第60話 転移者
高さ三メートルある大きな扉、その脇に設置してある人の頭ほどの大きさの水晶。
黒髪黒目の優形の青年が佇み声を震わせていた。
「あー、緊張するなぁ」
青年は体の緊張をほぐすために肩を回し、ついでに首を鳴らす。
ゴキッ
体を小刻みに震わせる青年へ、恭しい様子でパーマのかかった茶髪の男が声をかける。
「何も緊張することなどありますまい。貴方様は立派な我々の王なのです。胸を張ってくだされ幸王様」
幸王と呼ばれた青年は弱弱しく目を伏せて苦笑いを作る。
「そんな、王だなんて。せめて前みたい、行生様って呼んでくださいよ」
肩に重石を載せられているような表情の青年の言葉に、男は首を横に振る。
「そうはいきません。私が軽率な態度でいれば、今からお会いする方々に舐められるのは幸王様なのです。近衛騎士として看過できません。今後、国の命運にも関わってきます。どうか自信をお持ちください」
青年――幸王こと行生は今にも吐き出してしまいそうなほど顔を白くする。
行生が緊張している理由は、この扉の向こうで開かれる数年に一度不定期で開催される会議に出席することを荷が重いと感じていたからであった。
そして会議の内容とは、九つの国の九人の王様たち、総称して九極癲と呼ばれる者たちによる会談なのである。
議題は事前に報せがあり内容自体に行生の忌避するモノはないが、行生にとっては初めて他国の王と出会う状況にいる。
行生は自らの意思で王になったわけではなく、端的に言えば成り行きで王になった身であった。
▽
約一年前。
行生は何不自由なく平和で平凡な生活を日本で送っていた。
ある日、行生は大学から帰宅する際、自身の背丈を越えるほどに積もった雪を見て、ふとした思考に至った。
ここに飛び込んだら気持ちいのかなぁ?
行生はこれまでの人生でやんちゃなことや、危なっかしいこと、羽目を外したことなどなかった。
だが小学生が深雪に飛び込み楽しそうに頬と手を赤らめている仕草に憧れていた。
特段、親の躾が厳しかったわけではない。
真面目に勉強して、真面目に部活を頑張って、近隣や他者に迷惑がかからないように友達と遊ぶ。
困っている知人がいれば助けるが、困っている見ず知らずの人のことは見て見ぬフリをする。
そういう棘の無い人生を歩んできた。
人生に不満があったわけではない。
ただ、親からの愛情を貰った思い出がなかった。
大学に通わせてくれたし、日々美味しい料理を作ってくれ、掃除洗濯もしてもらっていた。
それでも面と向かって一緒に遊んだ記憶がなかった。
まるで機械と過ごしているように。
行生は誰かの大切な存在になりたかった。
だから真面目に生きていた。
だからこそこれはただの出来心、ほんの少しの好奇心であった。
行生は周囲に人がいないことを確認すると、思い切って深雪へ飛び込んだ。
雪に体がめり込み、徐々に下へ埋もれていく。
水へ飛び込むのとはまた違う。
ふわふわでひんやりと冷たい雪は優しく体を包み込んでくれた。
積もった雪には水分が多く含まれており、行生の体はさらに一層沈んだ。
行生が初めての体験に満足して体から力を抜き全身で雪の感覚を確かめていると、雪の粒が徐々に小さく細かくなっていくことに気が付いた。
それと同時に地面であるはずの眼前から風が吹き、全身を何かに引っ張られているような感覚を覚える。
行生は何事が起ったのかわからず焦燥を顔に出し目を見開いた。
視界は真っ白に埋め尽くされており、眼前から吹く風は徐々に勢いを強くする。
真っ白な世界は湿気が多く、全身がびちゃびちゃに濡れていく。
状況を整理したいが徐々に勢いを増した突風によって体の自由は利かない。
ただされるがままでいると視界が急激に青へ変貌した。
正確には青い海が半分と緑と茶色で出来た大地、球体の世界の一部であろう光景が眼下に広がっていた。
行生はそこで初めて状況を理解する。
自身が雲を越える高さから落下していたことに。
重力に引っ張られる自由落下の影響で体を自由に動かすことができず、落ちるしかできない行生は絶望を悟り涙を浮かべる。
「なんでええええええ!!」
積雪へ飛び込んだと思ったらいつの間にか遥か上空から落下している。
