ユメの世界
港近くは包囲網というよりは壁と言った方が適切な程の黒服が集まっていた。時間帯は夜だが道路を横断してまで俺達の出港を防ぎにかかる月宙社の人間は大層目立つ。普段はそれほど人通りもなさそうな場所だというのに、カメラを回す人間までもがその壁の外側にまで集まっていた。
それらの中心では港の入り口で真紀さんが大立ち回りをしている。船の中にでもあったのかバールを片手に殺陣と呼ぶのもどうかと思えるような虐殺を展開していた。
「げげ、これじゃ入れないな」
「何故だ」
「いや、入れないよこれは。お前だって普通の人間なら死んでる状態だし。鏡を見ろ、人間型のハチの巣みたいだぞ」
眼も耳も鼻も碌に機能はしていないだろうが、怪異であるアイコには何の関係もない。とはいえそれは事情を知らない野次馬にとっては好都合だ。相手が痛がっているとかなら良心を働かせる事もあるだろうが、ケロっとしているなら特殊メイクか何かと勘違いして野次馬根性を働かせる人間ばかりだろう。
近くのマンションの非常階段を高台代わりにしているから今は目立っていないだけだ。位置がバレなくても港の中まで行けなかったら関係ない。足元に黒服が来てしまったら降りる事も出来なくなる。
―――何があっても、お前の信頼に応えるよ。
アイコに会わせようと思ったのはほんの軽い気持ちだったのに、ここまで強硬手段に出られると俺も頑として妹は渡したくなくなった。事情とか無関係に、思い通りになるのが嫌だ。力を見せつけて逆転は不可能だと示せば相手は従順になる―――その傲慢さに、俺は蹴りの一発でも入れてやりたい。
直前まで妹が落ちそうだったので一度抱え直したが、まだ俺を信じてくれている。どうかそのまま起きないでほしい。こんな騒動なんてなかった。妹には無関係な話だ。
静観したくてしている訳じゃないが名案も浮かばない。今も黒服達が続々と集まりつつある。ただならぬ状況を察して警察に通報する人間も増えてきた。通報はその件数が多ければ多いほど正確な状況も把握しやすく只事ではないと伝わるだろう。警察が来たらいよいよ収拾がつかない。
「仕方ない。もう無理やり突破しましょう。スマートな解決方法なんて早々思いつく筈ないんです」
「……致し方ないな」
階段を下りて野次馬の後ろにつく。全員が目の前の光景に釘付けの中、黒服に気づかれる事も厭わず大声を上げた。
「おまえらああああああああああああ! どけええええええええええええええええ!」
アイコに啖呵を切った時以来か。こんな大声を出したのは。野次馬達が振り返ったのは俺の声が原因だが、その後にどいてくれたのは妹の存在が目に入ったからだろう。ライブ衣装のまま、彼女はあの家にやってきた。そっくりさんとも言い切れない状況なのである。
「え、ユメちゃん!?」
「ユメちゃんを攫ってるぞ! おい止めろ!」
「ユメちゃんは私が守らないと!」
暴走しかけるファンをけん制してくれるのは、いつも銃だ。
「一人でも近づいたら、撃つぞ」
それと全身穴だらけのアイコ。自分達の推しを死体染みた銃刀法違反者を釣れた不審人物が攫おうとしている。日常とはかけ離れたシチュエーションに誰もが……或いは目の前で起きていた殺し合いよりも異常であると悟り、騒ぎ立てている。黒服達も俺達の存在に気づき向かってこようとするが、真紀さんから目を離した瞬間、一人残らず殴りつけられた。
「帰ってきたね。良かったよ君が無事で」
「真紀さん! えっとこの人は」
「事情はいいよ。とりあえず船に」
「伊刀真紀。お前も行け。私が相手をしてやる」
「何?」
「私は後から追いつける。お前が出港準備をしなければ駄目だ」
「…………分かった。選手交代だ。泰斗君、こっち!」
真紀さんに先導されながら船の甲板へ駆け込むと、足音をききつけた響希が出迎えにやってきた。
「泰斗! 良かった、急にあいつらがやってきて最初びっくりしたのよ! 真紀さんが追い返さなかったら船が制圧されてたかも……んっと、その子は確か妹の……」
「その話は後でたっぷりすればいいよ。泰斗君は部屋にでもその子寝かせて守ってあげな。私は操舵室に行くから!」
去り際に肩を一度叩かれ、真紀さんは慌てて階段を駆け上がっていく。響希は特に役目など任されていないようなのでついでに部屋までついてきてもらった。
「な、何で妹ちゃんを連れてきたのよ。場所を聞いてくるんじゃなかったの?」
「場所だけ聞ければそれでも良かったんだけど、社長が妹を欲しがってる。実験体として」
「社長が? なんか、怖がってるみたいに見えてたけど」
「怖がってたよ。でも妹は…………ただ俺に会いたかっただけなんだ。今は寝てて、とても起きそうにない。アイツはその間に連れて行こうとしたんだ。ついでに、俺も」
