第41話 『命』
雫が水面に落ちて波紋が広がり、何も聞こえるはずのない男は鼓膜を刺激されて目を覚ます。
鼻と口には泥と鉄の独特な臭いが充満しており、顔の側面は赤く小さな水溜まりに伏していた。
男は目覚めたばかりで頭が回らず周囲を見回そうとするが、上手く顔が動かない。
その時、男は自分がうつ伏せになって眠っていたことを自覚し、腕を機転に地面に体重をかけて上体だけを起こして寝ぼけ眼で顔を上げる。
そこには踵を返し金棒を肩に担ぐ無数の鬼の姿があった。
その金棒からは血が滴っており、男が目覚める際に聞こえてきた雫の音はあれなのだろうと、なんとなく理解できた。
それ以外に脳は今の状況を説明してくれる様子がなく、男も特段感情が揺れ動くようなことはなかった。
ただ何となく、意味もなく、視線を横に移すと男の瞳からは光が消え、口が半開きのまま眉尻を下げる。
「リイ……シャ……」
頭が無く、横腹が抉られた一つの死体を見て口から言葉が零れ落ちた。
自身で発した声が耳に届くと目尻から涙が零れた。
涙は頬を滑らかに落ちて、小さな水溜まりに波紋を広げる。
泣いている自覚はあった。
自分の心が締め付けられているように息が苦しい自覚もあった。
それでも何故泣いているのかわからなかった。
だが死体の手にある、生前の方が握ってたであろう、体の大きさに合わない長剣を見て全てを思い出した。
いや、思い出したというよりも、頭が勝手に目の前の事象に蓋をして理解しようとしなかった……
これも違うか、理解できなかったと言った方が正しいかもしれない。
愛する人が目の前で殺されたこと。
そして男自身もあの金棒で頭を潰され死んだはずだ、脳が困惑するのも無理はない。
そう男、ミル・ノルベルも死んだはずだ、にも関わらず僕には意識があるし体も動く。
その理由に心当たりはないが今僕がやることはただ一つ。
彼女の死を弔うことだ。
僕は起き上がり、力なくゆったゆったとリイシャに近寄る。
葬儀などに出たことがない僕には死者の弔い方など曖昧な知識でしか知らない。
しかもそれは日本にいたころのモノだ、この世界での弔い方はわからない。
それでも、リイシャをおじさんとおばさんの居る家に連れ帰らなければならない……
未だに夢でも見ているかのように頭に靄がかかって上手く思考がまとまらず、ただリイシャの前で立ち尽くす。
横から物音がしたので何気なく視線を移すと、踵を返したオーガの群れがこちらに向かって重たい足音を響かせて歩いてきていた。
「リイシャを……護らないと……」
オーガたちは今しがたどこかへ帰ろうとしていた、そのためこちらに引き返して来ているとはいえリイシャに何かをするわけではないはずだ、狙いはなぜか生きている僕を殺すことだろう。
ならばこの場を一刻でも早く離れることが賢明な判断だと言える。
それでもリイシャを置いていくという発想には至れず、僕はオーガの群れに向き直る。
オーガたちが金棒を振り上げ、足を早めて駆け出す。
僕は手を開閉し体が自由に動くことを確かめる。
魔力枯渇を起こした体でどこまで戦えるかわからないが、魔力を籠めた掌を正面に突き出して魔術を唱える。
「『エレクトリック』」
放たれた雷撃は道幅を埋め尽くすほど広範囲に迸り、目を焼き尽くさんとするほどに眩く輝いた。
前方にいたオーガはもちろん、その後ろにいたオーガ数匹も全身を焼き焦がして煙を上げ、その場に音を立てて倒れる。
体が動いても魔力はほんの少し回復しただけでほぼ枯渇したままたど思っていたため、全ての魔力を籠める勢いで『エレクトリック』を放った。
しかし蓋を開けてみれば、全身全霊の『エレクトリック』と大差ない威力と範囲の大きさに、僕は戸惑い手をもう一度手を開閉して感覚を確かめる。
少しずつクリアになってきた頭で全身の感覚と視覚から得られる情報を吟味する。
どうやら体中の傷は治っており、魔力も万全まで回復しているようだった。
ただ、僕の服は泥にまみれ所々破ており、他には僅かに赤い斑点、血のようなものも付いていた。
背負っていたはずの折れた槍はいつの間にかなくなっており、服や武器は体のように直っていないようだ。
脇道を塞いでいたオーガの群れは、僕たちを追いかけて来ていたオーガの群れと合流している。
いくら魔力と体力、傷が回復したとはいえ、全てを倒せるとは思っていないが、やはりリイシャを置いてはいけない。
