覚めない悪夢
あれから何時間経っただろう。殆ど不意打ちに近い形で全員が襲われ、俺と雀子だけが逃げおおせた。幸いというか、この施設の殆どは登録された心音を検出出来なければ部屋一つ動けない仕様なので。雀子に少し抑えてもらっている内に俺が指輪で部屋に閉じ籠れば、後は安全だ。破られない限りは……
最初の数分は雪崩が押し寄せてきたような轟音が鳴り響き自分たちの運命はここまでかと諦めもした。だが扉が破壊される事はなく、そこから少し待てば不気味なだけの静寂が周囲を支配しているではないか。
携帯で時刻を見たが、ここが仮想世界である事をすっかり忘れた愚かな行為だ。時計は出鱈目な時間を示している。参考にならない。
「…………大丈夫、そうか?」
「た、多分? 何で、なんの音もしないんだろ」
「……出待ちしてる、なんて考えたくないな。そうなったらもう、詰みだ」
俺達が逃げ込んだのは食堂だ。この先に道はないから別の場所へ行きたければ扉の封鎖を解くしかない。様子見か雀子は尻尾でバンバンと壁を叩くが、それでも反応はなかった。
「食料自体はあるから籠城は出来るけど、こんな所にずっと閉じ込められるのもごめんだな。やっぱり外に出よう。みんなを助けに行かないと」
「駄目だよセンパイっ。安全が確認出来てないのに動くなんて。ボクが……うっ」
「……雀子。お前の方こそ無理するな」
状況も呑み込めないまま引っ張られて逃げてきた。いや、俺はなすすべもなく後輩に連れられただけだ。あの状況から真っ先に逃げる判断が出来た彼女を尊敬すると同時に、自分を情けなく思う。何が何だか分からない事が起きて、確かめたくなって―――何か起きるまで、動くまいとしていた。
そんな俺の侵入思考染みた興味のせいだ。彼女の太腿はずたずたに引き裂かれていた。多分、押し寄せてきた無数の手足が掠めたのだろう。尻尾は柔軟に可動するがその性質上根元は死角になりやすい。
「ごめん。俺のせいで。早く逃げられたらお前にこんな怪我をさせる事もなかったのに」
「へ、へへ。いいのいいの。二回もセンパイを守れちゃった。ボクって、強いんだから」
「…………二回?」
「向こうの世界の記憶が、ね。あの時はすぐ死んだけど、今度は死んでない。えへへ、やった﹀╲」
動きたい理由は他にもある。雀子の治療をしてやりたい。まだ歩けはするだろうが、かといって動こうとしたらこれだ。可愛い後輩に傷ついてほしくないと願うのは傲慢だろうか。
「……待ってろ」
「何するの?」
食堂の奥に行くと、研究所のマップが張り出されていた。道がどう続いているかが直感的ではないもんだから、こういう人の来そうな場所にマップくらいは用意してあると思ったが大正解だったようだ。それによると医務室は正反対の方向にある。すぐ戻ってくるのは難しいか。
「……みんなを探すのはお前が動けるようになってからにする。だから今は治療したい。医務室に行けば救急箱くらいはあるだろ。それを取りに行きたい」
雀子もマップを一瞥すると、医務室と食堂の距離に目を見開き、渋面を浮かべた。
「遠すぎるよ。もし待ち伏せだったら絶対逃げられないじゃん。ボクの尻尾が幾ら長いって言ってもここまでは届かないよ」
「おい、心配しすぎだ。確かに……情けない先輩だよ俺は。お前みたいな強さには期待できないかもしれない。けど……このままお前に頼りっきりで死なせたら、きっと後悔する」
「ボク……多分元々死んでると思うけど」
「実際死んでるか死んでないかなんて、問題じゃない。たとえ生きていたとしても、俺はこの島の住人だ。逆に、死んでいてもお前は俺の大切な後輩だ。こういう時くらい、俺に任せてくれ」
「………………早く帰ってきてね」
