45.子
「こっち来ないでよ!」
バリンと足元で花瓶が割れ、足も制服もずぶ濡れになった。
投げられた破片で頬が切れ、血が水浸しの床に垂れた。
その血でさすがにまずいと思ったのか皆がビクッとして、教室の端に逃げていく。
「あ……あんたが悪いんだからね……!? 意地悪しないで……!」
「なんの騒ぎ!?」
教師がやってきて、割れた花瓶と怪我をした疓憝に顔面を真っ青にした。
「何があったの……!?」
「せんせ〜……! ね、疓憝ちゃんがいきなり花瓶を落として……!」
「ちがっ……!」
否定する前に皆が教師の後ろに隠れ、教師は皆を庇った。
聞く耳持たず、八歳の子供に恐怖の目を向ける教師が怖くて、言葉が詰まった。
何を言えばいいのかわからず、口を開こうとして、息を吸ってしまった。
呼吸が狂って息が上がり、足が震え、視界が白くパチパチと弾け、失神寸前で、誰かの声が聞こえた。
「うわ汚たないッ! ちょっと先生! んなガキ共庇ってないで掃除させてよ! 無能が無能守って意味ねぇだろ」
「疓憝! 帰ろう疓憝! お父さん帰ってきたんだって! 雨々驟さん来たよ!」
「俰盤……」
「荷物は? 準備してないの? おっそいねぇ。早くやって」
頷いた疓憝が去っていったのを見送り、花瓶のそれを見下ろした。
疓憝が落としたにしては疓憝の立ち位置から向こうに飛んでいってるし、それは一方にしか飛んでない。普通真上辺りから落としたら四方八方に飛び散る。推進力が残るまま割れたか。
「俰盤ちゃん……! それ疓憝ちゃんがやったんだよ……!」
「姉がやったことは妹が片付けなさいよッ!」
金切り声が聞こえると、俰盤は陶器片を拾い上げた。
歩いて、小走りになって、教師の顔面を押し退けそいつを皆の輪の中から引きずり出して、破片が散らばる場所に押し倒した。自分の足に破片が刺さるのも気にせず馬乗りになって、頬を持った陶器片で滅多刺しにする。
「姉の処理は私がする。けどお前の処理をやるほどお人好しじゃあねぇよ? 私は疓憝の妹であってお前の召使いでも教師の金づるでもねぇ。疓憝の気が弱いからって父親がスイハの管理人だからって悪を押し付けるな。低脳は低能らしく大人に使い潰されて死んでろ」
泣き叫ぶ声が上がり、教師は俰盤を突き飛ばすように押し退けてその子を抱き上げた。
破片を抜いて、血まみれの頬を押さえる。
俰盤は立ち上がると、破片を払い髪を後ろに流した。
「ガキが大人の操り人形と思うなよ」
「……俰盤……?」
「ねぇお父さんが帰ってきたの! 体育祭のときにさ! お弁当お願いしようね!」
「う、うん……!」
走っていったスイハ姉妹を見送り、自分も帰ろうと荷物を背負った。
「さよーならせんせー」
家に帰ると、自室に荷物を置いた。
ブレザーを脱いでベストに着替え、ネクタイを外すとループタイにブローチを留めた。
変なところがないかを確認して、父の部屋に向かう。
廊下で三十分になるのを待ち、ノックをした。
「父様、ただいま帰りました。失礼します」
中に入ると、仕事中の父の代わりとでもいうように秘書のライムがお辞儀をした。お辞儀を返し、部屋の中に母の気配がないのを確認する。
「父様、スイハの管理人の娘二人を見てきました」
「ん〜」
「上手くやれば関係を築けるかもしれません」
「……おいで」
手招きされて、心が浮き立った。
走りたいのを我慢して隣に立つと、頭を撫でられる。
「学校頑張ってる?」
「はい。父様が第二に入れてくださったおかげでとても過ごしやすいです」
「成績はどう」
「今期はまだ出ていませんが、前期は満点で学年一位でした」
「よかった。そのままキープするんだよ」
「ピステルの名に恥じない成績を残します」
頭を撫でていた手が頬に滑ると、ふにふにと頬をつままれた。
初めてのことで動揺して、視線の範囲内にライムがいないのを確認し父を見上げる。
「あの……?」
「お母さんに似てるね」
「……顔、ですか?」
「顔はどっちかと言うと俺かな。憎たらしいほど俺に似てる」
「にく……」
「髪を伸ばしなさい。俺も昔伸ばしてた」
