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〈第三章〉歯車軋軋-2

   5

 ルネに出会ったのは、思い返してみるともう三年も前のことだ。


 ――――――――あの頃ジルは、『朝の月』にいた。


「――と、以上が此処での仕事の説明だよ。何か質問はあるかな?」

「ねぇよ。別に、今までとかわらねぇし」

 言うと、ジルの不貞腐れた態度を咎めることもなく、「ならよかった」と新しい上司は笑った。

 急に上からの配属替えの命令が下りて、別の『街』へと移った。珍しいことではない。『朝の月』ではその構成員が上手く分散するように時折移転を言い渡すらしかった。特に、ジルのような新人へ。

『朝の月』に入ってまだ一年と経っていないが、住む場所が変わるのはこれで二度目だ。

 今回の移転先は、孤児院だった。だがその言葉から想像していた住居とは幾分異なり、其処は大きめの古びた洋館で、狭いけれども各々に個室が与えられていた。住んでいる子供は十数人。

 大勢の他人同士が同じ場所に住むということに――以前住んでいた場所が思い出した。鬱屈する感情を紛らわせるように、ジルは不機嫌を装う。

 そんな心を見透かしたように、およそ『狩人』らしからぬ――それこそ孤児院の院長が本業だといわんばかりの優しげな微笑で、カミーユが言う。

「厭そうだね。――まあ、食事に降りて来るのも強制はしないし、好きにするといいよ」

 ずっと、誰かに束縛されて、それでも無理矢理自由に生きていたから、そう宣言されると少し複雑な気分だ。ジルは応接室の背凭れに寄り掛かり顔を顰めた。

「それじゃあ、最後に……」

 と、カミーユは傍らに控えていた少女に眼を向けた。

 真向かいに座る少女はジルがこの部屋に入ってきたときからずっと、微動だにせず茫と窓の外の枯れ木を眺めていた。ジルには一瞥もくれようとはしない。

 十代前半ほどだろうか。やたら綺麗な顔をしているが、まだ幼い面立ちだからそれにそぐわない無表情が少し薄気味の悪いアンティークドールを思わせた。髪も瞳も初めて見る色で、その鮮やかさが印象的だ。背が低く、まるで病気にでもなったように青白い肌だ。

 仕事の話を平然と聞き流している処をみると、どうやら『朝の月』の者らしかった。

「この子はね――……」

 カミーユが彼女の茫とした様子を気に留めることもなくジルに何か言いかけたとき。ばん、と大きな音を立てて勢いよく扉が開き、子供が一人飛び込んできた。

「カミーユ! たいへんっ! 大変なの!」

「ネリィ……今話しの最中だから――……」

「オリーヴがまたお鍋焦がしてそれで火が……」

 さぁっとカミーユの顔が青くなった。

「あれほど台所の物には触るなと言ってあるのに……」

 小さく呟き、ジルたちに少し待つよう言ってから、カミーユはネリィと呼ばれた子供の後を追う。ジルは唖然として遠ざかる足音と遠くの悲鳴を聴いていた。

 ――戻りてぇ。

 先日までいた『街』に。其処ではジルは一人で暮らしていたから。

 と、ふと思い当たるものがあって、向かいの少女に眼を向けた。――初めて、眼が合った。彼女も今の出来事に驚いているようで、きょとんとした顔が妙に可笑しい。

「あんたさ……」

 少女は話しかけられて一瞬たじろいだように観えた。

「あんた、俺の“監視役”だろ」

「……」

 少女は否定しなかった。

『朝の月』では加入してから少なくとも一年は仕事の際に監視役としてパートナーが付くのだと聴かされていた。それはおそらく、能力の観察と、新参者の心変わり――つまり裏切りに備えてのことだろう。此処に来る前も、住居は違ったが仕事の際はいつも、一人がジルに付いていた。