雀子は俺と軽く小指を結んだあと、尻尾がとぐろを巻くようにドームを作り本体を包み隠した。俺が居ない間はどの道身動きも撮れないし、これでやり過ごすつもりのようだ。指先が入る程度の隙間もないから心配はいらない。仮に心配でも、自分の身について考えた方がいいだろう。俺にはこんな、便利な尻尾などないのだから。
指輪を近づけてロックを解除すると、静かになった事に裏などなく、単純に死体の手足達が居なくなっただけだった。指先一本すら残す事なく綺麗に消えた事は安堵する反面、あれだけ細々とした群体が統率を取ったまま消えてなくなるというのは、不気味だ。次にいつ出てくるか全く予想出来ない。身を乗り出して通路を見てもやはり何もいない。
後ろ手で食堂の扉にロックをかけて、おそるおそる歩いていく。自分では出来る限り足音を殺しているつもりだが素人に全くの無音は不可能だ。靴の擦れる音や爪先を引っかける音、踏みしめる音などが聞こえてくる。静かであろう静かであろうと意識すると、普段意識しないような音まで騒音のように聞こえてくる。心音でさえ喧しい。
―――何の音も聞こえないな。
無数の死体の部位がもみくちゃになりながら押し寄せるような音も、人の声も、気配もない。雀子が居るから成立こそしないが、いよいよ世界でたった一人になってしまったような寂しさに陥りそうだ。向こうの世界に行けば、先輩達がまた温かく出迎えてくれるのだろうか。尤も、俺に操作する技術もなければ知識もない。飽くまであれは事故であり、帰ってきたならば一方通行に……
「…………せ、先生!」
道中、先生の死体を見つけた。いや、厳密には先生だった死体か。両手両足、それから頭部。全て綺麗に分離したように消失し、俺がそうと判別した材料は服装くらいしかない。死因は失血死だろうか。切断された箇所全てから夥しい量の血を流し息絶えている。ここは仮想世界だが、先生は現実の人間。仮想と現実が混ざり合っているというのなら……生きている可能性は限りなく低い。
「………………」
嫌な想像が頭を過ると、振り払うように駆け出して医務室に飛び込んだ。元々こちらの研究所はそこかしこに死体が転がっておりお世辞にも清潔とは言えなかったがここは例外なようだ。分かっている。使う機会にすら恵まれなかったのだろう。治療道具は一通り揃っているし、ベッドにも使われた形跡がない。一先ず、安心していい。
救急箱も簡単に見つかった。後は後輩の所へ戻るだけだが、本当にこれだけでいいのだろうか。食堂もあまり荒らされては居ないが、ここと比較したら強盗が入ったように散らかっている。壊れた机、バラバラの椅子。まともに移動出来るスペースは実際の広さよりもかなり狭められている。これならこちらを拠点にした方が賢明ではないだろうか。行き止まりという点は共通しているし、何よりこっちにはベッドがある。
「…………」
元は護身用か何かだろうか。医務室の机の上に拳銃が置かれている。心得もなければあったとしても通用するかは不明だが、心が頼りを欲している。今は良識なんて言っている場合じゃない。
拳銃に手を伸ばし、まさに手に取ろうとしたのとほぼ同時。視界の端でどさっと何かが倒れた。
「えっ」
驚いて後方に飛んだのとほぼ同時にその正体を知ると、俺は慌てて駆け寄って彼女を抱き起こした。
「真紀さん!」
雀子の比ではない程全身を切り裂かれているが、致命傷はそれではない。首だ。首に無数の指が突き刺さり、呼吸をせき止めている。まだ生きているのが異常としか言えない重傷を見て、抱き起したはいいがどうすればいいか分からない? 外科手術? 俺は医者じゃない!
「………………ひび、き……ちゃ……」
「―――響希? 響希がどうかしたんですか? 真紀さん! ねえ、目を覚ましてください! 真紀さん!」
「…………………」
ああ、状況は最悪だ。みんな、みんな死ぬのか? 響希 生きてる? 死んだなんて思いたくない。雀子を呼ばないと。何からやる。何をする。どれが正解だ。
夢なら覚めてくれ…………!