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〈第四章〉澄んだ腐肉の味がする-1

   1

 人に話しかけるのが怖かった。

 人と擦れ違うとき、息が詰まりそうだった。

 みんな、自分をまるで存在しないもののように扱った。闇を避けるように、気まずそうに眼を逸らす人たち。

 何処にも居場所がなかったから、いつも城内をふらふらと歩き回っていた。レミーの姿を見ると、みんな何処かへ行ってしまう。唯一母親だけはレミーを視界に捕らえると、何度も何度もレミーを叩いて、それからいつも、泣いた。叩かれる痛みよりも母の泣く姿を視るのが厭で、彼女とは極力会わないようにしていた。

 母はこのセクトの頭領の妻で、彼女はどうもレミーのことを憎んでいるようで――だから、みんなレミーを避けていたのだと思う。

 父親は寡黙な人で、石像のように椅子に座ったまま動かず、誰が話しかけてもいつも何も答えなかった。多分、レミーのことなんて興味もなかったのだろう。時折ふらりと出掛けては、血塗れになって帰ってきた。

 レミーは、強くなかった。

 向けられた瞋恚に抵抗できるほど気は強くなかったし、『能力』も、レミーが望んだときに上手く使えるものではなかった。――どうしようもなく、駄目な子だったのだ。

 弱いから、母に嫌われるのだと思った。『彼』は強いから、母に愛されるのだと思ってた。

 ――でも、違うのだと彼は教えてくれた。

 あのとき彼はいつも通りの不機嫌そうな顔で、レミーと話した。

『お前が憎まれてんのは、あの男の子供だからだよ』

 よく意味が解からなくて、母さんは父さんが嫌いなの? と訊いた。彼は窓の外に視線を遣りながら、首肯した。――『俺もよく知らないけど』と付け加えて。

 母と父が二人揃っているところを見たことがなかったから、二人の間に何があるのかなんて、知らなかった。でも、ジルの言う通りならどうして――

 ――じゃあどうして、ジルは母さんに愛されてるの?

 彼は暫くの沈黙の後、自嘲のように口端を歪めて笑い『俺はあいつの子供じゃねぇから』とだけ言った。レミーは、それ以上は訊けなくて、ただ父がジルに向ける眼は、誰よりも冷たいことを思い出していた。

 ジルがいなくなってしまう前の晩だった。


「――ジルのこと、本当はよく知らない。あんまり会わなかったし、僕が話しかけないと眼も合わせてくれなかったし、他の人も何も教えてくれなかったから」

 ジルに、嫌われていたのだろうか。たまに廊下で擦れ違うと、戸惑ったような顔で眼を背けられた。

 けれど、レミーが話しかけるとジルは答えてくれた。他の奴らに殴られたりしているところに出くわすと、助けてくれた。

「ジルは、何でだか知らないけど顔の半分にいつも包帯巻いてて、そのこと、とても気にしてた。それから……えっと、母さんにとっても愛されてて、でも父さんはジルのこと、とっても嫌ってた」

 レミーは、当て所なくふらふらと、城内でも人気のない処を選んで歩きながら、隣に並んだルネにぽつぽつと、ジルのことを話して聴かせた。ルネは相槌を打つこともせずに、ただ聞いている。少し伏目がちに前を見つめたまま、表情も変わらない。

「それで、……なんでかな、みんなジルのこと、冷たい眼で見てた」

 レミーが禁忌のような扱いなら、ジルは『忌むべきもの』としての存在だった。具体的な内容はよく思い出せないけれど、城の人たちは、酷いことばかり言っていた。確か――『あいつは俺たちとは違う』と、軽蔑するように。尤も、ジルはレミーと違って強かったから、殴られたりはしなかったけれど。

「多分、みんな恐がってたんだと思う」

 彼らがジルのことを話すときは、物陰――或いは少し距離を置いて、囁くように。面と向かって罵倒しようとする者は、いつも力ずくで黙らされていた。

 すごいね。そう言ったら彼は、昔――幼い頃はよく殴られもしたそうだがある程度大きくなって、全員一発ずつ殴ってやったら誰も近寄らなくなったと、珍しく笑って話してくれたことがあった。