「もし俺が裏切ったとしたら、あんたみたいなので制止できるわけ?」

「できるわ」

 見縊られ、少女は少しむっとしたように見えた。

「あんた、幾つ?」

「十二」

「……もっと小さく観える」

「……」

 今度は彼女に明らかに怒りの気配が窺えた。よく間違えられるのだろう。

まだ幼いくせに澄ましたような態度が薄気味悪かったので茶化してみたのだが、少女は案外素直に反応して少し面白かった。

「名前、何」

「ルネ・ローラン」

「ああそう。俺は……」

「ジル・カスタニエ。カミーユから聞いたわ」

 ジル、と名乗ったその少女はすっくと立ち上がる。

「あなたの言った通りあたしはあなたの監視役よ。カミーユの用事はそれだけ。さよなら」

 酷く抑揚に乏しい澄んだ声で早口に告げられる。表情は消えていたが、怒っているのだろうと云うことだけは解った。

 少女は踵を返し、とことこと部屋から出て行く。椅子から立ち上がってもやはり背は低かった。

 ジルは何の感慨もなく、少女の背を見送った。

 誰からも、嫌われようとは思わないが、好かれようなんて思えない。いつもの癖で、顔の半分を覆った包帯越しに、その下の自身の眼球を撫でた。


 出会いは最悪、とまではいかなかったけれど、険悪だった。ジルの所為だと自分でも思う。しかし仮にあのとき愛想よく振舞っていたとしても、ルネならば突っ撥ねるような気がする。

 あのとき印象的だったのは、ジルの言葉にジルを疎んじた少女だ。その存在ではなく行為によって、ジルの価値を決める。それがとても新鮮で――多分、嬉しかった。


   6

 ジルと共に過ごした時間は、ほんの一年と満たない。ルネの中で何かが変わりかけて――それでも結局は何にもならなかった。長いような短いような時間。ジルが終わらせた、時間。

 仕事の、最中だった。

 ジルに――肩口から脇腹にかけて、ばっさりと斬られた。致命傷というには浅い傷だったけれど、ルネは地面に蹲っていた。痛かった。いろんな部分が痛かった。体と心が軋んだ。わけが、解らなかった。

「なんで」と言った。

 ジルは答えてくれない。

 いつもは不機嫌に顰められた顔なのに、あのときジルは薄く笑っていた。可笑しかった。私じゃ、駄目なんだと思った。

 ジルはルネに、背を向けた。革靴は、零れる雨粒が乱す血溜りの波紋を一層広げる。

「じゃあな」

 告げる声の温度は、いつもと変わらない。ルネは、骨まで軋むように寒いのに。

「なんで……」

 搾り出すように言った。

「――……泣くなよ」

「泣いてない」

 少し強くなった語調に、漸くロアは振り返った。常にきつく巻かれていた顔の包帯が解けかかっていた。あんなに人目に晒すことを嫌がっていたはずなのに。その顔が、微苦笑を造る。

「やっぱ、泣いてんじゃん」

「泣いてない。――そんな理由、ないもの」

 そう。そんな理由、何処にもない。

 心が、凍る。

 ジルはルネを裏切った。傷つけた。――ならば、ルネもジルををそうすればいい。

 憎めば、そんな奴につけられた傷など、痛くはない。

 ジルの後姿が遠い。追いかけて、彼がルネにそうしたように、切り裂きたかった。今まで過ごした時間を、ルネも踏み躙り砕いてやりたかった。けれど、痛みの所為で上手く躯が動いてくれない。

 ――赦さない。

 だから、その代わりのようにジルを睨みつける。

 赦さない。赦さない。赦さない。ルネを傷つけたジルを赦さない。

 だから、吐き棄てた。

 お前が嫌いだと。

「――じゃあな」

 どうしてジルが笑っているのか、ルネには解らなかった。

 ふらふらと、無理に立ち上がる。足元が覚束ない。ルネの、射竦めるような視線から逃れるように再び背を向けたジルが、ふと、首だけで振り返る。

「俺は、あんたのこと――――」

 かくん、と膝の力が抜けて、躯が屑折れる。ちかちかとした奇妙な色の光が視界を覆う。――もともと、体調がよくなかったから。

 濡れた衣服が重い。冷たい石畳の感触。

気持ち悪い。吐き気。寒い。苛立ち。冷たい。痛い。雨が。煩い。ロアの。唇。

 だから。

 聞こえなかった。何も。


   7

 夢。

 夢を見た。

 今まで幾度となく見た、あのときの光景。

 ジルの言葉は、いつも聞こえない。当たり前だ。ルネは其処で意識を途切れさせてしまったのだから。だから、最後の景色は音のない世界――少し笑ったジルの横顔と、遠い背中。

