第十八章
「悪霊と一体化とは……面白い巫女だ……」
アキコは、花鳥と一体化した令を前に軽口を叩くが、内心は動揺していた。
あれはなんだ? 真っ黒な人間? 人間か? 花鳥が取り憑いたのか? バカな。悪魔憑きでもあるまいし、そんなことが起こるものか。どうすればいい? 殺す。うん、それに変わりはない。
そうだ――今の自分なら、悪霊だろうが人間だろうが殺せる。それが一つになろうが、何も恐れることはないじゃないか。
アキコはそう、自分に言い聞かせると、短剣を構えた。体中にみなぎる天使の力を、二翼十字の短剣に集中させる。淡く光る短剣を見ると、自分の力に自信を取り戻した。
「悪霊の巫女! 天使様の威光の前に――ひれ伏せ!」
アキコが全力で突撃する。魔力強化を全開に使った、圧倒的な速度で。絶対に避けられない動き。絶対に耐えられない攻撃――終わりだ。
「うおおおああああ!」
アキコの叫び声とともに、短剣が真っ直ぐ令に吸い込まれていく。
令は動こうともせず、ただ、片手を前に突き出し、手の平を向けるだけだった。
「なめた真似を!」
短剣が令の手の平に触れた。
そして、そのまま先端から、手に吸い込まれていくように――徐々に消えていった。
「な――なあっ!?」
まるで手品のように、令の手に触れた先から、短剣が消滅してしまった。
そして、そのまま、アキコの右腕も、手の先から消滅していく。
「バカな――そんなこと、あるわけがっ――」
混乱し、引き下がろうとするアキコ。だが、そこで令が動いた。剣を突き出し、アキコの心臓を狙う。
「させるか!」
アキコは左腕で胸をかばった。即死さえしなければ、超回復能力で再生する。絶命以外はダメージではない。
剣がアキコの腕に刺さり、血は――流れなかった。
バサッと音がして、アキコの左腕、肘から先が、黒い羽の塊に変わってしまった。
「ひっ――」
羽根はひらひらと落ちていき、地面に着く前に消えてしまう。
アキコはそれでも無理矢理に下がり、距離を取る。
「な、なんだ……なんだあれは!?」
アキコは驚きながらも、左腕の再生を待った。待って――再生する気配はなかった。
肘から先は、真っ黒な断面になっている。血も流れていない。痛くもない。ただ、最初からその箇所が存在しなかったかのようだった。
「ど、どうして!? なぜ再生しない! 天使様! 天使様のお力を!」
「無駄ですよ」
令が姿を変えてから、初めて口を開いた。声は令のままだった。
「私は人の形をした天使禁制。花鳥様の力は、花鳥の巫女の肉体に憑いて、何倍にも強くなっているのです。あなた程度であれば、触れるだけで天使の力を無効化します――斬られた箇所が再生することなど、ありません」
天使禁制対天使の力。ひっくり返ったその力の差に、矛盾すら発生しなかった。アキコの攻撃など、湖にたいまつを投げ入れるようなものだ。
「う、嘘……嘘だ……嘘だよ……だって私は……あんなに強くて……天使様も認めてくれて……だから、あれだけ大量の、「代行者の証」を飲んでも……生きてるのに……」
「天使の欠片を一方的に食らっただけで、認めてもらったなど――かわいそうな人」
令は再び、剣を構える。アキコと違って、戦いを楽しむ趣味はない。
「終わりです――花鳥神社に仇為すもの――花鳥神社乃内迩座天使乃厄乎禍乎祓給閉清給閉止花鳥乃御神乃大前迩恐美恐美母白須」
令が祝詞を唱えながら斬りかかる。短剣を持っておらず、元々戦いが得意なわけでもないアキコは、かわす方法もわからない。
「ぐっ――なん――で――」
逃げようとしたアキコの背を、令の剣が斬り付けた。
「羽根――黒い――ごめんなさい――アキコは――タガミはまたも――ハナ――」
次の瞬間。アキコの全身は、大量の黒い羽根へと変化した。
人型の羽根の塊は、一陣の風で崩れ去る。
そして、そのまま風に乗り、空の彼方へと消えていった。
「他の穢れも――どうか――」
令はそういって、剣を一振りする。神社に落ちていた死体、血液、その他諸々の不浄はすべて黒い羽根に姿を変えて、遙か彼方へと消えていった。
令は羽根の飛んでいった空を見つめる。
あの羽根はどこへ向かうのだろう。花鳥様のいる場所だろうか。
これで、この神社から天使の存在は完全に消えて――ない。
「くっ……何が……」
令が突然にうずくまる。
「お、お姉ちゃん……?」
菜子が心配して駆け寄ると、令は手で制した。
「来ては……駄目……まだ……何か……何かが――」
そして、突然に黙り込んだ。菜子は何も出来ずに見守っている。
それから、ほんの数秒が経過すると、令はふらりと立ち上がった。
「花鳥神社は天使禁制――」
そう呟くと、うつろな目をして歩き始めた。
後1人、好き勝手に天使の力を振るっている者がいる。
視界の先に、天使の力を持つ者、穢らわしい女の姿が目に入る。
あの女丈夫は誰だっただろうか。見たことがあるような気がする。
まあ、それはどうでもいいことだ。
もうすぐ花鳥様をお迎えするというのに、天使の力を許しておくわけにはいかない。
あの女も。隣りにいる男は仲間だろうか――ならば、同罪だ。
花鳥神社は天使禁制。例外はない。
伊武の周りに、天使教会の兵隊達が倒れている。魔力暴走を起こすほどに強化されていた兵隊達だが、それでも伊武の敵ではない。相手も超回復能力を持っていたせいで時間はかかったが、それだけだ。
「これで……全部……終わり……かな」
伊武がそう呟いた瞬間、強い風が吹き付けてきた。あきらかに自然現象ではない突風。