「ど、どういう事? 何があったの? あんな短い間にそんな関係性が変わる事ある? 榊馬さんから何も聞いてないんだけど」
ベッドの上に妹を寝かせて布団をかけてやる。中で手を握りしめつつ、船の出港を待つばかり。真紀さんが出張っていたので直前まで芽々子と三姫先輩で出港準備が出来ないものかと頑張っていたらしい。
「榊馬さんは多分何も知らないぞ。世話になったけど、あの人は所詮社員だ。何も聞かされてないし、協力もしてないだろ」
「……この子、目の隈が凄い。 テレビではお化粧で隠してたのかしら」
「そうだろうな。社長は一睡もしてないって言ってたぞ……分からなくはないけど」
俺が同じ感覚を味わった時は瞬きする度に別の世界に飛ばされてしまって感情も見失った。たまたま左目側が現在で固定されていただけでどちらも固定されていなかったら眠らない選択肢も理解出来る。
瞬きで別世界に飛ばされるのだ。眠れば意識を失い、目覚めた時にはもう違う世界が広がっている。そんなの怖いじゃないか。恐怖を抑え込みたければ一睡もせず自分の意思で現実を切り替えているのだと認識するしかない。未知は生物にとって何よりの恐怖なのだから。
「あいいいいいいいい! 岩戸丹葉、帰ってきたぜええええ!」
部屋の外で勇ましい声がする。続いて上の方から階段を慌てて降りてくる音。
「丹葉! 渡り板外して! 出るから!」
「おうさ!」
アイコについては誰も心配していない。全く統率が取れている。
「……不思議なんだけど。その子を差し出したらこんな面倒な事にはならなかったんじゃないの?」
「そりゃ、そうかもしれないけどさ。妹は俺を頼ったんだから裏切りたくないよ。事情は……後で説明するけど。薄情な事は言わないでくれ。馬鹿にするくらいだったら俺を茶化してくれた方がマシだ。初めて会った妹を突然かわいがるようになったシスコン……とかさ」
形恋を悪く言わないでやってほしい。一人暮らしに憧れた俺だって、島での滅茶苦茶に心が病んで両親を頼れるなら頼りたいと思った事が少しあったくらいだ。とはいえ両親には頼れないだけで他の人に頼れた俺とは違う。
家族に、甘えたかっただけ。寂しかっただけなのだ。
「天宮君!」
そういえば部屋に鍵をかけていなかった―――それに気づいた時には、とっくに芽々子が駆け込んできていた。形恋を一瞥し、すぐに俺の方へと向き直る。
『白夢』を差し出しながら。
「出港出来るけど、周辺の海域に船が出てるわ。戦闘準備」
「船? 月宙社も本気だな。何隻だ?」
「何隻っていうか…………多分海上自衛隊の船なんだけど」
「は?」
手のかかる妹だったのか、それとも政府にとって俺達兄妹の存在は軍隊を動かしてまで手に入れなければならない存在なのか。俺の知らない内に携帯を確保していた三姫先輩からSNSを見せてもらうと、天宙ユメの誘拐情報に始まり遠巻きに事態を知る多くの人間が政府を応援していた。彼女は国の宝だから何としてでも取り返すのだと。
この判断に対する是非の趨勢も俺の知る現実からは程遠い。船で帰ってきたのは見慣れた良く知る本土とばかり思っていたのに、どうやら全く違う国だったようだ。
「この船は政府関係者の乗ってた船ってだけで武装はないよ。頼れるのは後輩君の持ってるそれと、アイコが持って帰ってきたそれ……まあ早い話が鞄二つだけ。私達は不死身だけど船を沈められたら事実上お終いね」
「特殊分析機構は怪異に対する有効な武装だけど、対艦適性は皆無と言わざるを得ないわ。『黒夢』は……だけど」
「ダウングレードしたと言った。今は対怪異もないぞ」
「じゃあ俺だけか……真紀さんも船は斬れませんよね」
「ユメちゃんと君を確保したいなら跡形もなく撃滅される事はないだろうけどね。多少手加減されたって同じだ。その鞄に使えそうな能力は残ってる?」
「…………」
カチャン。カチャン、カチャン。
「ありますよ。こればかりは、介世研究所に感謝してます。色んな怪異の一部分を集めて……どうやったかは分かりませんけどね」
ガチャン。ガコン。ギギギ、ギギ。
「おい人形。首を差し出せ」
「何で?」
「お前の頭の中に、記憶を送っていた物体がある筈だ。今は干渉出来ないが、それは我の意識と繋がっている。『白夢』に入れろ。小僧、力を貸す」
「小僧って。突然変な呼び方するなよ」
芽々子は首を慣れた手つきで取り外すと、アイコが切断面から頭に手を入れ、白いICチップのような物体を変形中の鞄に入れた。どの能力を使おうか悩んでいたせいで形が定まらなかったものの、解析が完了した瞬間、鞄はシンプルな杖の形を象り、その先端に蛇のような尻尾を纏わせる。
湍津鬼。
「俺の妹は誰にも渡さない。島に帰るぞ、皆!」
介世研究所を制圧し、またその島を維持する眠りの主でもある彼女の能力は。
海の支配。