 水の滴るような涼やかな音が、暗闇の中の意識を呼んだ。

 ゆっくりと目蓋を開く。最初に眼に入ったのは、苔生した天井。

 頭がずきずきと痛む。――何が起こったのか、ルネにはよく理解できていなかった。

 あのとき――周囲に轟音が響くのと、ジルに引っ張られるのはほぼ同時で。そしてバランスが崩れて地面に頭を打ちつけた。それから、それから――ジルの顔がとても近かったような気がする。――庇われた、のだろうか。だとしたら、ジルは大丈夫だったろうか――……。

 まずは、状況を解ろうと思い、のろのろと身を起こす。

 此処は、何処だろう。

 横たわっていた地面から伝わってくるのは、冷たく堅い、湿った感触。衣服の背が、じっとりとした不快な湿り気を帯びていた。すぐ側には石の壁。床も天井も同じ材質だ。屋外よりもずっと湿度が高く気温が低い。

 壁が、ゆらゆらと不安定な橙に染まっている。――灯だ。その方向に顔を向ける。壁際に一定の間隔を置いて取り付けられた燭台に、蝋燭が灯されていた。そしてその手前に、火と隔てるように――鉄格子。

 ――そう云うことか。

 何となく、だが状況は掴めた。

 つまり、先に気を失ったルネを誰かがここ牢獄へ連れて来たのだろう。こんな処に閉じ込められたくらいなら何とでもなる。幸運、といえた。――あのまま、殺されていたかもしれないのだから。

 そう思うと、何だかとても情けなくなった。

 ――莫迦だ。

 いつものように、癖で、唇を噛む。

 ――ジルはどうした? ルネを庇った。生きている?

 ルネはジルに伝えた。「嫌い」だと。さっきも、あのときも。そう、ルネはジルが嫌い。嫌いになった。

 けれど。

 前よりも背が伸びて少し大人びた、けれども変わらない薄い笑みを浮かべたロアに、また会えたと、憎しみよりも怨嗟よりもまず、そう思った。

 ――駄目。

 言い聞かせる。駄目だと。

 またジルに傷つけられる。痛いのは、厭。

 だからその前に壊さなくては。

 怨め。恨め。憾め。憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎まなくては。そうしないと、傷つけられる。心が殺される。ジルはまだ生きている。だったらルネが殺さなきゃ。心の中にいたジルは一度、死んだ。ルネが殺したんじゃない。でもまだ生きている。だから、今度はルネが殺すんだ。赦さない。逃がさない。あいつなんかに負けない壊してやる壊してやる壊してやる完膚なきまでに壊して崩して噛み砕いて嚥下してやる。そうして私の糧とする。

 息が苦しい。胸元をぎゅっと掴む。

 ――そうしないと。

 私が、壊れちゃうんだから。

 長い睫毛が瞳に影を創る。ぷつ、という音と滲む血の味。八重歯が唇に食い込んでしまったようだった。顎を伝うそれをぐしぐしと拭う。

 泣いてない泣いてない泣いてない。あのときのジルに言い返しながら。

 ――不意に。

「大……丈、夫……?」

 胸元を押さえて顔を歪めるジルに、おずおずと声をかける者があった。周りが見えていなかったのだから当然だが、側に人がいることに気づかなかったルネは驚き、勢いよく振り返る。

 焼けた鉄にでも触ったかのように伸ばしかけた手を慌てて引っ込めたのは、襤褸を纏った少年だった。

 この鉄格子に区切られた部屋はやや広い方で、何人かは纏めて収容できるような造りをしていた。他に誰かがいても不思議ではない。見渡す限り、此処にはルネと少年の二人がいるようだった。

「どこか、痛いの……?」

 心配そうに首を傾げる少年は、ルネよりも二つは下だろう。酷く痩せている。蝋燭の火に照らされて赤茶色に視える髪は、少し伸びた柔らかそうな癖毛だ。その容姿にほんの一瞬、幽かな既視感を覚えるが、それはすぐに消える。

「大丈夫?」

 少年は繰り返す。

「別に……」

 顔を上げて緩緩と首を振る。他のことに気を取られた所為か、動悸が徐徐に治まってゆく。

 切れた唇を嘗めつつ立ち上がった。取敢えず、この牢獄から出ようと思う。此処が先に辿り着いたあのセクトなのか、だとしたらジルは同じ城の中にいるのか、判らないけれど、とにかく。

