去探の眼
何も知らなかったあの頃に戻りたい気持ちがあったと思う。まさか両親が一人暮らしを認めてくれるとは思わなくて、ただただ無邪気に喜んだ。気が変わらない内に行こうと準備して、それで……
「……寝ぼけてる。今の俺が寝ぼけてるように見えるなら、真紀さんも随分目が曇りましたね」
「え? …………確かに、様子はおかしいね~瞬きしないと目が染みちゃうぞー」
「目を瞑ったらこの世界とはおさらばしちゃいますからね。この機会を逃したくない。向こうの世界では貴方と話せないので」
真紀さんの表情が明確に変わる。かつて数えきれないほど見たお気楽な声音はなりを潜め、きっとおかしな状態になっている俺の右目を見つめている。
「…………天宮泰斗君。君は……未来から来たの?」
「はい。芽々子だけが作れる薬で繰り返してる事はもう知ってるんですか? それとも知りませんか? その薬を使ってここに来ています。お陰で、酷い状態になってますけどね」
左側の視界は青い液体の中に入り込み、その中で眼を開き続けている。芽々子との会話は可能だから大して気にしていないものの、気泡が出ていない事から現実の俺が呼吸をしていない事が分かった。
「伊刀真紀さん。俺達は今、窮地に立たされています。どうか助けてくれませんか」
「その名前は…………ふ~ん。私より未来に居るらしい。その名前を教える程信頼したという事かな。でもそれなら私に頼るのも妙だな。私は過去の私で、君の情報を全く知らない。それでも頼るの?」
「真紀さんがループを抜け出したいあまり俺を連れてきたのも、後悔するのも知ってます。それでも頼らないといけません。困ってるのは貴方と何度も対決してる本体の身体を見せないといけない、普段は死体を使って成りすます怪異なんですから」
「……成程」
真紀さんはコートの下から杖を取り出すと、甲板に突き刺してもう一度上の方を掴んで引き上げる。杖は鞘、つまり仕込み杖で、直刃の刃文が剥き出しになる。
「私と話せないのは殺されたからかな?」
「まあ殆どそんな感じで。ただその怪異が殺したんじゃないんです。殆ど不意打ちみたいなもんで」
「…………何が知りたい?」
「え」
「理由はいいよ。船に乗るまであんな初々しかった君がそんな人形のような表情をするなんて大層酷い目に遭ったんだと分かる。私の知らない話をしているなら、そっちの私はいよいよループから抜け出せるかもしれない。協力しない道理はないよ」
寒気が止まらない。俺の身体が入ってる液体が冷たいのだろうか。呼吸をすれば血が巡る。呼吸は出来ない。体を動かせば血は巡る。体が動かない。船の上で幾ら暴れても中から刺すような寒気は微塵も収まらないのだ。
「その怪異は島の住人全体を使って俺達に押しかけようとしています。本体さえ殺せればいいと思う反面、操られてる数が多すぎて分かりません。本体の身体を見せるって時点で本体を知らなかったか
ら対処出来ませんしね」
「住人全体……早々全滅なんてしないし、あの部屋を見つけたのかな。元々全員死んでたなんてびっくりだよね。生きてるのは私と君の二人だけ……知ってるみたいだけど、ごめんね。巻き込んじゃってさ」
「対処は?」
「……主に二つある。一つはこの刀で本体を切る事。これは芽々子ちゃんの持ってる鞄から造った代物でね、アレの本体さえ攻撃できれば条件に関係なく殺害出来る。もう一つは、その鞄を使う方法だ」
「黒夢を?」
「伊達に芽々子ちゃんを何度も見てた訳じゃない。あの鞄は何か特別な性質があるんだろ。色んな協力者に貸し出してたよ。あそこにこの島に居る人間全員の死体を入れて、装備を作ればいい。そうしたら誰を操ろうが関係ない」
芽々子を見る。いや、瞬きが出来ないので目を移動したかどうかも分からない。体の感覚は現実に残っているのに、目を動かす感覚は過去に置き去り。バラバラだ。俺の身体の感覚はその細部に至るまで何一つとして繋がっていない。
「芽々子。黒夢を用意してくれ」
「ん? まさかこうして私と喋りながらも現在に居るの? 君は未来と過去に同時に居る?」
「瞬きしたらどっか行っちゃいますけどね。あー、芽々子と真紀さんは話せません。俺を通してもね」
