信じられるのは己だけ
『仮想性侵入藥』の性質上、過去を変えられれば俺にもその記憶が生まれる。意識しなければ気づかないような差異だが、お互いに使用した事があり、且つその効果を十分に知っているなら十分知覚出来る。
俺に甘えんぼだった自覚がないというのは妙だと思ったが、流石に幼年期の記憶を何から何まで覚えているとは思わない。病院で寝ていただけの退屈な日々は覚える価値もなく、小学校から中学校にかけての記憶の方が俺の人生の中では遥かに長い。薬とは無関係にその辺りの記憶を正確に思い出すのは難しいだろう。
言われてみれば確かに……というか、当然なのだが、病院で入院していた頃は干渉してほしくないとは思っていなかった気がするけど。
「お前に俺の何が分かる」
反発は癖みたいなものだ。そうやって、俺の人生を横取りするような言い草は気に入らない。何が自分のせいだ。確かにその導線を築いたのは事実かもしれないが、選んだのは俺で、両親は認めただけ。最初からずっと俺はそれを望んでいた。選択したのは俺、その後に起きる全ての面倒は俺が責任を取らないといけない。
だからそんな、悲しい顔をしないでほしい。今にも消えてなくなりたいって思うような、そんな顔は。見たくない。
「分からないよ。何も分からない。おにいちゃんも私の事を何も知らない。それでも、助けたいって思ったのは事実なんだ。おにいちゃんが構われるようになってから私の事はてんで興味なくなったから、どういう扱いを受けてるのかは幾らでも聞けた」
「興味なくなっただと? そんな馬鹿な。俺って息子がどんなに無能かを比較で証明したくてたまらない二人にお前の事を何度も言及されたんだぞ? 妹は芸能界で頑張ってるのにお前と来たらって何度言われたか!」
「……私にはこう言ってきたよ。おにいちゃんが親を頼らないと何もできないような男で困る。家に帰ってきて私がどんなに頑張ってるか教えてほしいって」
「何だよそれ…………」
俺を無能にしようとしたのは他ならぬ両親ではないか。それが妹相手にはまるで俺が最初からそうであったように語るのか? 無理に頼らせてくるのが嫌だったから、俺はむしろ本当に何もしなくなって一時期は本物の無能になりかけたというのに。
「私達の両親は病気だったのかな」
「……医者じゃないから断定は出来ないけど、俺をダシにしてお前に帰ってきてほしかったみたいな節もあるからな。子離れは出来てなかったかも」
「おにいちゃんが嫌がってる事は何となくわかってた。会った事なくても兄妹だもん、私には分かるよ」
妹は机越しに俺の手を握ると、力なく微笑んだ。
「芽々子さんが見つけたって島に―――おにいちゃんが行った場所に足を踏み入れたのは私。薬を使った事あるのが私だけだったから、安全上の問題でね。それで、ここならいいなって思ったの。おにいちゃんは一人暮らしをしたいみたいで、でも地続きならあの人達はどんな手を使っても会いに来るでしょ。だからおススメしたの。もし外から人が欲しいなら私のおにいちゃんを入れてあげてって。それで両親にも伝えたの。私が戻ってあげるからおにいちゃんには一人暮らしさせてあげてって」
「…………」
時空一体。そうして全ては繋がる。最初に連れられた真紀さんが湍津鬼のせいでループの中で成長をし、成長した真紀さんの暴挙で計画が崩壊する前にもう一人連れていく必要が生まれ、そこに俺が選ばれた。
俺は何も知らず、ただ奇跡とばかり思って島に乗り込んで。
「…………一人暮らしはどうだった?」
再びの問い。答えが変わる事などないが、今度は意味が違う。真実を知った。全ては星の巡りあわせと思っていた出来事が、妹のお陰で起きた必然だったとは。俺は何か凄い誤解をしていたようだ。なんとなく喧嘩腰だった。社長も悪い人だ。あんな言い方をされたら警戒の一つくらい誰でもする。