 視線を感じ、ルネに声をかけたときのしゃがみ込んだ大勢のまま此方を見上げる少年に顔を向ける。

「何?」

 ぶっきらぼうに訪ねると、不思議そうな表情をしていた少年がしどろもどろに答えた。

「え、あ、あの……血……」

「あたしの血じゃないわ」

 少年はまだ何か言いたそうにしていたが、言葉が上手く纏まらないのか気が弱いだけなのか、しゃがんだまま視線だけをふらふらと彷徨わせた。

 ――ああそうだった、と。言われて初めて思い出す。さっき、名前も知らない魔族の男を殺して、ルネは血塗れだった。

 顔と、手と、服は黒いから見た目はよく分らないだろうけれど、白かったレースは斑に染まっている。血は乾いていて、蝋燭の火の所為もあり、赤銅にも似た奇妙な色に、リサは塗れていた。

 今の今まであまり気にしていなかったけれど、こんな酷い格好でジルは、何と思っただろうか。どうせなら、ジルの前ではもっときちんとした格好でいたかった。普段は自分の装いには無頓着なのに、どうして今気になるのだろうと、少しだけ不思議に思う。

 ――ジルがいるから、

 違う。私はジルを殺す。――いや、だからこそか。殺すものの前では誇り高くあるのが礼儀だと、育ててくれた人に教えられたから。

 ルネはジルを消す。潰さなきゃ。私は疵つけられない。

 靴の紐を結び直し、爪先で思考に区切りをつけるようにとん、と床を鳴らす。

 鉄格子に歩み寄る。檻の出入り口には錆びた南京錠が掛かっていた。

 探るように、室内を見回す。目につく場所に鍵らしきものは無く、行動はすぐに決まる。

 鉄格子。錆びて、赤茶がこびり付いている。この程度なら、十全だ。そう判断する。だが――ざっと視たところ此処に『水』はない。しばし思案してから、地面に視線を這わした。幾らかの小石が転がっている。中でも特に歪で、鋭く欠けたものを選び拾う。

 掌に簡単に収まるほど小さな石は、他のものと同様にじっとりと湿っていた。

 そして、鉄格子と再び向き合う。小石の一番尖った部分を掌に向け、鉄格子と共に、強く、きつく、できるだけ力を込めて、握る。

 掌の柔らかな部分に石が喰い込み――それでも、もっと強く。

「……っ、ぅ」

 鋭い刃物で裂かれたときの、熱く焼けるような傷みではなく、押しつぶされる不躾な痛み。

 鮮朱が、髪のように格子に絡み、流れ伝い、床に溜まってゆく。少しずつ、少しずつ。蟲に喰われたように染みは広がる。

 少年がぎょっとして此方を凝視する。

 溢れる血液が減ってきた頃に、リサは格子を伝う筋で以って掌と繋がった僅かの血溜りに、命じた。

 ――紅が、暴れだす。

 床に溜まった血液が、幾筋もの髪、或いは細い糸のように伸び、獲物を包み込む蜘蛛の脚の如く放射状に広がって、すぱん、と鉄格子を切断した。すぱん、すぱん、と硬い鉄の棒がいともあっさりと、複雑な軌跡でばらばらになる。

 血とて液体――下僕だ。繰るのに不自由はない。――いや、寧ろ直接に自身と繋がっている分、他の物よりも扱い易い。ただ、それなりの痛みを伴うし、ルネはそう血の気が多い方でもないので使える量に限りはあるが。

 暫くは愉しむように蠢いていたそれは役目を終えると唐突に元の、ただの血液に戻り、雨粒となってぱらぱらと落下した。

 格子には、人間の四人は悠に並んで通ることのできそうな欠損。ルネが脚を僅かに動かすと、床に散らばった輪切りの鉄の一つが爪先にぶつかり、からん、と間抜けな音を立てた。――そうして漸く、唖然として刮目していた少年が我に返る。

「あ……」

 少年が何かを言おうとして咽喉を動かした。ルネは、彼には興味がなかったから無視し、床を蹴って身軽に格子の残骸を飛び越えた。

 すぐ側に、上へと通じる階段を見つける。

 窓がないことからも視て、此処はおそらく地下室なのだろう。

 取敢えず、上へ出てみないことには此処が正確には何処なのか、これからどうするのか――何も判らない。敵の中に飛び込んでゆく行為ではあるが、それ以外は何もできないので、ルネは階段を上り始めた。

