ボク以外のいない世界
外科手術の経験など全くないが、塞ぐ準備も出来ていないのに刺さった物を抜く事の愚かさくらいは分かる。目にも悍ましく、直視すら憚られる真紀さんに何もしないのはその判断の合理性以上に心苦しかった。
「………………」
喉を塞がれている人間に呼吸のしやすさなどないかもしれないが、椅子に乗せ、背もたれを調節する事で可能な限り呼吸が通るよう意識する。寝かせるのは駄目だ。背後から突き刺さっている指がめり込んでしまう。かといって普通に座らせるとこの様子では首が前に倒れてしまうので気道が狭まって良くない。
「……ごめんなさい。俺にはこれぐらいしか出来ません」
救急箱にある道具で治療は難しいと思う。包帯をぐるぐる巻きにしたからってどうにかなる範囲じゃない。ああ、今ほど『仮想性侵入藥』が欲しい日はない。それでやり直せたならあんな事が起こる前に対処出来たかもしれないのに。
雀子の元へすぐ帰る予定だったが、気が変わった。響希が心配だ。真紀さんがこれなら彼女も手遅れ……なんて決めつけたくない。大事なクラスメイトであり、仲間でもある彼女の生存をどうして信じられない。前向きに考えるべきだ。例えば響希を助けたから真紀さんがこうなったとか。
道は分からなかったが真紀さんはここに来るまでに随分血を流していたようで、その跡を辿れば元々の場所が分かる。心音登録がなければ扉一つまともに通過できないような施設だが、元々開け放されていた場所(先生が通った場所?)なら問題ない。そうでないと真紀さんもここまでやってこられないし。
或いはあの手足の大群がぶち破った可能性もあるが、それにしては何処も損壊していないし、そもそもそんな事が出来るなら俺と雀子も死んでいる。血の跡は戻るにつれて多くなり、むしろこれで真紀さんはまだ歩けたのか、というくらい。人間の身体にはどれだけ多くの血が流れているのだろう。見覚えのある鉄格子のある部屋はすぐそこだ。後少し、後少しで響希の生死が分かる……かもしれない。先生のように移動していたら話は別だ。
知りたいと思って行動しているのに、まだ知りたくないと思う自分も居る。それは何故だ。悪い予感がしているからか? 希望的観測でここまで来たのに矛盾している。
そうだ、きっと響希は生きている。無傷とはいかないかもしれない。ただ、きっとうまく逃げ切ったのだ。無事に思う根拠はある。この場で襲われていたのは先生と俺と真紀さんと響希と雀子だ。真紀さんは瀕死で俺と雀子は無事。先生は移動させられ、そこで死亡した。つまり響希が無事な可能性も十分にあるという訳だ。ああそう。そうに違いない。そうに―――
「……………………」
決まってる。
そうだと言ってくれ。
そうだと言ってさえくれれば。
―――声をかける気には、なれなかった。
響希は口から大量の指を突っ込まれたせいで首が破裂し、死亡していた。目に涙を湛えた彼女が最期に感じたモノは……想像したくもない。床に広げられた両手を見ると、分離した手が彼女の両手首を抑え込んで楔のようになっている事に気づいた。抵抗もままならず口の中に大量の異物が…………
「うっ…………うぉ、く」
やはり見るべきではなかった。いや、見えていた結末ではないか。真紀さんがあんな事になっていたら一般人に過ぎない彼女が無事である保証なんてない。何を思って俺は、生きているかもなんて。裏切られると分かっているような考えを浮かべたのだろう。
既に目は逸らし、逃げるようにその場を離れた。だがいつまでも脳裏にはその顔が移りこんでいる。目が、責めているようだ。『どうして助けてくれなかったのか』と。血の気の完全に失せた真っ白な身体は虚ろな視線を俺に向け、その罪を咎めている。
食堂の扉を開けた瞬間、腰から下の力がドッとぬけその場に崩れ落ちる。尻尾で守りを固めていた雀子が音を聞きつけるとすぐに籠城を止めて駆け寄ってきた。
「先輩、大丈夫!?」
「………………」
「…………センパイ?」
「……………………もう、駄目だ。みんな」
