たった一人、たったそれだけ
「…………も、戻った」
色覚が反転したかと思うと、元の家に戻っていた。妹の臀部から尻尾が生えているような事はなく、ただ俺に抱きしめられて気を失ったように眠っている。目の隈もあって相対すると目つきが悪いように見えたが、こうして眠っていると怖さなんて微塵も湧いてこない。
「…………」
掌を貫いた注射器もここにはない。それが―――湍津鬼の力だというのか。望む現実を造る力。お陰で傷一つないが、その手の力が無制限に行使される事はないのも知っている。『仮想性侵入藥』と同じだ。自分の範囲で変えたい現実を変えたら、変わらなかった現実と食い違って、そこにゆとりが生まれる。薬もそうだった。自分の観測が及ばない範囲も改竄される。芽々子が幾ら薬を使っても行動規模や方針を変えようとしなかったのはその不確実性を危惧したからなのを忘れてはいない。
現実を変える力なんて、最初から全知全能でなければ満足に使いこなせない。
―――ともかく、船まで連れて行こう。
尋ねた訳ではないが、答えをくれた。妹は湍津鬼の身体が何処にあるかを知っているし触った事もあると。それなら一旦アイコに会わせるべきだ。ライブ衣装のまま運ぶのも嫌だが、だからって無抵抗な妹をわざわざ着替えさせる気にもならない。起こさないよう慎重に抱え上げて玄関を蹴り開ける。
「待て。二人共。この車に乗りなさい」
月宙社社長、国津守十兵衛が黒服の男たちを何人も従えて俺の進路を塞ぐように車を横につけていた。こんな閑静な住宅街には似つかわしくない物々しさは、俺の緊張感を煽り立たせる。
「社長。何のつもりですか?」
「君は榊馬から素直な青年だと聞いていた。ありがとう、オレの言った通り敵として構えなかったな。お陰様でその子は気を許した。今しかないんだ」
「は?」
「君達兄妹は『仮想性侵入藥』の過剰摂取から生還した数少ないサンプルだ。これから君達には政府が保有する然るべき機関でその身体を隅々まで調べさせてもらう。早く乗りたまえ。その子が目を覚ます前に」
「形恋が何したって言うんですか?」
「何をした? いや、何もさせてはならないんだ。君達はその身体の重要性を分かっていない。神異風計画は確かに頓挫してしまったが、まだ新世界構想の再現という一点で望みはある。薬の蓄積したその身体は最早機密の塊だ。その身体にどのような力が宿っているかも興味深い。君達の存在が私達に政界との強いパイプを作ってくれる。本来はもっと早く行う予定だったが天宙ユメは君を送り出して以降、一睡もせずに活動し続けた。その身体を検めようにも手出し出来なかったのだ、誰にも気を許さず、誰も頼らず、甘えず……」
妹を抱きしめる手に力が籠る。まだ起きるな。俺は傍に居る。
「家の中の会話は全て聞いていたよ。盗聴器が仕掛けてあるのでね。オレとは家族ぐるみの付き合い……ふふ、そう言ったが、彼女は今の君に対するような行動を一度も私にしてこなかった。酷い話だとは思わないかね。会った事も話した事もない兄に甘え、アイドルとして大成させたオレ達には一切の隙も見せない」
「……薬を使ってると、分かってきますよ。嫌でも、この薬は。この技術は存在してちゃいけない。勿論これがあったから俺は生還出来たし妹は大人気アイドルになれた。両親の呪いから解放され、自由な生き方を選べた。それは間違いない。素晴らしい技術だ。ただ、俺は子供で、妹はもっと子供です。人間は痛い目に遭わないと学習しない、子供なら猶更だ。代償に気づく頃には手遅れになる薬なんて、この世界に普及するべきじゃない」
妹の願いは元を辿れば両親から離れたいその一心だった。その為にアイドルになり、アイドルとして大成する事で離れていくつもりが、都合の悪い現実を全て書き換え無理やりにでも成功してきたせいであらゆる過程を無視した歪な現実が出来上がってしまった。
自分のいる場所が正しい現実かどうか分からないなんて、痛ましいじゃないか。あんな、一目見れば両親でも何でもない二人を両親と思い込み、恐怖し、遠ざけようとする認知が広がっている。正しい現実が分からないなら、妹にとって同一人物は同一存在とは限らない。同じ顔をしているだけの違う人なら信頼出来る筈がない。違う人ではないという証明が出来ない。
自分が望む現実を造れたとしても、それが正しいかどうかは証明してくれない。
「最初は俺の捜索にしてもやりすぎだって思ってたけど、その話を聞いたら納得が行きましたよ。形恋は俺にしか頼れなかったんです。会った事もない話した事もないまま一人暮らしに行った、そして仮想世界の檻に閉じ込められ、自分がぐちゃぐちゃに書き換えてしまった現実とは無関係の俺にしか! 俺の存在だけが正しい現実だった。貴方を頼らず俺に気を許したのはそういう事だと思います」
「―――感動の話と言いたいが、君はどうなのだ天宮泰斗。会った事もなく話した事もないのは君からも同じだろう。ふむ、そうか。君は諦めろというのか。よろしい、その子だけでも渡したまえ」
「お断りします」
「何故だ? 見ず知らずの、殆ど他人のような妹だろうに」
「ええ、他人ですよ。この世界で一番近くて遠い他人だ。でもね、俺の妹なんですよ。両親から離れたくて、自分しか頼れないような状況にばかり陥るから自分が頑張ればいいって鞭打って、身体が限界な事にも気づかない。俺には一人暮らしだからって心配して頼れる人が沢山居たから踏み止まれた。妹には誰も居なかった。逆の立場なら俺だってこうなる」
「…………まあ、元より穏便に行くとは思っていない。その為に連れてきたのだからな。おい、連れていけ」
指示を受けた黒服達が殺到。俺達を車の中へ押し込む気なのは分かっている。すぐに家の中へ戻って玄関に鍵をかけた。時間稼ぎにしかならないが、手だてを考えよう。船の所まで行く手だてを。
「仲間の所へ戻るつもりなら無駄だぞ。そちらも既に抑えてある。君達兄妹に逃げ場はない!」
考えている時間などありはしない。家の周りに革靴の音が聞こえる。窓を破ってでも侵入する気だろう。庭から出れば逃げ切るとは思っちゃいない。既にまともな入口は封鎖されていると考えるべき―――
ププー!