 もし――もしも此処にジルがいるのだとしたら、殺す。

 先に想ったように、見つける。追いつく、必ず。


   8

『待って』。そういいたかったのに、届かないような気がして少年は――レミーは黙ったまま少女の後を追った。が、格子の欠片を踏みつけ、派手に転ぶ。

「うぅ……」

 レミーが一年掛かっても出ることの叶わなかったこの牢を、あの少女は力ずくでいとも簡単に破壊してしまった。

 突然の自傷行為と無感情な暴力に驚いてつい、少女が出て行くのを茫と見送ってしまったが、考えてみれば魔族なら『能力』を持っているのだから、あんなことができたって不思議ではない。なんて莫迦なのだろう。自分だって魔族なのに。

 ――あ、でも。

 仮に落ち着いていたとしても、引き止められたかどうか。自分は、上手く他人と話せないから。

 さっきだって、『大丈夫』だとか、そんなことしか言えなかった。本当はもっと、もっと何かを話したかったのに。

 同年代の女の子を視るのは初めてだし、まともに他人に向き合ったのも久し振りだ。――――この地下牢に入れられてから、一年が経っていた。

 特に不自由は感じていなかった。取敢えず食事は与えられたし、此処にはレミー一人だけだったけれど、それ以前もずっと独りだったから。

 だから、初め、此処に連れて来られた少女を視たときは驚いた。それから、目蓋を閉じた顔がとても綺麗だと思った。

 血塗れだったから怪我をしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 眼を開いて、それから二言三言会話した。望んだことの三分の一も口に出せなかったが、それでも少女がレミーの言葉にちゃんと反応してくれたことは、嬉しかった。だからもっと話したかったのに、言葉は咽喉に張りついて何も出てこず、そして少女は行ってしまった。

 だから、追いかけようと思う。

 逃げたいのなら、やりたことがあるのなら――何か望みがあるのなら、力になりたいと思った。もしかしたら――いや、確実に自分は足手纏いだろう。けれど、あの少女なら、レミーが話しかけさえすれば、口をきいてくれるかもしれない、そう思った。少女の名前が知りたかった。自分の名前を知って欲しかった。少女に、一度でいいから名前を呼んでほしかった。レミー、と、母に唯一もらったもの――名前。

 牢に入る前はこの城で暮らしていたのだから、道案内ならできる。抜け道も沢山知ってる。

 牢から出たかった。けれど、此処から出たら、どうすればいいのか分らなかった。だから、少女の行方に縋りたかったのかもしれない。それは例えば、雨の日に仔猫が、同じ場所で雨宿りをしていた人間に着いて行くのと同じように。

 レミーは起き上がって少女の消えた階段へと向かった。

 