「借りるね……」
僕はリイシャの手にある長剣を手に取り、柄を両手で握り肩に担ぐように構える。
長剣の重みで刃が僅かに肩に食い込み、耐えるようにズシリと腰が落ちる。
「こんなに重たかったっけ……リイシャは片手でも使ってたし、凄いな……」
久しぶりに持ったリイシャの長剣は、僕の手に馴染まず違和感が生まれる。
長剣の重さ自体は槍と大差なく、せいぜい一キロ前後の差だろうが重心が異なることが原因だろう。
僕が違和感を確かめていると、オーガは慈悲もなくただ金棒を振り下ろしてきた。
金棒の軌道に合わせて長剣を振り上げるが、もとより力ではオーガに軍配が上がる。
慣れない武器、加えて普通の剣以上に長く重たければまともに受けきることも困難であり、長剣を地面に叩きつけられる。
ばっさばっさと軽々なんでも斬っていたリイシャの戦闘技術の高さが窺える。
手放して魔術のみで戦う方がやりやすいのだろうが、それでは直ぐに魔力が枯渇してしまう。
目の前には数えきれないほどのオーガがいるのだ、少しでも長く戦い続けて、少しでも多くのオーガを倒して、リイシャを連れて帰るんだ、あの暖かな家に……
「うおおおおおおおおお!!!!!!!!!」
声を荒げて振るう一撃は軌道がぶれ、たどたどしくくもオーガの首を捉えて力任せに両断する。
オーガは血飛沫を上げてその場に倒れるが、続々と夥しい数のオーガたちが金棒を振りかざす。
迫りくるオーガの群れを前に、掌に魔力を籠めて威力を落とした『エレクトリック』を放ち突撃する。
オーガたちが電撃を浴びて硬直した隙を突き、ぎこちなく長剣を振るいオーガの首を一体一体できるだけ間隙を作らないように切り落としていく。
長剣の扱いに慣れていていなくとも、相手が止まっていれば関係ない。
加えて『エレクトリック』の使用魔力量も抑えているため、拙い長剣捌きと魔力の温存の両方をカバーできる。
オーガの硬直が解ければ『エレクトリック』で動きを止めて、長剣で首を斬る。
同じ動作を何度も何度も繰り返すが気を抜ける瞬間はどこにも存在しない、オーガの一撃をまともに受ければ大量のオーガたちから一斉になぶり殺しにされるだろう。
ただ幸いなことに『エレクトリック』に対して金棒を放り投げ電撃を誘引して防いでくるようなオーガがいないことだけが救いだった。
一撃も受けることなく三十分も経たない時間で、数十を超えるオーガの死体を積み上げる。
このままオーガを倒しきることができれば……
しかし、僅かな淡い希望を見ることすら許さないと言わんばかりに体力と魔力は減る。
疲労が急速に溜まり、頭の中に靄がかかったように意識が飛び飛びになる。
全身全霊で戦い続ける僕の努力とは裏腹に、オーガの数が減ることはなかった。
いや、何体も倒してそこかしこに死体が転がっているのだ、オーガの数は減っているが視界には依然として道幅を埋め尽くすオーガの群れだけが映り、実感が湧かない。
オーガの金棒で腕が折れ、腹部への蹴りで内臓を潰される。
痛みを叫ぶ暇すら与えられず、
そのときが来てしまった……
二度目の魔力枯渇である。
全身から力が抜けて長剣が放るように手から離れ、僕は転ぶように音を立てて顔から地面に倒れこんだ。
目の前に転がる長剣の柄に手を伸ばすが、手は力なくだらんと地面に落ちる。
「まだ……」
立ち上がろうと肘を立て掌で地面を支え上体を起こすが、力が入らず手が滑り上体が落ちて地面にうつ伏せになる。
また這いつくばるしかないこの状況に、苦虫を嚙み潰したように歯を食いしばり、顔をしかめるしかない僕の頭に、
「クソ……」
無情にも金棒が振り下ろされた。
雫が水面に落ちて波紋が広がり、何も聞こえるはずのない僕は鼓膜を刺激されて目を覚ます。
鼻と口には泥と鉄の独特な臭いが充満しており、顔の側面は赤く小さな水溜まりに伏していた。
僕は目覚めたばかりで頭が回らず周囲を見回そうとするが、上手く顔が動かない。
その時、僕は自分がうつ伏せになって眠っていたことを自覚し、腕を機転に地面に体重をかけて上体だけを起こして寝ぼけ眼で顔を上げる。
そこには金棒から血を滴らせるオーガが、僕を見下ろすように立っていた。
「えっ……?」
僕の口から呆けた声が零れた瞬間、目の前のオーガは金棒を振り上げて僕の頭を目掛けて振り下ろす。