「……人生で二度はないだろうってくらいの酷い目に遭ったけど、友達も沢山出来て、大切な人とも出会えた。現実にしてみりゃ数か月で進級すらしてないけど、ま、楽しかったよ。だからお前のお陰だって言いたいけど、頑張ったのは俺だしな。あんまりお礼を言いたくならない」
「えー。少しくらいしてくれても罰は当たらないよー」
「だってお前、一歩間違えたら死んでたんだぞ! 無事に脱出出来たからいいけどさあ、結末が違ったらお前を恨んでるんだからな」
これを譲りたくはない。頑張ったのは俺だ。選んだのは俺だ。逃げても良かったのに戦う事を選んだ。何もかも妹に背負わせるのは違うだろう。それでは俺は、一人暮らしをしたにも拘らず無能になってしまった事になる。
目の隈は気になるが、それでも嬉しそうに笑う妹を見てこちらも段々頬が緩んでくる。会った事がなくても兄妹。成程。会った事がなくても妹だから可愛いと思えるのか。
「…………えへへ。おにいちゃんと話すの楽しいな。こんな気持ちになったの久しぶりかも。薬を打ってると何も感じなくなってくるんだもん」
「大袈裟な奴だな―――ところでその、そろそろ聞きたいんだけど両親はどうした? もしかしてお前の力で何処かに引っ越させたのか?」
「それ、本当に聞きたいの?」
「……? また変な言い方だな。聞きたいよそりゃ。突っ込むべきか悩んでたんだから」
「そっか。じゃあせっかくだし、二人で直接味わいながら順を追ってみよっか」
妹はどこからともなく五寸釘のような注射器を取り出すと、重なる手に勢いよく突き刺してピストンを押した。
「おま! なに……をっ!?」
「二人でタイムトラベル! ぶっ飛んで行こうね、おにいちゃん!」
「お前達は本当に俺が居ないと何も出来ないんだな! 揃いも揃って寄生虫だ! わはは!」
「ほんと、私達が居なかったら生きていけないわよねえ 一人で何かしようなんて生意気なのよ大体。親を頼りなさいっての」
これはなんだ?
あの家の、かつての子供部屋に居る。ただし俺の姿は当時のクソガキではなく、湍津鬼と戦った時の欠損状態が引き継がれている。体の感覚はバラバラで、鈍くなっている。失明状態を再度味わう羽目になるとは夢にも思わず体勢を崩した。平衡感覚が、またズレた。
「わわ。おにいちゃん、凄いボロボロ。やっぱりやめておいた方が良かったかな」
「どういう状況だよこれは……」
「私とおにいちゃんが籠の中の鳥である事を選んだ世界のお話だよ」
「薬にそこまでの効力はない筈だ。あれは主観で……良く分からないけど、二人同時に効果を発揮させられるなんて聞いた事ないぞ」
「うん。だって触媒みたいなものだからね」
「触媒……?」
それで、用事を思い出した。天宙ユメ、つまり俺の妹が実地調査に行った際、湍津鬼を見た可能性があってそれを知る為に出てきたのだ。妹の雰囲気に呑まれてついつい忘れていたが、今は聞ける雰囲気ではなさそうだ。兄妹のよしみで付き合うしかない。
扉を開けようとするが、部屋から出られそうにない。外から鍵がかかるようになっているのだ。これは昔からそう。振り返ると、俺達とは別に二人の兄弟が蹲っていた。
「…………」
「両手両足を縛られて、動けないみたいだね。私達は出会っちゃいけなかったんだよ。二人共出られなくなるから」
「待て。俺の知る両親はこんな異常者じゃない。何があったらこんな事になるんだ」
「そんなの私にも分からないよ。でもなるんだよ。何回も何回も薬を打った。打って打って、確かめたの。全部駄目だった」
