時間と本質の関係
一人の人間は人生において様々な現実の断面を見るが、その断面のすべてを自分の知性で受け入れ、消化するのは難しい。そこで人は現実を、自分の見たいと思う断面のみに集約させようと試みる。通常、これが「イデオロギー」と呼ばれているものだろう。
私が筋金入りの知性というものに驚嘆するのは、その人間が、現実の様々な断面、側面をそっくりそのまま引き受けようとした姿勢の為に他ならない。彼は勇気を持って世界を見た。世界の諸矛盾を恐れなかった。彼はそれら、統合できないように思われた様々な側面を一つの、自己、自己の頭脳、知性というものによって統合した。
それは普通、言葉で表現される。例えばパスカルの次のような言葉はどうだろう。
「では、人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という混沌、何という矛盾の正体、何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬との掃き溜め。宇宙の栄光であり、屑。」 (「パンセ」)
おそらく現代の慧眼な読者はこの文章に心を動かされないだろう。私も最初は、この文章にさほど感動をしなかった。いやむしろ、陳腐であるとさえ感じた。だがこれが陳腐であると感じる私の心が陳腐であるとは後から知らなければならなかった。
この文章のタイトルは「時間と本質との関係」としたが、それは本質とは、様々な局面をくぐり抜ける時間軸から生まれると考えているからである。本質は様々な諸矛盾、断片を一つに統合するもので、その一例として上記のパスカルの言葉を引用したわけだが、この言葉のように、掴まれた本質が一見陳腐な、ありきたりな事を言っているように見える場合もある。ここでは人は感動しない。あるいは多くの人は感動したりしない。人は見たいように世界を見るので、世界の多様性を一つに包含した知性をも、彼らの色眼鏡に沿って一色に塗って理解しようとする。
話を進めよう。今、イメージしているのは、現実とは時間の相で見るならば、様々なその時々の断片として現れるという事である。これはその時々の「現在性」として考えられる。人は誰しも「今」を生きている。これは非常に見やすい事だろう。
私がこの問題について考えたきっかけは、非常に卑近な事柄からだった。これを書いている今は2020年の4月10日だ。コロナウイルスが流行っていて、日本でも感染者が五千人に達しようとしている。千人以下でなんとか収まっている、という状態からここ最近で一気に増えた感があり、これからも予断を許さない状況だ。
それで、今から二、三週間前には「日本でコロナが広まらない理由」のような、日本人の自愛心をくすぐるような文章がいくつもネットに転がっていた。またそれを称賛し、受け入れる人も多数いた、という事を私は忘れたくはない。しかし今は五千人近くまで広がっている。これからもっと広がれば、その手のエッセイはもう書かれないだろうし別の論調になるだろう。
私が気になるのは「日本でコロナが広まらない理由」というような文章を書いた人は果たしてこの先、その文章を覚えているだろうか、書いた事を覚えているだろうかという事だ。責任というほどの大きい話にはしないが、覚えているのか覚えていないのか、あるいは覚えているとして、過去に書いた事、自分の為した事に対してその人がどう感じたのかが気になる。またそういう文章を受け入れ「日本ではコロナが広まらない、日本は大丈夫」と信じていた人は、かつての信念をどう思うか、気にかかる。現状でも既にかなり広まってきているからだ。
ここで言いたいのはコロナという個別的な現象だけではない。太平洋戦争時、戦争肯定派だった人が敗戦を機に、一夜にして親米になり、反省し始めたという事実が私は納得できなかった。「日本のいちばん長い日」では、戦争が終わったにも関わらず戦争を続けようとした陸軍将校の姿が描かれていて、私は彼らのしようとした事は間違っていたと思うが、しかし彼らにはシンパシーを覚える。
さてお前は何が言いたいのかと言われれば、人は通常、時間を生きていないのではないか、という事だ。人が生きているのはその時々の「現在」であって、断片でしかない。その薄い膜のようなものの上で人は色々に議論し、罵り合い、「いいね」をつけたり「低評価」をつけたりするが、それはあくまでも「現在」という一時的なものの線上でしかない。そして次の局面、次の現実が来ると彼らは過去をあっという間に忘れて、また新たな「今」にすがりつこうとする。
時間を生きるとは、現実の様々な断面が視野に入ってくる事である。現実というのは多様なものであって、だから、ある側面において正しい事が別の側面において正しいとは限らない。実に色々な局面が現実には浮かぶ。その中で、現在にのみ生きる人は、時間が分断されている為、断面しかつかめない。現実と現実との差異を知性で引受け、統合する「我」の働きがない。
私がここで想起している哲学的真理、パスカルの言葉のごときものは、時間の中を実存的に生きる「我」が、彼が体験し、洞察した様々な現実の局面を引き受けた所に生じる。そのようにイメージしている。真理とは時間の中を生きる「我」とセットであると考えたい。今だけを生きる人間はその都度正しい事を言うだけで、過去と現在、現在と未来において彼は引き裂かれ、統合されていない。彼は時間の中では一人の人間・統合体とは呼べない。だからこの人物の全体像を掴むのは難しい。彼は彼を支配している時代や環境に埋没して存在している。