夢でも見ているのだろうと意識を切り替えることができれば平常心を保てたかもしれないが、落下による突風と徐々に近づく大地がそれを否定する。
行生は浮かべた涙を上空へ置き去りにしつつ、眼下へ注意を向ける。
注意を向けると言っても今できることはなく、落下地点を見ることしかできなかっただけである。
大地をしっかり目で捉えられる距離まで落下すると、人らしきいくつかの影と四、五階建てのアパートほどの大きさをした真ん丸な物体を視認できた。
よくよく見れば真ん丸な物体は動いており遠目からでも生物だとわかる。
日本で、というより地球でそのように巨大な生物が地上にいるなど聞いたことがない。
このままではぶつかってしまう。
しかし落ちるしかできない行生には為す術がなく、恐怖から涙と鼻水を垂れ流し身を守るように体を丸め力を籠めた。
そして件の巨大生物の頭上、数メートルを切ったタイミングで瞼を閉じる。
何が何かわからないままに、行生は死ぬ覚悟を決めたのだ。
次の瞬間、
ボヨヨヨ~ン
巨大生物の体はトランポリンのように弾性があり、行生は勢いを殺して空へ軽く飛び跳ねた。
「へ?」
死ぬと思い込んでいた行生は弾力のある跳ね返りによる奇跡的な死の回避に困惑し、鳩が豆鉄砲を食ったように目を点にした。
状況の整理が全く追いついていない行生を尻目にするかのように、耳を劈く風船を耳元で割られるような大きな音が鳴り響く。
パアアアンッ!
音の正体は、行生の眼下にいた巨大生物が破裂した際にでた音であった。
その証拠とばかりに巨大生物の血肉がそこかしこに飛び散っている。
そして耳を塞ぎつつ、空から落ちてきた行生へ視線を向ける人影たち。
その瞳に映るモノは驚愕、不可解、虚ろ、様々なモノがあった。
だが彼らの感情など今の行生には関係ない。
雲を越える高さからの落下死は奇跡的に免れたが、今もなお上空十数メートルにいることには変わりなく、再び自由落下が始まる。
行生は一瞬だけ取り戻した安寧を投げ捨てて、恐怖に顔を引き攣らせて絶叫を口にする。
「死ぬううううううう!!」
今度こそ死を悟った行生は幸運を願い再び身を丸める。
当たり前だが身を丸めようと幸運を願おうと自由落下は止まらない。
行生は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で地面を見据えた。
俺の人生、何にもなかったなぁ……
行生が生を諦めた瞬間、軽装甲の鎧を着た男が跳躍し、行生を抱きかかえた。
男はそのまま地面へ降り立ち、勢いを殺すように膝を曲げ、行生を落とさない程度に全身を軽く脱力させる。
またもや何が起こったか分からない行生は目をパチパチと開閉させ呆ける。
男は行生をそっと地面に下ろすと、目を震わせつつ深々と頭を下げる。
「ど、どなたか存じませんが、助けていただき、感謝いたします。私はムシク・ロディと申します」
行生は目を合わせているにも関わらず礼を言われた相手が自分だとは思わず周囲を見回す。
周囲にはムシクと同じように鎧を着た男たちがいた。
男たちは行生と目を合わせると皆、かしこまった態度で深々と頭を下げられ、初めて自身へ皆が頭を下げていることに気が付く。
鎧を着た集団など直接見たことがない行生は、高所からの自由落下に加え、先ほどの巨大な生物のこともあり、訳が分からずに眉間に皺を寄せて目のムシクに向き直る。
「ご丁寧にありがとうございます。俺は比良行生っていいます。そのー……助けたってどういうことですか? 俺何もしてないですし、頭上げてくださいよ。寧ろ助けてもらったのは俺の方ですし、ありがとうございました」
男たち同様に頭を下げる行生に、ムシクは涙ぐみ感嘆を零す。
「な、なんとお心の広い方なのでしょうか。俺たちを助けてくださっただけでなく、恩義を感じさせないように、わざと窮地を演出し助けさせてくださり、あまつさえ頭を下げるなど……このムシク、感激で言葉も出ません」
ムシクの曲解に行生は首を横に振る。
「本当に何もしてないですよ。気が付いたら空から落ちてて……」
行生は事の成り行きを説明しようと頭を巡らせ、とある事象を思い出し焦燥に駆られる。
「てか、さっきの生き物、俺が落ちてきたせいで殺しちゃったみたで、すみませんでした!」