何が起こったかわからないが避けるには体勢が悪く、一か八か咄嗟に掌をオーガに向けて魔術を唱える。
「『エレクトリックサンダー』」
雷撃はダンジョンの閉鎖的な空間という特性も相まって、音を幾重にも反響させ、鼓膜が破れてしまうほどの轟音を鳴り響かせながら、オーガの上半身と直線上にいた後方のオーガを焼き抉った。
今の一撃で、どれだけのオーガが命を落としたのだろうか……
全身全霊の高威力な一撃に、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くして呆けていると、『エレクトリックサンダー』の直撃を免れたオーガたちが大地を踏みしめて駆け出して来る。
地に手をついて立ち上がると、全身の傷が癒え、疲れもなくなっていることに気が付いた。
「また、治ってる……」
掌をオーガたちに向け今度は『エレクトリック』を放つと、電撃が迸り襲い掛かって来たオーガたちを硬直させる。
「魔力も戻ってる……なんで……いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない」
僕は自身の体に起こっている現象に心当たりがなく、どういった原理なのかも理解できていない。
それでも考えることを止めて長剣を握る手に力を籠め、オーガの首を斬り落としていく。
そして何度も電撃を浴びせて何度も何度も斬る。
何度も何度も電撃を浴びせては斬り、ときには雷撃を放つ。
そして何度も金棒で骨をへし折られて何度も何度も痛みに歯を食いしばる。
何度も何度も内臓を潰されては血反吐を吐き、意識が朦朧とする中、心臓の鼓動が止まる。
だが目に映る世界は途絶えることなく、息を吹き返す。
殺された実感と共に傷は癒え、体力と魔力は回復するが、心を蝕む苦しみと、体が覚えている痛みは消えない。
それでも暴力の雨が止むことは無く、憎悪に満ちた心と恐怖に怯えた体で立ち向かう。
そしてまた繰り返した。
何度も電撃を浴びせ、何度も斬って、何度も雷撃を放ち、そして何度も何度も殺されては目を覚ます。
何度目かもわからないほど目を覚まして、僕はようやく絶望を実感した。
「なんで今更こんな力……あともう少し、早くこの力に目覚めてたら、リイシャを護れたのに……ミルに、誓ったのに……」
僕は一歩遅い力の覚醒を悔しく思い、護り切れなかったリイシャ、そして"ミル・ノルベル"との誓いを想い、断崖絶壁から身を投げ出した日と、目を覚まして二人に誓った日のことを思い出す。
そして、ある一つの仮説に気が付く……
あれ?
今、この力に目覚めたんだと思ってたけど、思い返せば……
僕がこの世界に来たときはボロボロの服で地面に寝てて、ミルの記憶を見てからはミルが崖から飛び降りて自殺した直後だったんだってわかった。
日本の僕がどうなったかはわからないけど、死んだミルの体に僕の魂が入ることで転生が成功(?)して生き返ったのかと思ってた。
でも、魂が入ったとしても、あの高さから落ちた体が無事な訳がない……
もしかして、この力は、この世界に来たときから僕が持ってたとしたら……
自分の無知、無能、無力さに打ちひしがれて長剣を手から落とし、膝から崩れ落ちる。
「僕は……僕は、何をやってたんだ……こんな、こんな凄い力があるなら、リイシャを護れただろ……なんで、なんで気づかなかったんだよ!!」
掌を爪が抉るほどに力を入れて握りしめた拳で、思い切り大地を殴る。
守れたはずの誓いを果たせず、護ると誓った愛する人を見殺しにしてしまった。
この現実は覆らない……
自身の愚かさに耐えられず、頭で何も考えられなくなった。
ただ、こんなどうしようもない阿呆は生きていてはいけないと、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
僕のせいでリイシャは死んだのだ。
僕が何もしなかったからリイシャは死んだのだ……
なのに、なぜ僕は生きているんだ……
僕に生きてる価値なんてないだろ。
もう守る誓いも、護らなきゃいけない人もいないのに……
もう生きていたくない、お願いだから僕を、
殺してくれ……
光を失った僕の瞳には、金棒を振り上げるオーガだけが映っていた。
オーガは金棒を振り抜き、僕の頭蓋を粉々に砕き僕の体は地に伏した……
しかし薄暗い土の壁と赤い血の水溜まり、ぽたぽたと滴る血の音、金棒を手に持つ無数の鬼が視界に映る。