コロナウイルスの件に戻ると「何故日本ではコロナが広がらなかったのか」というような文章はその時には正しかったわけだ。その時は、相対的に見て少数だったから。それが数が増えてくるとそう言えなくなってくる。そこには時間というものによる変化、それも予測できない変化が加わっている。コロナに関するエッセイを書いた人は、その時の、三週間前程度のある時期においては正しく、それを信じたい人の心情もその時のものとしては確かに存在するものだった。それが時間の中では意味のないものになってきているが、私の疑問はこの「意味のないものになってきている」について人があまりに思考しないという事にある。
これは以前書いた「アップデートの思想に抗して」という文章とも繋がっている。現在は現在というものにあまりにも埋没している。ランキングやツイッターで回ってくる流行りのワード、一時的なアクセスや、表皮的な礼賛によって金銭が発生する方法…様々な事が「現在」にのみにも狙いをつけている。この現在への埋没は時間という統合体を生きる人間から、その時々の欲求に従う動物性への回帰ではないかと私は疑っているが生物学には詳しくないので今はそこまで言えない。これに関しては後の課題としておく。
パスカルの言葉に戻れば、一見陳腐に見える彼の言葉は、人間の様々な相を彼の知性がくぐり抜けて発されたものだからこそ価値のあるものになっている。そこには、知性が時間と空間を運動していく実存的な「我」がある。要するにパスカルという男がそこにいる。パスカルという男がそこにいる、という事は我々には奇跡のように感じる。彼は天才だったから、ではない。彼は天才たらんとしてそれに耐えたから、と言った方がより正当だろう。彼は彼という人間を生きた、という事は、彼は彼という時間的実質を持っていたという事だ。その時間は、おそらく読書を通じて様々に拡散していき、それらの実に多様な様相を一つの在り方で捉える事ができた。この矛盾の統合というある場所に私達はパスカルという一人の男の実在を感じるのではないか。
これに比した時、私は、言論とか意見とか、正論とか異論とか言われている様々な事柄が、そのほとんどがただ現在という水準にのみ浮かんでいるものに見える。特に今はメディアが発達し、水平化に関してはあるゆる時代の中でも最高の水準に高まっている。この水準に時間を薄めて、全てをぼやかし、「今」と一体化するのが救済とされている。これが現在の宗教にまで高まっている。
アップデート思想の持ち主は未来を先取りし、現在に帰属させる。通俗的な歴史主義やナショナリズムは過去を平板化して、現在に都合の良いものに変えてしまう。方向は違えど、やろうとしている事は、現在という薄い水準に立って過去と未来を「今」に統合し、これを絶対化する事だ。人はすぐに忘れる。自分の過去も、醜業も、思い出も、古典も。忘れていく事によって精神的健康を保つ。未来を先取りする事によって未来を殺していく。時間というものを殺害し、ただこの「今」、移り変わっていく今だけに安住しようとする。
時間の中に生きていない人々は無常を感じる事ができない。流れていくもの、時間というものを感知できない。彼らには常にその時々でしかない。その時々が絶えず普遍的なものとして各種メディアで伝達され、その流れの中にすべてが埋没していく。
だがそれでも時間は流れていく。時間の中でAという現実が現れる。するとAという現実に都合の良い理屈や、都合の良い話題が提供され、人々はそれに同意し、納得する。だが時が流れるとBという現実が現れる。するとBに都合の良いものが様々に現れ、人々は苦もなくそれを受け入れていく。戦争が始まれば戦争の正当性が叫ばれ、戦争に負ければ戦争は間違っていたと言われる。
問題はAとBという異なった現実が分断されているという事にある。一人の人間として生きるとはA、B、C…という様々な現実に触れる事であるが、このA、B、C、それぞれの局面を忘れずに覚えておき(記憶の重要性)、それを一つの知性で統合していくものに本質というものが現れていく。そしてそれは、先に言ったように、様々な諸矛盾を統合する知性の在り方に耐えていくという個人の実存的な生き方とセットになる。ただ客観的に正しい答えというものはない。個性のない天才はいない。どの天才も常に、その個人の生き方によってしっかりと判を押されている。それは何故かと言えば、彼が一人の人間たらんとして時間の中を運動した軌跡が、彼、彼の為した事に凝結しているからだ。
こうした時間を自らの中に持つ生き方は日和見主義的な生き方とは違うものとして考えたい。現在に埋没しているものは歴史的には何も残らないと繰り返し言ってきたが、それは現在の局面が変われば消えてしまうものを人は追い求めているからだ。残るものは変化に耐えるが、それは近視眼的な視線から見た時、「トレンド」「今」から外れているように見える。だが、今のコロナウイルスもまた状況の変化の一場面であるが、こうした事柄も含めて現実も自然も様々な様相を見せていくだろう。その中で何が残っていくかと言えば、己の知性に耐え、その知性の鏡で世界の様々な相貌を映したものに限るだろう。これが行為者の場合は、その行為が現在という水準を越えて歴史の中で意味があると信じられて行われたものだけに限られていく。
現在に生き、現在のランキングや現在のトレンドだけを追っている人間はすぐに時代遅れになるが、それは時代に合わせようとしているからに他ならない。それは時間ではない。自らの中に時間を抱いて生きる人間は現在という水準から疎外されるが、より大きな時間軸において再発見される事になるだろう。現在の馬鹿騒ぎを人は忘れるだろうが、人は忘れていく現実の中で自分の人生を消費していく。そこに時間はなく「今」しかない。この世界は、世界の変化そのものに耐えられないだろう。そして変化に耐えられるものは「現在」の視点から見た時、むしろ時代に合っていない異端者、余計者のような相貌を湛えているだろう。