「そうなんですか……!? では、伸ばします……!」
「俺ができなかったことをやりなさい。お前はお母さんの血も入って優秀だから、きっといい腕を持つ。いい成績を残せる。人も仲間も自信も結果も名声も、全て成績を出したあとについてくるものだから」
「俺は、父様のあとを継いでも恥ずかしくないように努力します。俺の中で父様は憧れです」
「…………その目を俺に向けるのはやめなさい。もっと優秀な人、天才的な人は多くいるから。お前はその人たちを追いかけても途中で折れない力があるから」
父の頬を撫でる手が降りて、言ってはいけないことだったと自覚した。
「……俺は、産んでくれた母様にもここに置いてくれる父様にも感謝して、こんな人格者になりたいと思っています。能力は、金の世代の一人、佚世さんを目指した方がいいのかもしれません。けど、俺の中で一番の憧れはいつまでも父様です。それは誰になんと言われようと変わりません」
目を見て、そう断言できる息子が眩しくて、少し目を細めた。
頬を両手で包むと、ふにふにと押える。
「ほんと、お母さんそっくり」
その二日後、今日は朝から両親が出かけてライムもそれについて行っているので、家に一人だ。
こういうことは結構頻繁にある。父は母を溺愛して、まぁ母はだいぶんツンとしているけど。
凸凹な二人だが凸凹だからこそ上手くハマっているとライムが言っていた。子供に何言ってんだと思った記憶がある。
キッチンに行ったが食べれそうなものが余っておらず、仕方がないので勉強道具をリビングに持ってきて机でやり始めた。
普段は部屋でやるけど、今日は誰もいないので。
夕方、千綯があまりにも気にする様子だったので早めに帰ってきた。
電気を付けると珍しくリビングで寝ていて、千綯はそばに駆け寄った。
頬に手を当てて、律の方に振り返る。
「ねぇ冷たい……!」
「退いて」
そばに膝を突き頬に手を当てると、微かに色が悪く発汗していた。
「なんか飴かなんかない? 低血糖起こしてる」
「ジュース、なら……!」
「ジュースでもいい。あとお菓子」
「うん……!」
「なつ、なつ起きて」
体を揺すると、昏睡状態ではなかったようでぼんやりと目を覚ました。
「とうさま……おかえりなさい……」
「ただいま」
起き上がろうとするので抱き上げて、体を支えた。
すぐに千綯がジュースを持ってきて、少し戸惑う祉夏にそれを飲ませた。
「ごめゆねなつ、もっと連絡入れたらよかったね」
「いえ……帰り早かったですね」
「なつが心配で帰ってきたの。今日すぐ食べれるもの用意してなかったから……」
千綯が祉夏の頬を撫でると、祉夏は少し申し訳なさそうな顔をした。
律は祉夏の頭に手を置くと、ギュッと抱き締める。
「悪化する前でよかった。お母さんの勘無視してたら救急搬送だったから」
「……すみません、邪魔してしまって……」
「邪魔じゃないよ。なつに会えたんだし。今度は三人で出かけようね」
律はなつを抱き締め、今律の膝の上で抱き締められているという状況を自覚したなつは少し慌てたが、嬉しかったのかすぐに小さく頷いた。
ふと、二人で千綯の方を見ると、千綯はぼろぼろ泣いていた。
なつは慌てたが、律は久しぶりの泣き顔に少々興奮する。
なつを抱えたままそばに寄ると頬を拭った。
「どうしたの」
「……なんか、色々。なんで嬉しそうなの」
「泣いてるの久しぶりに見たから」
「子供の前でなんてことを」
「なんで泣いてるの?」
「……なつが元気だったから安心したのと、律がなつに父親してたから感動して」
「なにを。毎日父親じゃん」
「父親らしいことなんてわからないってずっと赤の他人で接してたでしょ……!」
「……そんなことないよねぇ?」
二人の話がよくわからないなつは律の問いに、とりあえず頷いておいた。
「ほら」
途端、何故か千綯は履いていたスリッパの片方で律の頭を殴った。
「おいでなつ。お土産買ってきたよ」
「は、はい……! とうさま……」
「…………ねぇもっかい!」
「子供の前で気色悪いことすんな変態ッ!」




