精神病患者のいる風景
はなちゃんがリストカットをしてから、2か月が経とうとしていた。もうとっくに体の傷は癒えたはずなのに、彼女の心の傷は癒えることはなかった。その日すぐに、精神科に向かうと彼女は躁鬱であるという診断が下ったのだ。
きっかけはほんの小さい事だった。彼女に子供ができないことを、僕が咎めてしまったことだ。けれど、それ以外にも仕事のミスや実家を出てからの慣れない結婚生活に疲れた、とか今思えば色々あったと思う。それから、職場に休職願を出したり、色々とやることは多かったが、彼女にひとまず休息が与えられた。
僕は最近、はなちゃんの居るマンションの一室に帰るのが不安になっていた。もしも、彼女が死んでいたら、またリストカットをしていたら、そんな不安が頭から離れなかったのだ。ドアノブに手を掛けると、ひんやりとした金属の冷たさを感じ、なんだかそれは死人のそれを思わせてゾッとした。
「はなちゃん、ただいま」
返事はなかった。もしもの妄想が頭を駆け巡るが、そんなはずは無いと冷静を取り繕って洗濯物が散らばったリビングを通り抜けて寝室に向う。
「はなちゃん」そう言いながら寝室の扉を開けた。
彼女は、ただ布団に横になっていた。小さな寝息が聞こえる。小刻みに身体は上下し、それは確かに生きていることを僕に伝えさせた。扉を開けた際に彼女の頬に夕日が差し込んだが、起きる気配はない。明らかに過睡眠気味だったが、医師からは好きなだけ眠らせるようにと指導があったのでそのままにしておいた。
幸い、昨日炊いた冷や飯が残っていたので、それでチャーハンを作っていたら、はなちゃんがパジャマのまま起き出してきた。
「あ、今日もご飯つくれなくて、ごめんなさい」
「いいんだよ。そんなこと別に」
彼女のできることは、日ましに少なくなっていった。前はもっと自信に満ち溢れた人だった。
はなちゃんは黙って席に着いた。僕は、出来上がったばかりのチャーハンを彼女の前に並べる。
「サラダも汁物も無くてごめんね」
「ううん、作ってくれるだけでありがたいわ」
「はなちゃん、お昼は何を食べたの?」
「あ、寝ていたから食べてないの」
「薬は?飲んだの?」
その瞬間、彼女は思い切り机を叩いた。チャーハンの入ったお皿が少し揺れて、飛び散った。
「そんなに怒らないで!怒らないでよ!」
金切り声が、部屋の中に響く。僕は彼女を抱きしめた。
「怒ってない、怒ってないんだよ」
ふー、ふー、と彼女の方が大きく揺れた。生暖かいものが僕の手に伝わる。彼女の涙だった。
「もう、私の事なんて、嫌いでしょう?こんな奴、イヤでしょう?」
絞り出すように彼女は言った。
「イヤとか、嫌いとか思ったことなんて一度も無いよ」
僕の本心だ。彼女がどうなっても彼女が好きだ。
「じゃあ、好きなの?」
「そうだよ。大好きなんだよ」
「どうして?こんな奴お荷物じゃない。貴方の人生にとっていない方が幸せになれるじゃない」
「大好きなんだよ。どうなっても、大好きなの」
「名前を呼んで」
「はなちゃん、はなちゃん、はなちゃん」
僕は優しく彼女の背を撫でてやった。背は大きく上下を繰り返していたが、いつか上下の幅が小さくなり、普通の呼吸へと戻っていった。僕の手は彼女の涙と鼻水でベトベトになっていた。
「ほら、鼻をかんで」
落ち着きを取り戻した彼女の顔を拭いてやった。
「僕がね、はなちゃんを嫌いになる事なんてないんだよ」
「どうして?」
「そういうものなの」
「私なんてなんの役にも立たないじゃない」
「そういうものじゃないんだよ」
どうすれば彼女に理解してもらえるのだろうか。本当にいるだけで良いのだ。僕にとって彼女は宝物だった。だから、彼女がリストカットしたとき、僕は泣きながら彼女の両親に謝った。
「チャーハン、温めなおすね」
「ありがとう」
チャーハンを電子レンジで温めなおしている途中、彼女の好きな曲をかけてやることにした。Sweet Dreams(are made of this)という曲だ。洋楽を聞かない僕には何が良いのかよく解らなかったが、彼女が喜ぶから流しているだけだった。
「ふーん♪ふーん♪」
彼女の鼻歌が聞こえてきた。英語を話せないから殆ど歌えないのだ。
僕たちは、ほとんど義務的にチャーハンを口に運んだ。
食事を食べ終わると、僕は彼女に薬を飲ませてやった。やたらに量が多いのには毎度のことながら辟易する。
「眠い」
「寝てていいよ」
僕は、食器の片づけをした。
明日は、彼女の病院の日だ。
きっと彼女は病院に行きたがらない。でも、明日のことは明日考えればいい。