僕は死なないんじゃない、死ねないんだ……
「ああ、あああ、ああああああああああ!!!!!!!!!!」
今は何も考えたくなかった。
逃げ場のない感情、そしてリイシャの死の責任から死んで逃げようとした己の醜さに、僕が僕であるために思いとどまらせていた感情を爆発させ、慟哭とともに雷撃を轟かせる。
オーガを殺した。
殺して殺して殺して殺され、殺して殺して殺して殺され、皮膚を焼き、皮膚を斬り、肉を抉り、肉を裂き、骨を焦がし、骨を断ち、何度も何度も何度も何度もオーガを殺し、腕をひしゃげ、脚を砕かれ、背中を折られ、腹を穿たれ、頭を潰され、何度も何度も何度も何度も僕は殺された。
どれだけの時間、どれだけの回数、殺して殺されたのかわからないが、気が付けば周りに立っている影は僕一人だけになってた。
オーガの死体は山のように転がっていたが、血にまみれた石ころもいくつか点在している。
オーガの死体が気化して魔力石だけが残ったのだろう。
話には聞いていたが魔力石を見るのは初めてだ、長い間オーガたちと戦い続けていたのかもしれない。
死体と魔力石は見渡すだけでも数百は優に超えている。
引き返した大きな空間にいた数百のオーガの大群も殺し尽くしたのだろう。
だが今の僕にはどれだけのオーガを殺したかはどうでもよい。
歩を進めてリイシャの傍まで歩み寄ると、その場に座ってリイシャを抱き寄せた。
何を思ってリイシャを抱き寄せたのか自分でもわからない。
ただ滂沱の如く涙が流れ、喉が焼けるほどに咆哮した。
そうしないと心が壊れそうだったから。
「あああああああ!!!!!!!」
涙が枯れて喉も枯れたとき、リイシャの流す血が乾いて固まっていたことに気が付いた。
僕が抱き寄せたとき既に血を流していなかったかもしれないが、そんなことすらも覚えていないほどに、何も考えることができていなかったのだ。
ほんの少しずつではあるが感情が抑えられ頭が働きだしたため、改めてリイシャの死を弔む方法を思案する。
まずはこのダンジョンから抜け出しておじさんとおばさんに会いに行く、もちろんリイシャを連れて……
しかし抜け道は見つけられておらず、リイシャを連れて行く方法が思い浮かばない。
死体を担いで移動となると通報されることは確実だろう、たとえ寝袋などで隠したとしてもいずれ腐ってしまう。
遺体は時間が経つにつれ腐敗臭が強くなると聞いたことがあるし、そうなると臭いで発覚する可能性もある。
苦肉の策ではあるが死体を燃やすしかないだろう、そうして遺骨だけでも持ち帰る。
それが一番だ、きっと……
僕は腰に下げていたボロボロの小物入れようの袋を『エレクトリック』で燃やし、小さな火を消さないようにリイシャの上にそっと置く。
この程度の火で火葬するには火力が低すぎることは明白なため、威力を調整して『エレクトリック』をリイシャ自体にも放つ。
それでも火葬が終わるまで相当な時間を要するし、火が消えないように『エレクトリック』を重ね掛けしなければならない。
時間も魔力もどれだけかかっても構わない、最後の最後までリイシャを見届けよう。
「これを使え」
焼き焦げるリイシャを見届ける決意を僕が心にしたとき、コロコロと少し甲高い音を鳴らして小瓶が地面を転がるとともに、低い声が聞こえた。
小瓶は僕の足に当たって動きを止める。
声をかけられるまで気が付かなかったにも関わらず、背後から全身を刺すような重く痛い圧を感じ、恐る恐る振り返る。
そこには、背丈が二メートル強、内に秘める力強さが肌を突き刺すように猛猛しい圧を放ち、ゴツゴツとしていながら引き締まった体躯を持ち。
頭頂部から背中までを覆う白の布、しっかり閉じているが僅かに上げた口角、視界を確保できるように目元だけ開けた穴、人の顔のように立体的でかつ作り物と一目でわかるような真っ白の仮面を付けた大男の姿があった。
誰だ?
このエリアには、僕以外誰もいないはず……
僕はオーガが跋扈する新エリアに人がいるとは思えず、思案を巡らせつつ静観を貫いた。
僕が微動だにせず大男の観察に重きを置いていると、大男は顔を隠していた仮面をとり腰に仕舞い素顔を曝け出す。
「!?」
僕は口を固く結び、唾を呑み込み驚きを抑えた。
大男が曝け出した素顔は、目鼻立ちのくっきりしたオーガの顔であったのだ。