 そうやってジルと話すのは、レミーの最も好きな時間であった。唯一の楽しい時間でもあった。ジルは言葉少なに、短い間だけでも話しかけると相手をしてくれた。いつも、不機嫌そうだったけれど。

 だけど――

「ジル、突然いなくなっちゃった。三年くらい前かな……僕が九歳のとき」

 何の前触れもなしに。だから、真夜中にそっと城を抜け出そうとしたジルを見つけたのは、偶然だった。

『何処、行くの?』

『俺のことを知ってる奴が誰もいないとこ』

 ジルの笑みは、心を覆い隠す盾のようだった。彼はまた明日も会うような調子でひらひらと手を振り、森の向こうへと歩いていった。

 それきり、ジルは帰って来なかった。

 あのときの母の荒れ様は凄まじかった。ずっと半狂乱になって泣きながら、いろんな物を叩き壊していた。

 レミーも悲しかった、とても。あのとき、ジルがもう帰って来ないなんて思ってもいなかったから。

 そうして二年間、ジルと話してくれるものはいなかった。誰も。

「でもね、一年前――帰って来たんだ……母さん、とても喜んだ」

 今まで見たことがないくらいに。――レミーのことを、本当にいらないと思えるくらいに。

 忘れない。一年前。沢山、壊れた。

 ――世界の全てが敵になってしまったかのような眼をしていたジル。

 鮮朱。

 解けた包帯。

 それから……それから。

 嬉しそうに微笑んだ母さんが、レミーの頬を掴んだ。

『この子、いらない』

 殺されるのかと思った。実際に母さんはそうしようとしたし、そうされて当然だと思った。――レミーは、とても大切なものを傷つけたから。

 けれど、助けてくれた。名前も知らない、ジルと仲のよかった栗色の髪をした男の人が。

『俺が始末するから』と、レミーをあの場所――地下牢に連れて行ったのだ。

『此処にいれば一応、命だけは安全だからさ』

 立ち去る間際に、問うたこと。

『どうして? どうして僕を生かすの』

『だって、きっとあいつが後悔するから。――ごめんな、俺にはこれしかできねぇんだ』

 食事はいつも、彼が運んでくれた。――時々忘れられたけれど。

 あの人の言った言葉は、今でもよく解からない。どうして助けてくれたのか。彼自身はレミーに全く興味がないようなのに。そういえば、気を失っていたルネを連れて来たのも彼だ。