伊武は風の吹いてきた方向を見る。令がアキコにとどめを刺したところだった。
「令……黒くなってる……何が……あった……?」
「黒い青年……花鳥と一体化したんだよ」
直巳が手で風を避けながら伊武に話しかける。
「一体化したら、アキコを圧倒して勝った。遠くからだから、細かいことはわからないけど」
直巳がそういうと、先ほどよりも強い風が吹いてきた。その風に飲まれて、天使教会の兵隊達の体が、真っ黒な羽根へと変わり、遠い空の向こうへと消えていった。
「これも……令と花鳥の力なのか……」
直巳が感心していると、伊武は自分の体を守るように抱きながら、令を睨んだ。
「あの女……そう……そういう……こと……か……」
伊武はそう呟くと、苦しそうな顔をしながら、歯をギリッと鳴らした。
「アブエル……消えろ……」
伊武が言った瞬間、彼女の背後から大きな気配が消えた。
「伊武……どうした?」
直巳が心配してたずねると、伊武は痛みを堪えるかのように、震えた声で言った。
「天使の力を……無効化してる……アブエルが……ぼろぼろにされる……ところだった」
「令が? ああ、だから、天使の力を使うアキコを圧倒してたんだな」
直巳が呑気に言うが、伊武は返事をしない。そして、少ししてから、うつむいたまま、直巳の目を見ずに口を開いた。
「ねえ……椿君……花鳥が……私を殺そうとしたら……どうすれば……いい……? 反撃したら……あの女ごと……殺してしまうかも……しれない……だから……私が……大人しく……殺された方がいいなら……そうする……よ……」
直巳は驚いた表情で伊武をみる。冗談ではなさそうだった。
「伊武――そうなのか? 令と、戦うことになるのか?」
伊武は無言で、こくんとうなずいた。
直巳が令の方を見る。令は真っ直ぐ、こちらへ向かってきていた。剣を持ったまま、伊武の元へと。
アブエルという、天使の力を持つ伊武と戦う気なのか。天使禁制の花鳥に意識を乗っ取られてでもしているのか。なぜか――いや、理由は後だ。今はとにかく、令への対処を考えないといけない。
「――逃げられないか? 花鳥神社から」
花鳥と一体化した令は強いだろうが、活動できるのは、天使禁制の効果がある花鳥神社と、その周辺だけだろう。それならば、この神社から脱出してしまえばいい。
だが、伊武は直巳の提案を聞いて、首を横に振った。
「無理……かな……逃がすつもりは……ないと……思う……よ……背中を……向けたら……追いつかれて……やられる……私か……椿君が……」
令――花鳥も、花鳥神社の敷地内でしか戦えないことはわかっているだろう。だから、逃がすつもりはない。伊武はきっと、令の力も殺気も感じとっている。
「椿君……どうしたら……いい? 言うとおりに……する……よ……」
どうやら、伊武と令の戦いは避けられないようだ。
「伊武の命が大事だ。殺されることはない」
直巳は、はっきりと言った。答えを保留して戦いを始めるわけにはいかない。
「……じゃあ!」
伊武が直巳を見て、顔を輝かせる。直巳が、令ではなく自分を選んでくれたから。伊武の命が大事、令に殺されることはないという。そしてそれはつまり。
「令を……殺す……よ?」
「それも駄目だ」
伊武の少し浮かれた声の提案を、直巳は即座に却下する。
「令を無力化してほしい。できるだけでいい。でも、一番の優先は伊武の命だ。だから、もしも無力化が難しい場合は――殺していい」
伊武は自分の言うことを聞いてくれる。だから、はっきりと指示をしないといけない。それが、殺すという指示であったとしてもだ。
「……怪我は……させる……と……思う……いい?」
「伊武の判断に任せる。治る怪我で済ませてもらえれば、とは思うけど。これは俺の希望」
直巳の指示を要約すると、殺すな――以上。これで、伊武の中に直巳からの指示がまとまったようだった。
「……やってみる……ただ……厳しい……よ……天使の力……使えない……から……」
殺すか殺されるか。これは非常にシンプルだ。弱者が強者を殺すこともある。ただ、手加減や無力化というのは、力量に差がないと出来ない。天使の力が使えず、弱体化した伊武。花鳥と一体化して強化された令。伊武が圧倒してるとは言えない。
「難しいことをお願いしてるのはわかってる。だから、少しの間、無力化してくれればいい」
「……わかった」
伊武はそれ以上、何も聞かなかった。直巳がやれと言ったらやる。その結果、自分が死のうが相手が死のうが構わない――例え、直巳が死ぬことになってもだ。
「それじゃ……行く……ね……椿君は……離れてて……て……」
伊武は令の方へと歩いていく。
近付いてきた令が、伊武と4メートルほどの距離を置いて立ち止まる。
「花鳥神社で天使の力を使うなど。部屋に汚物を撒かれるような不愉快さです」
令の声、令の口調。だが、その意志は彼女のものだろうか。
「……今は……使ってない……よ」
「もう遅いのですよ。あなたは罪を冒した」
令は戦いをやめる気はないらしい。その言葉を聞き、伊武が嬉しそうに笑う。
「そう……よかった……だって……あなた……椿君のこと……殴った……でしょ……」
伊武はズシッと身を沈める。獣が飛びかかる直前のように。
「だから……殺す……ね……」
伊武はフリアエを背後の空間にしまった。
「な――剣を――」
令が驚きの声をあげる間もなく、伊武が飛びかかった。
何も持たずに。凶悪な笑みを浮かべたまま。