船はもうじき介世島に到着する。到着するまでが思考猶予だ。他に良い方法を思いつくか真紀さんの言った通りの方法を実行するか。
「…………一つの時間軸に居られない人間は最早人間じゃない。生きてるのは二人だけと言ったけど、私には今の君を生きてると言うのは憚られるな。仮に問題が解決したとして君の症状が完治する訳じゃない。濁った瞳、色の抜けていく毛髪、血の気の引いた唇、何より時間軸を無視した視界。まともに生きていく事は不可能だ。それでも、やるの?」
「……俺は戦うって決めたんです。その為に俺がおかしくなってもいい。それで勝てるなら、それが……皆を助ける事に繋がるかもしれないなら」
船は船着き場に到着する。ああ、思い出した。漁船ではない船にみんなが物珍しがって集まってきたんだっけ。思えばあの時に違和感を覚えるべきだった。この船は何処へ行ったのかなんて考えもしない。違和感は最初から十分だった。
―――野次馬の住人を見ると、芽々子だけが居ない。
この日が学校が休みで生徒達も暇をしていたから見に来た。分かるだろう。バーベキューの流れもそうだが娯楽に飢えているのだ。何か面白そうな事が起きたら見に行くのはここの住人の性。
「……協力するよ、何をすればいい、私は」
「ここで全員殺したら、元々俺の方でも死んでた事になるんですかね」
「元々死人だろ。ただ生者のステータスを与えられただけさ。それに……これは予想だけど二つの時間軸を同時に観測し存在している今の状態なら、普通とは違う変化が起こるんじゃないかな」
真紀さんは剥き出しの仕込み刀を取ると、無造作に船を降りて遠巻きに眺めていた漁師二人の首を跳ねた。
「君は芽々子ちゃんを探すといい。その間に殺しておくよ」
何のドラマも因縁もなく殺された人間を見て、住人達も状況を呑み込めていない。間もなく真紀さんが狂った事を認識すると、全員が悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「芽々子。お前は……俺がこの島に初めて来たとき何処に居た?」
「確か……地下の拠点に居たと思うけど」
「黒夢もそこに?」
「……貴方が今どこの時間に居るのかは把握したけど、過去の私をどうやって説得するつもり。今の私とは違うのに」
「…………天宮君」
「へえ、最初はシラを切ると思ってたのにそう呼ぶんだな。用件まで分かってたら話は早いけど」
拠点を知る存在は俺しか居ない。そしてこの頃は誰一人として(真紀さんは本来関与していないので除く)知らない。シラを切るならそこを突く気でいたから意外だった。
「……私をエスパーだと思ってる? 分かる訳ないでしょ」
「分かる筈だ。俺と芽々子は今も話してるんだからな」
「…………」
分からないなら今の芽々子は本体から干渉を受けていない証明にもなるし、動向すら把握出来ていない事になる。これはいいアドバンテージだ。
「俺は榊馬さんから全部聞いてるんだ国津守芽々子。せこせこ人形なんか使ってないで直接殺しに来い。俺達の事も、怪異なんて使ってないで手っ取り早くお前が来ればいい」
「…………何、命乞い? ていうかどういう事? 貴方未来から来たの?」
「……あの白無垢の怪異と違ってお前には分からないのか。そっか。芽々子。俺の用件は一つだ。その鞄を寄越せ」
「断ると言ったら?」
右手を伸ばし、得体のしれない感覚を掴む。体の感覚がバラバラに分離していると言っただろう。腕とは別に左手と右手の感覚は違う所に在るのだ。左は分からないが右は良く分かっている。大層体を絞められたこの感覚を忘れる筈がない。
ぐっと右手を引っ張り過去の中まで引っ張り出すと、大きな蠍の尻尾が芽々子の身体を貫いた。
「…………天宮君。貴方今、どうや……」
「鞄は貰うな」
黒夢を手に取ったのを視界で確認すると、梯子を上って地上に帰還する。真紀さんは殺すのに時間がかかっているようだ。
―――俺も殺すか。
この状態で何が出来るかを把握する良い機会だ。
「芽々子。あ。ごめん、こっちの芽々子」
「何?」
「最初からお前の言う通りだったな。犠牲は避けられそうにない。誰かを殺す覚悟も必要だった。俺が壊れる覚悟はもっと必要だった。やり直せるからって、俺が甘かったよ」