男たちが何者かわからないが目の前で生物の命を奪ったのだ、何をされるかわからない。
誠心誠意謝罪して少しでも情状酌量をはかってもらうしかないだろう。
行生は再度、必至に頭を下げた。
しかしムシクは恭しく丁寧な口調を続ける。
「何をおっしゃいますか、その魔物を倒してくださったから俺たちは生きているのです。感謝してもしきれません」
「え?」
行生はムシクの言葉を頭の中で反芻しつつ、その鎧に視線を向けた。
鎧は血が散布しており、これは先ほどの巨大生物の返り血であることが窺える。
周囲へ視線を向ければ男たちの鎧にも返り血が付いていたが、みな一様に生き絶え絶えといった具合に疲労していることが目に見えて分かった。
大きな怪我などはしていないようだが、脚や腕の防具が取れて血を流している者もいる。
どうやら先ほどの巨大生物から襲われており、偶然行生が巨大生物の頭上に落下して倒してしまったようだ。
あまりにもフィクションじみた話だが、今しがた体験したありえない経験がこれを事実だと肯定する。
行生は納得がいかないまでも、取り合えずの精神で現状を受け止めた。
「そういうことでしたら、俺には何も悪い部分はないってことですか?」
恐る恐る口を開く行生に、ムシクは瞳を輝かせ一つの提案を口にする。
「悪いことなどあろうはずもございません。何かお礼を差し上げたいのですが、今は手持ちがなく。ご足労おかけいたしますが、我々の城までお越しいただけないでしょうか?」
行生はしばし口を結び考え込む。
ムシクたちが何者かわからないが、嘘を言っているようには見えない。
それにわざわざ嘘を付く理由もわからない。
加えて自身の現状もわからない。
ただ一つ確信していることは、この世界が地球ではない。
別の世界に迷い込んでしまったことだけである。
ムシクの提案を断り、独りでこの世界を生きていくことはできるのだろうか?
ムシクが何か企んでいたとして、それは、あの巨大生物が生息するこの世界を独りで生きて行くことと比べて、どちらが自身にとって危険な選択となるのだろうか?
わからない。
わからないが、何もわからないのだこれ以上考えても答えはでないだろう。
それならばせめて、言葉が通じている目の前の人物に付いて行こう。
城へ行くというのだ、この世界の情勢に詳しい人もいるだろう、話を聞いてから今後のことを考えるしかなさそうだ。
きっとそれしか道はない。
行生は独り心に覚悟を決めて、ムシクの提案を受け入れる。
「俺は何も持っていなくて……少しの間だけ衣食住を提供してくださると、大変ありがたいです」
「もちろん、お任せください!」
ムシクは大きく頷くと周囲への男たちへ指示を出す。
「早急に支度を済ませろ! 行生様を丁重にもてなせ!」
ムシクの号令にみな怪我を負った体でテキパキと作業を開始する。
中には痛みに歯を食いしばる者もおり行生は痛々しい光景に顔を顰めるもできる限り笑顔を作り、ムシクへ視線を戻す。
「あのー、俺は急いでるわけじゃないので、みなさんの手当を先に済ませてあげてください」
「!!」
はっと息を吸いムシクは目尻に涙を浮かべる。
「な、なんと心優しい方なのでしょうか……行生様に出会えたことは我々にとって幸運……いえ、亡き前王からの恩幸なのかもしれません。お心遣い感謝いたします。お言葉に甘えて負傷者の手当に移ります。その間、他の者をあてがいますのでお困りの際は気兼ねなくお申し付けください」
ムシクは深々と頭を下げると、帰り支度をする者たちの方へと足を運んだ。
それから直ぐに別の男が行生の許へ来ると、馬車へと案内を済ませてくれた。
十数分もすれば負傷者の手当も終わり、みなが帰り支度を終わらせて城へと帰還した。
その後、城では救世主として行生が称えられ、国中から敬われる存在となった。
どうやら行生の倒した魔物はAランク相当の魔物であったらしく、ムシクたちは全滅の可能性が高かったようだ。
またムシクは近衛騎士と呼ばれ、国では二番目に強く、二番目に偉い権力者であった。
そのムシクから詳しく話を聞くと、行生の勘は正しくこの世界は地球のある世界とは違う世界である。
そして異世界人は類まれなる実力を秘めていること。
その力とは狂癲のことであり行生も既に持っていた。
