だ。
「おにいちゃん、こんな所で生活してたんだ。大変だったね」
「大変は大変だったけど、楽しかったよ。色々あったけど……バイト漬けの日々はなんだかんだ、大事な思い出さ」
「船の上では、私がおにいちゃんの生活を見てあげるねっ」
今日、俺達はこの島を発つ。
積荷などは予め済ませておいた。それもこれも霖さんが新世界構想の完全再現により仮想世界の物資をこちらに移動させてくれたお陰である。荷造りも十分。元々大した荷物はないから、二人も居れば十分運び込める。
「そろそろ行こう。出発は早い方が良い。俺が、名残惜しくなる」
「……ごちそうさまでした。じゃあ、行くんだね?」
「ああ」
部屋を出て、港の方まで歩いていく。再現されたのは街並みだけで、別れを告げるような人もいない。仮に居ても、話さない方がいい。覚悟が鈍ったらそれまでだ。
「おはよう、天宮君。形恋ちゃん」
一番乗りのつもりだったが、芽々子は一足早く船の甲板に乗り込んでいた。手すりに腕を置いて、俺達を見下ろすように手を振っている。
「芽々子! 早いな」
「私にとって睡眠は娯楽か、もしくは再起不能だから。忘れ物はない?」
「ああ」
渡り板から船に移り、割り当てられた部屋まで移動する。当然だがこれは大破した船とは別の船だ。霖さんが手ずから作ってくれたクルーズ船であり、一人で作る時点で滅茶苦茶だ。新世界構想の提唱者は全くルール無用で、最初見た時は思わず笑ってしまった。
「凄い広い!」
「腕によりをかけすぎなんだよなこれ…………」
あまりにも船上生活を望まれた空間は最早第二の自宅であると言わざるを得ない。妹がごねて仕方なかったので部屋割は同じだ。少し恥ずかしい気持ちもあるが、兄離れ出来るようになるまでは何処までも甘えさせようと思う。もう、唯一の家族だ。俺達の暮らした現実が確かにあった証明は、お互いの存在でしか得られないのだから。
甲板の方に上がると、芽々子が俺を―――いや。
「やあ~泰斗君。おはよう~」
「後輩君。意外と遅かったね」
下からでは見えなかったが、真紀さんと三姫先輩が机を挟んで優雅なティータイムを楽しんでいた。また会えた事は嬉しいが、それ以上に何も聞いていない。戸惑いが先行していた。
「な。何してるんですか!?」
「湍津鬼に私達も今後の展望を聞かれたんだ。外があんな世界じゃ私は天涯孤独の身だし……ここに居るくらいなら君の用心棒としてついてきてあげようと思ったんだよね~ ぬっふふふ~」
「私は…………事情を知らなかったとはいえ、元々島は出たかったし。あ、部屋で寝てるけど丹葉も来てるよ。一応ね」
「外に行きたい人は何も貴方達だけではない、という事よ。どうせこの船は広くて持て余すんだから、いいじゃない」
「…………この流れだと響希もいそうなもんですけど」
でも彼女はそもそも成り行きで巻き込まれた形だ。この島の生活に不満を持っていた訳じゃない。来なかったとしてもその判断に口を出す筋合いはないと判断し、甲板の端に凭れかかる。
「―――何も聞いてなかったから芽々子と俺達の三人で出るもんだとばかり思ってたけど、これで全員か? だったら出港しよう。朝日が昇る前に島を出た方が、アイコの寝覚めもいいだろうからな」
「じゃあ、私は操舵室に行くわね。大丈夫、一通りやり方はインストールしてもらったから」
芽々子の背中を視線で見送り、後は出港を待つだけだ。やる事もないので、妹を抱き上げて記念写真を撮る。きちんと他の皆も移りこむように。
ぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。
出港を知らせる汽笛の音。船はゆっくりと動き出し、島を離れるように突き進む。
「…………おかしいな」
「おにいちゃん、どうかしたの?」
「アイコは餞別があるって言ってたんだ。てっきり出発前に渡してくれるもんだと思ってたけど、案外船の何処かに置いてあるのかな」
「それって、これの事?」
「なんだもう見つかってたのか。あり―――」
何気なく古ぼけた紙を受け取ってから声の違和感に気づいて顔を上げる。雪乃響希が悪戯っぽい笑顔を浮かべて紙をすかさず取り上げた。
「響希!」
「もうとっくに乗ってんのよ。本当はもっとサプライズな感じで登場したかったけど……色々とね。服とか」
「服?」
確かに霖さんを思わせるようなワンピース姿になっているが、だからってそこまで時間がかかるようには思えない。何かニヤニヤしている様子だが、その意味を知るのはもう少し先になったりするのだろうか。
それと餞別だが。宝の地図だ。古ぼけた紙には本物の芽々子が見つけたもう一つの島について記されている。何でも、彼女が介世島を会社に教えたのはこちらの島の存在を悟られないようにする為らしい。親の干渉が届かない場所が一つでも欲しかったとの話だ。この船の目的地はそこになる。現実は変わり果ててしまったが居場所は作れるのだ。一から皆で生活を築いていこう。大変かもしれないがきっと何とかなる。
やり直すことなんか、出来なくても。
「おおおおおおおおおおい! 泰斗おおおおおおお!」
二人して船の外―――島の方角へと身を乗り出したのは拡声器を通した大声がしっかりと耳に届いたからだ。砂浜に、仁太が立っている。いや、それだけじゃない。クラスメイトの皆が、漁師が、介世島の住人が一堂に会し、俺達に手を振っていた。
「色んな奴らがひっこしたけどお! ようやく見送りが出来るぜ! 元気でなあああああああ!」
「響希ぃぃぃぃぃぃ! 実は俺、お前の事がすきだったんだああああああ! 幸せに、なれよおおおおおおおおおおおお!」
「何処に行くのかわかんねえけどしっかりやれよなああああ! たまには顔見せたっていいんだぞおおおおおおおおお!」
拍手喝采も斯くやと思う程の声援。等しく全員が俺達の船出を受け入れ、背中を押してくれる。その中には霖さんの姿もあった。
―――ありがとう、ございました。
手を振り返す。或いはその全てに。もうきっと、二度と会う事はないと知っていたから。
「…………何だか帰りたくなっちまうし、中に戻るか」
「へえ? アンタでも恥ずかしいとかあるんだ?」
「うるさい。妹の前で泣く訳にもいかないだろ」
朝焼けの照らす始まりの島。仮想にして現実、未来を操る桃源郷。背を向けて、今度こそ振り返らないつもりだった。
階段に足を掛けた頃、喝采の音は消え、静寂が周囲を包み込む。たまらず振り返ってみれば、水平線。何処までも続く、蒼い空。
大海や 仮想世界が ユメの跡
目覚める時が来ただけだ。俺達は、忘れたりしない。
階段を下りて船内に続く扉を開くと、部屋に来客があったようだ。扉を開けようとしたら、それを察知したように内側から開かれた。ああ、こんな事が前にもあったような。開けて中に足を踏み入れると、長い長い尻尾が、部屋の奥へと引っ込んだ。
「センパイ、ボク、ついてきちゃった――――――――――――――!」