直後、玄関越しに聞こえてきたのは車の警笛音。間もなく爆発にも似た車同士の衝突が起き、静けさに覆われた空気が段々と騒々しくなってくる。おそるおそる扉を開けると、軽トラックに乗った岩戸先輩が俺を見るや叫んでいた。月宙社の車が後方から追突されて粉々に大破している。
「おう! 逃げろ後輩!」
「岩戸先輩!? な、何で? ていうか何処に行ってたんですか?」
「話は後だ! いいから行け!」
「は、はい!」
大通りに出れば黒服達も表立ってはおってこられないと思ったが考えは甘かったようだ。緩く包囲網を張るように同じ黒塗りの車が並んで様子を見ている。後ろからの追手を先輩がいつまで抑え込めるか分からないし早く行きたいのだが…………
「こっちだ、来い」
「アイコ!」
最後まで合流しなかった二人がここに来て俺を助けに来るなんてどういう了見だろう。彼女に誘導され、まだ網の張られていない狭い道を通り抜けていく。
「今まで何処に居たんだ?」
「我の力だ、それは。使えば感知出来る。話を聞いていたぞ、その娘が我の場所を知っているな」
「話を聞けっての!」
「この身体が父親に会う事を拒絶した。記憶では、国津守芽々子は自由を欲していたのだ」
「…………はあ?」
「娘を手放すまいと要職につけてまで捕まえようとする父親をこの体は嫌っていた。だから私の島に踏み込んだ。責任者として滞在出来るようにした。用事は大したものではない。宝の地図を取りに行っていただけだ」
何を言っているのかさっぱりだ。国津守芽々子の心残りを解消してあげたという事だろうか。
「な、何でもいいけどありがとう! でも船の方も取り囲まれてるらしい」
「伊刀真紀が居る。あれは既に人を殺す事に躊躇う生娘ではない。制圧される事はない」
「そ、それはどうなんだ? 島と違って現実世界じゃ法律がある。せっかくあの島から抜け出して新生活って時に、殺人なんてしたら―――」
言及するような余裕もなかったからスルーしたが、岩戸先輩の追突事故も三人ほど轢殺している。幾ら死人だからって殺人をしてまともに暮らせる筈がない。
常識に乗っ取って焦る俺を一瞥。アイコは飽くまで淡泊に、淡々と事実を告げる。
「生きているのはお前と伊刀真紀だけ。後は死人と人形だ。残りの人生など考える意味がない。死人は生きていないのだからな」
「…………」
「義理で助ける事もあるだろう。私も約束を破られたくない。お前の妹が場所を知っているなら船に送り届ける。それだけの話だ」
「アイコって怪異なんでしょ? 形恋と同じような事出来ないのか?」
「私はエラーデータだと言った。斯様な能力はない」
狭い道を抜けて港に一番近い道路に出る。無数のウェポンライトに照らされた瞬間、足は脊髄反射で動きを止めた。
「そこまでだ! 動くな! 動けば撃つ!」
銃だ。先輩達と違って俺は不死身じゃない。ここで銃弾の雨を浴びたら妹もろともおさらばだ。アイコだけは脅しに屈する意味を知らないようで、平然と俺の前に飛び出し―――暗くてよく見えなかったが、右手に持っていた黒い鞄に手を入れる。
「撃てっ!」
「離れろ」
「うわ!」
力強く横に蹴とばされ、危うく妹の頭をコンクリートに叩きつける所だった。すぐ横ではアイコが銃弾を浴びて文字通り穴だらけになっている。この国ではまず馴染みのない発砲の連続に野次馬も集まりつつある。
「…………だから人間は嫌いだ。野蛮で騒々しい」
『黒夢』から取り出したのは、ショットガン。それも普通のショットガンではない。木材と生肉が合成されたような、歪な色と形状をしている。発砲した瞬間、目の前の黒服が車に叩きつけられて弾け飛んだ。腰から上がどろどろとした液体に代わり、奥の路上に飛散する。
異様な光景を目にした全員が死体に釘付けになったその刹那を見逃すアイコではない。淡々と処理される黒服達、金切り声を上げる野次馬の声。大声で警察に助けを呼ぶ声もある。
「行くぞ」
「な、何したんだ!?」
「対怪異特殊分析機構とは、あくまでこの鞄を―――特殊分析機構を最新バージョンにした代物だ。ダウングレードした。対生物特殊分析機構にな」
アイコは抉れた腰をちらりとみせ、それから何事もなかったように先導を再開する。自分の身体を取り込ませて対人間特化の武器を造ったのだ。
「船はもうすぐだ。まだ走れるか」
「ああ! 島の生活のお陰で、誰がどんな風に死んでも何とも思わなくなっちまったからな!」
会った事もなければ話した事もない妹は、俺に全てを預けて眠っているのだ。ならば俺も、全てを懸けて彼女を守ろう。大層変わってしまった現実でも、自分の人生を生きる権利はある。
お国の為に! 冗談じゃない。
俺の妹は、誰にも渡さない。