狂癲の名は『幸』。
目を輝かせたムシクの話は驚きの連続で頭の整理が追いつかなかった。
その中で一つ、ムシクが顔に暗い影を差した話があった。
この国の情勢が芳しくない状況に陥っていることについてだ。
国で一番強く、一番の権力者である王様が病で命を落としてしまったのである。
この世界は実力主義であるようで、王が死んだとなれば他国から強い圧力を受ける可能性もあるのだとか……
世界を平和に保つために三傑驥と呼ばれる、どの国にも属さない最強と謳われる三人がいるようだが、三傑驥が介入してくる案件は大規模な戦争の仲裁などであり、小さないざこざに口は出さないようだ。
王がいない現状では徐々に国の勢力は衰え、他国に吸収されるのも時間の問題である。
なんとも嘆かわしい状況だが行生にできることなどなく、目を伏せていると、ムシクの隣で一緒に世界情勢について話をしてくれているもう一人の男、国軍をまとめる総軍であり、ムシクと同等の実力と権力を持つ無精髭を生やした男――マイクスタフ・ゴーンと名乗る男が一つの提案を口にした。
それは行生を王とする旨のモノであった。
行生はもちろん断りを入れたが、ムシクは乗り気であり深々と頭を下げて懇願した。
運が良かっただけとはいえ、Aランクの魔物を倒せるだけの力があれば王としての実力は十分であるらしい。
国の運営などはムシクとマイクスタフが中心となって行うため、行生はただ君臨してくれていればいいとのこと。
それでも行生は断りを入れ、話は一旦保留となったが、城中に話が広まっており、みな行生を王へと押し上げる。
結果、断ることができる雰囲気でなくなり行生は王となった。
見ず知らずの人物を王にしてよいのかムシクに問うてみたところ。
「行生様がいらっしゃらなければ我々は既に死んだ身。国の情勢も落ちるだけだったでしょう。であれば行生様にお仕えしたく思います。不肖な身ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします」
と、瞳を輝かせていた。
平凡な大学生であった行生には荷が重いことだが、平凡な大学生であったからこそ屈強な大人たちの言葉に逆らうこともできなかった。
▽
そしてこの一年間で世界の常識を頭に叩き込んだ。
魔物や魔術、スキルの存在。
文明レベルに物事の価値観。
実践経験を幾度も積み上げ、王として恥じない実力を身に着けた。
そして今、他国の王たちと初めての会談である。
日本にいたころはバイト先や学校の先生、教授などとしかまともに喋ったことのない行生には荷が重かった。
もちろん事前にムシクとマイクスタフが練習に付き合ってくれているが、それで緊張がなくなるわけもない。
王になって約一年しか経っていない行生にとっては、すぐさま逃げ出したい気持ちで胸が張り裂けそうなのである。
そしてもう一つ、行生の気が載らないモノがある。
それは目の前の水晶で実力を測定することであった。
この世界が実力主義となっている理由は、約三百年前に起こった堕天戦争と呼ばれる天使と悪魔の戦争以前は天使と言われる存在の許に人類は繁栄しており、天使が人類を管理しやすいように設けた制度の名残なのだとか。
この水晶は当時から使用されていた王を順位付けする為の物である。
この制度がなくなっていない理由は単に名残があるから、というわけではない。
三百年の間、一位に君臨し続ける王が平和主義者であり、声高高に反発する王がいなかったからだ。
それでも小さないざこざは存在するため、順位が高いに越したことは無い。
この世界に来て日が浅い行生には高順位を取る自信がなかった。
しかしパーマのかかった茶髪の男、ムシクは、
「順位に拘る必要はありません。王がいるというだけで牽制になります。どうか気を楽にしてください」
と言葉をかけてくれたが、口から心臓が飛び出そうなほどに緊張で体を震わせた行生には何の励ましにも労わりにもならなかった。
それでも扉の前で立ち往生していては他の王たちの時間を奪ってしまう。
行生は意を決して水晶へと手を伸ばし、浮かび上がる数字に息を呑み、大きな扉を開け放った。
――第七位"幸王 比良 行生"――
世界一運の良い青年である。




