ヒトとして生きる
部屋に戻ると、芽々子はすっかり目を覚ましていた。ぱちくり目を開けて帰ってきた俺を見ると、乱れた制服を直し、相変わらずの澄まし顔で見つめてくる。
「な、何だよ」
「…………気分はどう?」
「お、置いていった事は謝るよ。でも、なあ。あんまり気持ちよさそうに眠ってる人を起こすのも悪いっていうか、緊急事態でもないし」
これが今すぐ船が沈没するという事なら蹴っ飛ばしてでも起こすが、船旅は至って順調、問題なく進んでいる。芽々子が普通の人間だったらやっぱり連れてきたかもしれないが、彼女は人形であり食事はその真似事しか出来ない。起きていたらそれでも誘うつもりだったが、軽く声を掛けても起きなかったので―――仕方なく置いていった。
彼女に背中を向けながらベッドに座る。特に何かしていた訳じゃないがどっと疲れてしまった。そのまま倒れこむと丁度芽々子の太腿の辺りで、その精緻な顔を見上げる事になる。
「そっちを責めているつもりはないの。置いていった事情は分かるし、私も逆の立場ならそうするわ。そうじゃなくて…………」
表情は変わらない。だがもじもじと布団の上で動かす手が何より彼女の恥じらいを示している。芽々子の感情を知りたい時は顔よりも身体を見た方が良い。年月にすれば短い付き合いだが、あんな馬鹿げた戦いを共に乗り越えたのだからこれくらいは分かる。
「私、人形なのよ」
「なんでそう遠回しなんだ? お前らしいけど、もっと直接的に言ってくれ。何をそんな恥ずかしがっているのか見当もつかないぞ」
「―――あのね、私はあれ以上するつもりなんてなかったのよ。貴方には沢山休んでほしかったし、それを邪魔する用事も権利もないと思っていたから。だから気分を尋ねているの。人形を襲った気分はどうなのって」
「うわあああ! それ以上言うな!」
耳を塞ぐ。防衛本能が記憶の底に封じていた記憶が見事掘り起こされてしまった。断じて忘れていたつもりはない。忘れるようにしていただけだ。何せあれは……かなり感情を優先したその場の勢いだったから。
俺の生育環境からして当然かもしれないが、交際経験など存在しない。あの親の過干渉ぶりは、誰でも見たら冷めると思っていたからだ。それは介世島に来ても変わらず、何なら家賃と授業料と生活費の為に学校以外は働きづめだったので猶更そのような経験が詰める日はなかった。真紀さんにデレデレだった事からも分かるように、優しくされるだけでもう、心を許してしまう程度には脆い男だ。
何事も状況次第。怪異と戦っている最中でそのような雰囲気になっても俺はきっと流されはしなかった。だが今はどうだ。問題は解決し、気を引き締めるべきようなモノもない。しかも、二人きり。
俺が理性を取り戻した頃には全てが手遅れだった。
「私の浸渉は既に無効化されている筈だけど―――やっぱり変態なの? こんな体に盛るなんて」
「そ、それは…………お、お前があんな事しなかったら俺だって……わ、悪いかよ。いいだろ別に。人形とか人間とか関係ないよ。お前は俺の大切な……」
「はいはい、大切な、ね。私だから良かったけど、相手が生身だったら間違いなく嫌われるような野蛮さだったわよ。気を付けてね」
「気を付けてねって…………俺は別に、そんな軽々しい人間じゃないぞ。お前以外となんて……人形だから人形だからってお前は言うけどさ! お、俺は………………ッ。ッ」
泣きじゃくってる訳でもあるまいに、喉がつっかかって声が出ない。顔から火が出そうだがこれは浸渉か? 耳が高熱を持って今にも焼け落ちそうだがこっちの方か。話せば話す程熱くなる。
芽々子は布団を裏返して暴れ回る俺の顔に覆いかぶせると、静かに呟いた。
「一回しか言わないからよく聞いて頂戴」
「…………ん、ん?」