 ――優しいのかな。

 まるで物を扱っているようだったけれど。

 急に押し黙ってしまったレミーに、ルネが視線を向ける。

「あ……ごめん。これで僕の話、お終い。……あれっきり、ジルに会ってないんだ」

「…………そう」

 ルネはそう言ってすぐにまた黙り込んでしまった。

「ねぇ、ルネはこのセクトの人なの?」

「違うわ」

「今、いくつ?」

「……十四」

「へっ?」

 レミーよりも、二つも年上なのか。同じくらいだと思っていたのに。

 それが顔に出てしまったらしく、ルネは思い切り顔を顰めた。似たようなことを、よく言われるのだろう。

 ――あ、可愛いかも。

 それをつい口に出すと、ルネはますます不機嫌そうな表情になる。

 そっぽを向いたその横顔が、どうしてだか、ジルに似ていると思った。


   2

 ジルは昔から『ジル』だったらしい。

 ――ぶっきらぼうだけど優しいから好かれるんだ、いろんな人に。

 レミーにとっての空白の二年間は、おそらく『朝の月』にいた時間。ルネと出会う一年ほど前から所属していたと、ジルが言っていた。

 ルネがジルと過ごしたのは、たった一年

 ――私は、ジルのことをちゃんと見ていただろうか。

 ジルの父親、母親、そして、弟。ルネの何倍もの時間を、ジルと過ごした人たち。初めて知ったことだ。

 胸の中で黒い霧が渦巻いているような感情――レミーへの嫉妬なのだと、すぐに気づいた。何故だろう、殺すと決めたはずなのに。

 レミー。ジルの弟。変なの。

 ――ジルに、家族だって。

「ねぇ」

 レミーがルネの服の裾を引っ張る。

「……なぁに?」

「僕はジルのこと話したよ。だからルネも、話してよ」

 珍しく淀みのない口調でねだられ、ルネはこく、と頷いた。

「――ジルと過ごしたのは、そんなに長い時間じゃないわ。たった一年くらい、だけ。『朝の月』で出会ったの」

「……え?」

「あたしは、『朝の月』。ジルも、前はそうだった。……短い間だったけど。…………偶然、森でジルにまた出会って、それで……追いかけたら此処まで来たの」

 まさか、ジルの育った場所だとは思いもしなかった処へ。

 孤児院の応接室でカミーユに引き合わされたのが、ジルだった。加入してまだ一年程度の彼の監視役として、ルネは選ばれたのだ。

 誰かと共に行動するのは厭だった。一人の方が動き易いのに、と。けれど、カミーユの命令ならと思って承諾した。

 思えば、『ジル・カスタニエ』には何の興味もなかった。

 でも、ヤな奴だと思った。自分も相当、厭な奴だったのだろうけれど。

「……一緒に仕事してた。何でかな……それ以外でも、いろんなこと、一緒だった」

 訥訥と、まるで独り言のようにルネは話す。

 みんなの中に入っていけないから食事は少し遅れて摂っているのだけれど、ジルも同じことをしていて、結局二人きりで食事をする羽目になったり。後でそれを知ったオリーヴは腹を抱えて笑っていた。

 仕事狩りはいつも二人、共に。それぞれが好きに暴れていればすぐに終わった。

 互いに興味もなく、干渉もしなかった。けれど、些細なことでよく衝突して、それでも、二人の間に流れる沈黙は妙に気まずかった。

 懐にナイフを抱えたまま向かい合っていたような二人に小さな変化が訪れたのは、

 あれは――いつのことだったろう。

 確かそうして二月ほどが過ぎた頃だったかか。

 

 いつものような狩り。

 けれどあの日のイミモノはいつもよりも数が多く、大きかった。

 それでもルネは切り刻み、ジルは殺した。ルネはできるだけ傷つけて殺して殺して殺して完璧に殺す。普段から肩に担いでいるやや大きめのサーベルで空を薙いでできるだけ簡潔に斬って切って切り殺すジル。

 いつもそうだったし、今回もそれで終わるはずだった。――けれど。ルネが蟷螂に似た、大の男ほどの大きさのイミモノの腕――つまりは鎌を、受け損なった。白弧を描くそれがルネの躯に振り下ろされる寸前に、背後で背中合わせに戦っていたジルが小さく舌打ちをすると足を払ってルネを横倒しにし、彼の向かいのイミモノを切り裂いた軌跡をそのままに、鎌を切り落とした。

