日常
act.1
人の命に価値をつけるとしたら、きっと私には世間一般に認められない価値がある。
雪になる前の雨がコンクリートの四角い建物たちを濡らし、つま先の感覚がないことに気がつく。
私の席は一番窓側。頭上の大型のエアコンが教室を暖めるが、生憎、私の方には未だ冷気割合の方が多い。これ、授業が終わる5分前のこと。この調子じゃ、一生、私のつま先は生き返らない。しかも、受験間近のこの時期、誰もがインフルエンザを気にして、休憩ごとに喚起するから、始末が悪い。人類は、どれほど科学を発達させようとも、ナノメートル級のウイルスには勝てない。これが、限界。
みんなが必死に数式を解いてる途中、私は空を見上げた。青空の雲はあんなにも白いのに、同じ雲ではないみたいに、どす黒くて、湿気を含んだ雲。
あぁ、ツマラナイナァ。
指先を窓に当て、今の気持ちを素直になぞる。心地いい冷たさが、身体の先から脳へと伝わる。
チャイムが鳴り、皆が一斉に話をし始める。何しに来たのかわからない教師も微睡みから解放され、さっさと教室から出て行く。
私は前の席の男子生徒の背中をつつき、振り返らせる。
「わたし、お腹痛いから、保健室行く」
男子生徒は、あぁはい、と言って、やりかけの数式にまた向き合った。わたしは、その男子生徒の横を通り過ぎて保健室に向かおうとした。けれど、どうしても、彼に一言いって起きたくて、くるりと振り返り、シャーペンが生み出した新たな数式をピッと指差した。
「ここね、因数分解より、連立した方がいいよ。のちのち、楽だから。」
男子生徒は驚いたようにわたしの顔を見て、恥ずかしそうに、ありがとうございます、と言った。
わたしは、何も言わず、教室を出た。
寒いけど、死にはしない。
両ポケットに手を突っ込み、階段を降りていると、
「手ェ。出せ」
と、登ってきた先生に注意を承った。
「どーも、やっちゃん」
「八代先生だ」
「ハァイ、ヤシロセンセー」
わたしは両手を頭の上でひらひらさせて戯けた。センセーは、軽く舌打ちをして、わたしを見上げた。うねうねした黒い髪にやる気のなさそうな三白眼。ちゃんとしたら、それなりに見えるのに、髭も剃らないし、白衣も汚い。
「またサボりか、俺の授業だけ」
「授業って授業しないでしょ、つまんないもーん」
「お前な。」
センセーは、ボサボサの頭をガシガシかいて、ため息をついた。
「イライラしてんな、だからもてないんだ。ドーテーなんだ?」
「うっせ、黙っとけ」
センセーは、便所スリッパみたいなスリッパをパタパタ言わせながら、階段を登った。すれ違いざま、わたしは翻ったセンセーの薄汚れた白衣から微かに匂いを嗅ぎ取った。
「センセー」
わたしは、ほぼ反射で、センセーの白衣を握りしめた。センセーは、一つ階段を踏み損なって、ギロリとわたしを睨んだけれど、わたしはそんなのに怯まない。
「くさい、脱いで」
「は?」
「センセー、研究所の帰りでしょ?匂うよ、臭い。」
「そんなん分かるのお前くらいだよ」
「三日前にここの近くでも爆発があったんだよ、その時と同じガスの匂いする。"普通"の人間も無意識的に感じ取るんだよ」
わたしがぎゅぅ、と白衣を握りしめると、センセーは、面倒くさそうに白衣を脱いで、わたしに渡した。
「ごめんなさァい」
「よろしい」
わたしは白衣をくるくる巻いて、腕に抱いた。それから、センセーとわたしはそれぞれ、違う方向へと歩みを進めた。センセーのスリッパの音が、完全に聞こえなくなってから、白衣に顔を埋めて、すぅ、と鼻から空気を吸い込んだ。鼻の奥にツン、とガスの臭いが刺さる。
私は周りを確認してから、白衣を着て、保健室へと駆け足気味に向かった。
「キョウコさん!来たよ〜」
保健室のドアを開くと、そこにはキョウコ先生がいる。黒髪のショートカットにタイトなスカート、インソールのサンダル履きでお色気全開!な35歳、猫と二人暮らしの寂びしいお一人様である。
「なぁに、その格好。八代の白衣?」
「ヤシロセンセーの。」
「汚ったないものよく着れるわね、愛の力かしら?」
「ふふっ、愛の力かァ。イイネ」
私は、皺一つないシーツに飛び込んだ。枕からは甘い匂いがした。
「キョウコさん」
「なぁに」
キョウコさんはパソコンになにか打ち込みながら返事をした。多分、私のことは見えてない。
「ヤシロセンセー、このベッド使った?」
「弥代?あぁ、二日前くらいかしら?仮眠してったわ」
「そっかァ」
ヤッパリネ、と呟いてわたしの記憶はそこからない。
気付いたとき、外はオレンジ色で雨はもう止んでいた。キョウコさんが掛けてくれたのであろう布団から起き上がり、荷物を取りに階段を登る。吹奏楽部の演奏とか、居残ってる生徒の笑い声だとか、どこにでもいる高校生のどこにでもある高校の、そんな放課後だった。私が教室に入ると、私の席の前に座る男子生徒がまだ数式を見ていた。さっきの問題とは別のものだけど、空いたスペースにはびっしりと予式が詰まっている。
不器用だなァ、と思った。
でも、もう助けない。一日一個の親切と決めているから。でも、無言で立ち去るのは失礼だから、
「お疲れ様です」
と言って教室を出た。男子生徒はこっちを見なかった。数式を見ていた。最後まで。
act.2
俺は弥代遼史郎。
高校の生物教師 兼 研究員。
受験生たちの教室で、俺の配ったプリントをこなす生徒たち。俺はぐるぐると巡回中。そんな中、窓際の一つの席が、空席。
俺は、その席で立ち止まり、前回の授業のプリントを見た。空欄が全部埋まった数学のプリント。ふいに、窓を見ると、
"ツマラナイナ"
と、白く濁ったガラスに書かれていた。
俺はそれを手のひらで拭った。
窓の冷たさが、怖かった。