「私の身体は球体関節人形で、見た目こそ人間っぽいけど人間と呼ぶには欠けすぎているわ。聴覚も視覚もあるけど、味覚はない、嗅覚はパーツを外付けしないと使えない。触覚は色々と不完全で、痛みを感じる信号はあるのに身体が破壊される程の傷は何も感じなくなる。貴方にあげた義肢もそうだったでしょう? 五感だけでもこれなの。内臓はない、血液はない、バラバラにした貴方なら分かるでしょうけど、あるのはそれっぽい構造物だけ。そんな私を、好きになってくれたなら……これからもやる気になるような事、言ってあげる」
「――――――気持ちよかった」
ああ、顔を隠す理由が分かった。お互いの為なのだ。俺はもう最初から限界だが、芽々子も表情が変えられないだけで恥ずかしくて仕方ないのだ。だからこんな形でしか気持ちを伝えられない。
「私なら身体がバラバラになっても大丈夫だから、優しくする気遣いなんて、しなくていい」
「い、いや! そ、そこまで言わなくても。 だ、だ、大丈夫だよ。今度はもっと上手く出来るから」
「何言ってるの。私は貴方に、もっと自分勝手を追究しろと言っているのよ? 私以外に手を出さないんでしょ?」
顔にかかる布団を剥がして起き上がる。芽々子は顎から頬にかけて手を当てながらそっぽを向いており、視線が合う事はない。
「な、なんか様子がおかしいぞお前。ど、どうしたんだ?」
「私は人形だけど、心はあるの。乙女心が。国津守芽々子が何故自分の少女時代を模して人形を作ったかは分からないけど、お陰で十分すぎる程の自覚を得たわ」
「な、何を?」
「好きな人は独占したいという気持ちを。貴方が悪いのよ。こんな事を人形の私が言うのはおかしいってずっと自制してたんだから。私の気持ちは生物の論理に反しているから見なかった事にしようってずっと思ってた。でも貴方が。あんな必死になって私を襲う姿を見てたらもう隠したくなくなったの」
ちらりと後ろを見遣る瞳が、物寂しそうに光っている。ライトの反射かと思ったが、その煌めきは頬を伝って顎まで流れ、滴り落ちている。涙だと気づくのに少し遅れた。彼女の正体を知っていたから。
「…………泣、え。お前」
「ええ。私も初めて自分にそんな機能があるって知った。ふふ……不思議な気分ね。貴方と話していると、どんどん人間に近づいていってるみたい。全部が人間になったら……話の回りくどい女じゃなくて、もっと素直になれるのかしら」
入り込む潮風に顔を吹かれて、目が覚めた。昇る朝日が眩しく、正常に視界を映す事が出来ない。部屋の扉は開いており、隣に芽々子は居なかった。
「……………」
本土と介世島は時間で繋がっているとの話を思い出した。それならもう到着したのだろうか。それで俺が起きなかったら―――昨夜の仕返しに置き去りにされたのかもしれない。
眠そうな目を擦りながらシャワー室へ。熱湯を浴びていたら自然と目も覚めてくる。ひとしきり感覚を取り戻したら部屋を出て甲板まで一直線に駆け上がった。
「おはよう、天宮君」
吹き付ける潮風に服を靡かせ、芽々子が空を見上げている。俺の足音に振り返って、首を傾げた。
「薄々気づいてると思うけど、もう船は港に着いたわ。まあ港と言っても、月宙社の所有する港だけどね」
「まだ使えたんだな。じゃあ諸々の不安は杞憂に終わったんだな」
「それはまだ分からないけど、もう全員降りたわよ。私達も行きましょう」
芽々子が歩いてきてわざわざ手を差し伸べてくる。指輪の嵌められた掌が上を向き、その手が取られるのを今か今かと待っている。
「……お前は降りなかったのか?」
「貴方と一緒に降りたかったの。だから私、全員に嘘吐いたわ。貴方はもう降りたって」
「おい!」
気づかない内に緩んでいた頬に自分でもどうかと思いつつ、彼女の手を取って渡り板の方へと歩き出す。
「下らない嘘つくなって! 全く」
「私、嘘つきだから」