 ルネは血溜りに倒れるとすぐ其処に五指を浸し、細く髪の毛のように伸ばした液体に命じて残ったイミモノを渾て、切り刻ませた。

 肉片がばらばらと落ちていく、その濡れたような音を聴きながらルネは身を起こす。ふと顔を上げると、ルネを助けたはずだったジルが呆れたように此方を見下ろしていた。

「お前なぁ……そんな便利な『能力』があるならいつも使えよ」

「……ほっといて」

「助けてやったのにその態度かよ」

「あたしが望んだわけじゃない」

「……可愛くねぇな」

「――あなたに『可愛い』なんて言われても嬉しくない」

「ガキ」

「あ、あなたと二つしか変わらないわ」

「お前はもっと『小さく』見えるけどな」

 ジルがわざわざ『小さく』の部分を強調して言う。

 ――変なの。

 今まで感じたことのない感覚。

 見下ろされるのに耐えられず立ち上がるが、やはりルネがジルよりも背が低いことに変わりはなく悔しかった。

 そのとき、ふと右の足首に違和感を覚える。

「結局お前が全部殺ったんじゃねぇか。――帰るぞ」

 くるりと背を向けたジルの後に続き、歩く。――が。

 足が痛い。 

 一歩歩み、体重を掛けるたびに、右の足首が痛む。だからできるだけ負担を掛けないようにひょこひょこと歩いた。無論、上手く走れるわけもない。

 足音が奇妙だったのだろうか、暫くしてジルが立ち止まり、振り返る。

「なんだよ、どうかしたのか?」

 そして大分遅れてしまっていたルネの元へと寄って来た。

「……なんか、変」

「足が?」

 こくりと頷く。

「あなたに蹴られた」

「厭味な奴だな」

「……ときに捻った……みたい」

「あ?」

 ルネはぷいとそっぽを向いた。ジルに蹴られたのは左足、痛むのは右だ。

 ジルは眉根を寄せる。

「しょうがねぇな……ほら、おぶってってやるよ」

 そして屈み込みルネに背中を示す。

 ルネは取敢えず同じように屈み、首を傾げた。

「おぶ……なに?」

「おんぶだよ、おんぶ。――知らねぇのかよ、ったく……。ほら、俺の首に手ぇ回して……」

「こう?」

 ルネはジルの首根っこを両手でぎゅうと掴んだ。

「ちげぇよ! 殺す気か! そうじゃなくて腕を……」

「……こう?」

「そう」

 そしてジルはルネの腰に手を回すと立ち上がり、憮然としているルネを背負って夜の街を歩き出した。

 ――ああ、これなら知っている。

 幼い子供が母親にされているのを見たことがある。

「……子供扱いして」

「子供だろうが」

 小さな声で言ったつもりだったが、こんなに近くにいるのだから当然のようにジルの耳に届く。

 ジルの表情は観えないけれど声はいつも平常通りだ。少し不機嫌そうな、ぶっきらぼうな声音。これが彼の『普通』なのだと、何となく感じていたことをルネは改めて認識した。

 こんな風に背負われるのは悔しかったし恥ずかしかったけれど、布越しに伝わるジルの体温は心地良い。

 無意識のうちに、ジルの痩せて堅い背に額をつけた。 


   3

「どうするかな……」

 廊下を歩きながら、ジルは一人ごちた。その足は自然と、人気のない道を選び進む。

 構造の渾てが石でできた、旧い城だ。窓には硝子が嵌め込まれておらず、床は剥き出しだ。石の壁には等間隔に蝋燭が燈っている。

 吹き込んでくる風に煙と、何か嗅ぎ慣れない薬品のような臭いが混じる。

 爆発で烏有に帰した離れだろう。あの場所ではイミモノが飼われていた。

 ――『ねえ、いいこと教えてあげるよ』

 脳裡に甦る、普段思い出さないようにしている声を振り払う。今思考すべきはそんなことではない。

 人と擦れ違うたびに、小さな声が鼓膜に吹き付ける。

 ――出来損ない。

 ――あいつは違う。

 ――イミモノの……

 投げつけられるのは、あからさまな侮蔑の視線。けれど、其方にジルが顔を向けると慌てて眼を逸らし、いそいそとその場を去る。――此処では武力がものを言う。

 くだらないと思う。

 他人を見下さないと満たされないちっぽけな矜持を誇示する奴ら。他人の欠陥を探し、排除せずにはいられない弱い奴ら。

 幼い頃は面と向かって蔑まれ、罵倒され、よく殴られた。しかも頭領の妻の『大切な』ジルに何かあると後が不味いと思ったのか、服に隠れて見えない部分を、だ。

 矮小な精神をしているくせに自分より弱い者を虐げる奴らを、逆に蔑んでいた。それなりに大きくなって、やり返すようになるとジルを殴る者はいなくなったけれど。

 けれど、彼らの言葉は真実だ。ジルは欠陥品。出来損なった、自分。不完全。

 心に浮かぶのは、居た場所。――ルネ。

 ルネは、ジルを憎んでいる。当然のことだと思う。何も言わず、ただ、傷つけたのだから。

 リュシアンはこの城の地下牢に入れたと言っていたが、それに感謝した。放っておけば誰かに殺されていたかもしれないのだから。――それは、ジルもだけれど。この城の中にジルを悪く思っていない者などそういない。

 一度も行ったことのない地下牢を目指し進む。目的はルネだ。

 帰れと言っても帰るような奴ではないだろうが、――もう、ルネと関わりたくない。一度傷つけてしまったのだからそれは欺瞞かもしれないが、また、疵つけてしまうのが恐かった。

 ルネがジルに刃を向けてきたら、ジルはどうする? 

 自分がどうしたいのか、よく解からない。

 ただ、もう一度会いたかった。恨み恨み怨み、何でもいい。ルネの言葉を聞きたかった。

 正しい選択など、何処にもない。一年前に既に、道を違えてしまったのだから。

 解かるのは、一つだけ。

 会いたいから。

 だから今は、その気持ちを優先した。


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