また次の景色では、両手足が何故か切断されている俺に対して甲斐甲斐しく世話を焼く両親と、その傍で泣きじゃくる形恋の姿。
また次の景色では、両親たちにビデオを回されている中でお互い泣きながら近親相姦に臨む兄妹の姿。
また、また、また、また、また。碌な景色もなければ未来もない。俺と妹が揃うと両親は決まっておかしくなる。
「こんな両親は、必要だと思う?」
「…………………………」
キレイゴトを言うのは簡単だ。幾らでも言える。問題は、これを見て本当にそう思えるかどうかであり、俺にはとても……親の肩は持てない。
「だから消したの。邪魔だから」
「け、消した?」
「私が最初にあの島に行った時ね、女の子が眠ってたの。土の中で眠ってたその子に触れたら、私に不思議な力が宿ったの。『藥』の使い過ぎで、自分の居る場所が正しい現実かどうかが分からなくなってた私にぴったりの、望む現実を造る力」
妹の背中から、大きな尻尾がゆっくりと伸びあがっていく。太く、長く、あらゆるものを両断しそうな蠍の尻尾。
「あんなひどい両親はいらないよね。私の家族はおにいちゃんだけで十分だよね。おにいちゃん、私のおにいちゃんだよね?」
「形恋。落ち着け。お前それは薬の打ちすぎだ。誰か副作用を説明しなかったのか? そうだ、両親がおかしいのもそのせいだろ。お前は自分の元居た現実に留まれなくて顔と名前が同じだけの別人を両親だと勘違いして憎んでるだけだ。これは違う。幾ら酷くても、俺達の両親じゃない」
「この薬を使ってから、ずっと一人だった。でもおにいちゃんも島で薬を使ったんだよね。だからボロボロなんだよね。だから、ねえ。家族になろ。なってよ。私の傍にいてよ。おにいちゃん。どんな世界でも私だけのおにいちゃんでいてよ」
俺にそのデメリットを説明してくれたのは他ならぬ提唱者だったが、十兵衛社長も含めて月宙社は新世界構想の一部を未熟に再現したものに過ぎない。きっと、誰も説明しなかったのだ。知らなかったのだ。薬を使った先に現れるのは結果だけ。形恋がおかしくなっていくのを誰も止められなかったに違いない。
逃げようとして背中の尻尾に逃げ道を塞がれる。大体何処に逃げるかの当てもないのにこの判断は有り得ない。ただ恐怖して、つい。
「待て形恋。待て!」
「お願い、今だけだよ。次は命令しちゃうよ……おにいちゃん。おにいちゃん」
仮想性侵入藥は粗悪品。霖さんの発言は全くその通りだ。良い所ばかりに目を向けて、 未来の技術に現代に生きる身体が耐えられる筈ないのに、便利だからと躊躇わず使わせて。何度も何度も再確認させられる。こんな技術は再現されるべきではないと。
どうしてこうなった。
誰が心を壊した。
助けないと、いけない。
「か、形恋! お前は勘違いしてる。俺は最初から家族だ。今日まで会った事もない話した事もなかったけど、どんな世界でもお前だけのお兄ちゃんだ。悪かった、逃げない。お前を恐れようとした。違うよな。お前を助けないといけないよな」
一歩ずつ近づく度に、全身が危険信号を打ち鳴らす。戦慄いている。足は今にも転ぼうと揺れて定まらず、背中は冷や汗をびっしょり掻いて不快感を露わにしている。構うな、身体の感覚が鈍くなっている今なら出来る筈だ。最良の結果だけを求め続ける気持ちは痛い程分かる。同じ薬を使った者として、そのせいで死にかけた人間として。兄妹として。
凍り付いたような関節を動かし、寄りかかるような体を抱きしめる。体は一斉に錆び付き動かなくなっていく。
―――関係ない。
俺の妹だ。
俺と同じ無茶をする。
敵に回してはいけないなんて酷い冗談だ。敵とか味方とか、そういうのじゃない。まだ中学生の少女は無条件に守られるべきだろうに。