みんな。
「手遅れだ……………」
頼れる人は何処にも居ない。俺達を一瞬で蹂躙した部位の大群は姿を消した。それは俺達を見逃した訳ではなく、単に息を潜めただけだ。あれはいつかやってくる。次は避けられない。何処かに閉じ籠り、命が尽きるその時まで恐怖に怯える以外の対策は残されていない。
榊馬さんのように。
「――――――逃げよう、雀子。お、俺達だけじゃ、無理だ。これ以上、何も」
「……う、うん。ボクはいいけど。いいんだね、センパイは」
「いいに決まってるだろ! どうやってあんなのに抗うんだよ! 俺は! もう! やり直せないんだ!」
声を荒げるなんて、自分らしくないと思った。自分を心配してくれる相手に激昂するなんて浅はかな男だ。自分より強い存在に立ち向かえない癖に、仲間には平気で怒りの矛先を向けて。
「…………ごめん。最低だ、俺って奴は」
雀子は戸惑うように唇を噛むと、背中と正面から挟むように、尻尾と体で俺を抱きしめた。
「大丈夫。ボクはまだ生きてるからね。センパイ、泣かないで」
俺の考えは何処までも浅はかで、愚かで、目はあまりにも曇っている。どうして部位の大群達があのまま分離も出来ないと思ったのだろう。研究所の入り口はその一部によって積もるように塞がれており、出ようとするなら別の出口を探さなければならない。幸い探知器官などはなさそうで遠目からそれを確認する事で不意打ちは回避出来たが、これでいよいよ俺達は完全に閉じ込められた。
今はまた医務室に戻って真紀さんの容体を見つつ名案が降ってわいてくるのを期待している。
「この人……生命力が凄い」
「見て分かるのか?」
「お医者さんじゃなくても分かるよ。あんなに血を流してたのにまだ体温は残ってるし……心臓も止まってない。治療は出来ないんだけどね……」
容体を見ているとは言葉の通りだ。診るではない。眺めている事しか出来ないのだ。どういう奇跡か分からないが真紀さんはまだ生きている。そこに人の手が加わればバランスが崩れ死んでしまうかもしれない。だったらこのままにしておいた方がいい筈だ。
勿論それは俺の都合。真紀さんはここで死んでも次のループがあるだろうが、俺達には今しかないのだ。
「出られなくなったけど、どうする? センパイは当てとかある?」
「あったらそっちに向かうよ……一か八か、俺が向こうの世界から戻ってきた機械を触ってダメ元で移動してみる、とか。でも駄目だな。俺って理解してない機械に弱いから、触ったら勝手に壊れそうだ」
「でも行くだけ行ってみようよ。どうせ当てはないんでしょ?」
「まあ、そうか。そうだよな。行く……か。行ってみるだけ、行って……」
それで、いい感じに機械が作動して三姫先輩達と合流。出来ればいいが、世の中そううまくいかない事をさっき知った。俺に幸運があるのなら響希は生きている筈だ。今は、楽観的に運とやらを信じる気にはなれない。祈る気にもならない。何故ならここは科学の上に成り立つ仮想世界。神などいない。
医務室にロックをかけて、雀子の尻尾で背中を守ってもらいつつ移動する。いつ何処から部位が飛んでくるかが読めないならこれくらい徹底的でも足りないくらいだ。時間こそかかったが一度は通った場所。すぐに目的地へと到着した。
「うーん……これ、ボクも分かんないや。行けるかなって思ってたんだけど」
「何で行けると思ったんだよ」
「なんとなく……」
部屋にロックをかけておけば背後から襲われる心配は一先ず考えなくていい。それよりもこの機械をどう動かせばいいのか、どこかに取扱説明書はないだろうか。あっても使えるかは別だけど。
「…………探せそうな場所すらないな」
「この変な装置を作動するのに必要な物しか設置されてないね。入り口が塞がれてるのを突破するのはボクじゃ無理……うーん、尻尾を使えば壊せはするけど、守れないから良くて相打ち。悪くて死んじゃうから。それよりはこっちの装置が動くのを期待した方が良いかもよ?」
ザザ ザ ザザ
『我ノ 肉体ハ 何処ニ在ル』