 真っ直ぐに続く階段にもやはり、等間隔で蝋燭が掛けられていて、上から吹き込んでくる緩い風に揺れていた。

上るその足は決して遅くはないのだが階段は長く、少女はまだ半ばほどにいる。レミーはすう、と息を吸って、全速力で階段を駆け上がった。

「――待って! ねぇ、待って!」

 少女が立ち止まり、振り返った。少し驚いたような表情をして、片足を次の段に掛けたまま、レミーを見下ろす。

 自分の言葉を聴いて、ちゃんと立ち止まってくれたのが嬉しくて、ぱっと顔を輝かす。そしてその瞬間――足を滑らせて、転んだ。

「あうっ!」

 咄嗟に伸ばした手が、大分近づいてしまっていた少女のスカート服の裾を、偶然、掴んだ。

「あ……きゃ」

 レミーは少女を道連れに、ごろごろと階段を転がり落ちていった。


   *…*…*…*…*


 眼が回って、一瞬意識が遠のいた。

 少年と縺れ合いながら躯中をぶつけたが、最後、床に投げ出されたときだけは下に何か柔らかなものがあり、衝撃は少なかった。

 自分の鈍さが厭になる。――階段を、転げ落ちるなんて。

 柔らかなものを下に敷いたまま、緩緩と身を起こす。脳が揺れている。気持ちが悪い。と、下の方で。

「あ、の……苦し……」

 どうやら少年を押し潰してしまったようだった。

 ――自分の所為でこうなったくせに。

 立ち上がりながら、半眼で軽く睨む。すると少年はわたわたと起き、地に額を擦り付けそうな勢いで、へこへこと謝りだした。

「ごめんっ、ごめんね、ごめんなさい……!」

 まだ変声期前の甲高い声に怒る気も失せ、――何より、こんな風に他人に謝罪されたことがなく当惑して、ルネは言った。

「あの、……別に怒ってない」

 その言葉に、少年の顔はぱっと明るくなる。ころころとよく変わる表情の少年だ。

「あ、あの、じゃあさ」

 少年は所所痞えながらも謝罪時の勢いをそのままに躁状態で捲し立てた。

「あの、僕、君に着いて行っても、いい? 僕、その……ずっとこの城に棲んでるし――あ、今は牢屋にいるけど、でも道とか部屋とかよく知ってるし、えと、こんなんでも一応魔族でちゃんと『能力』持ってるし、道案内でもなんでもするし、あ、もしかして君新しくこのセクトに入って来た子だったりする? それなら、そうか……道案内必要ないよね、ごめん……」

 咲き誇った花が段々萎れるように勢いを失ってゆく少年。

 半ば気圧されつつもルネはいつもと同じ、淡々とした口調で伝えた。

「……あなたの好きにするといい。――それと、あたしはこここの城の者じゃないわ」

 少年は、途端にこの上もなく嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 立って並ぶと、自分と背丈があまり変わらない。十歳を少し過ぎた位だろうか、――気の弱そうな少年。牢に、入れられていた。出してしまってよかったのだろうか、とも思ったが、どうせ自分には関係ない。少年を一瞥すると、再び階段を上りだした。


   7

 夢。

 夢を見た。

 ルネと出会った頃の記憶。何もかもを壊してしまう前の、懐かしい夢。

 闇の中から現へとジルを呼んだのは、唄だった。

 子守唄のような、どこかふわふわとした鼻歌。それは、酷い不快感をジルに与える。何度も何度も耳にした、壊れたオルゴールのような音。大嫌いで鬱陶しい。――一気に、意識がはっきりと、覚醒する。

 眼に映るのは高い天井と、それから平生とまったく変わらない様子の、リュシアンの顔。唄は、まだ聞こえる。

「よ。気がついた?」

 躯を起こす。――背中が痛い。ああそうだ、何かが飛んできたんだ。そう、離れが爆発して――――ルネは、どうした?

 周囲を見回す。だだっ広い石造りの部屋。幾つかの椅子以外、目立つ家具は見当たらない。ジルが今寝ていた寝台くらいか。――漸く、此処が城内に与えられたジルの部屋であると判った。あまりに何もなさ過ぎて、すぐには判別できなかった。

 居るのは、寝台の傍らに腰掛けているリュシアンと、それから――不愉快な、歌声の主。

「エポニーヌ、ジル起きたよ」

 リュシアンが、窓辺に座り空を眺めていたそいつに声をかけると、ぴたりと唄が止んだ。

 ゆっくりと振り向いたその顔は、まるで夢でも観ているかのように呆けて、瞳は茫としている。もう、三十代半ばになろうかというのに、少女のようなあどけなさを漂わせた女性。

 青白く痩せた躯にナイトガウンを羽織り、緩く波打つオリーブ色の蓬髪を背に流している。

 エポニーヌ・カスタニエ――ジルの、実母だ。

 彼女はジルを視るなり立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで此方に近づいてくる。

「……ジル」

 嬉しそうに、微笑む。

 だがジルは気まずそうに視線を逸らし、リュシアンに先刻からずっと気になっていたことを訊ねる。

「ルネは? それと離れ。どうなった?」

 リュシアンはそんなジルの態度には慣れた様子で口を開きかける。が、エポニーヌが遮る。

「――ル、ネ……?」

 首を傾げる。

「ルネ、誰? ねぇ、誰?」

 瞳は大きく見開かれ、今にも笑い出しそうな顔で、エポニーヌは問う。痩せて骨と皮ばかりになった指が伸び、ジルの顔に巻かれた包帯に、触れる。――ジルは冷たくその手を振り払い、母親を睥睨する。

「……邪魔」

 これ以上、彼女と同じ空間に居るのが、反吐が出るほど厭で、ジルは立ち上がり――背中はまだ痛むし、少し眩暈がしたけれど、扉へ向かった。

「――なんで……」

 背後で、問いかけ未満の呟きが聴こえた。

「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」

 呪詛のようなその声を聞きながら、ジルは外に出た。

 母親。ジルの母親。

 ほんの少し心の壊れた、ジルが何よりも憎む人。

 忌忌しげに舌打ちをすると、もともと緩んでいた上にエポニーヌに触れられて今にもほどけそうになっていた包帯を、きつく巻きなおし、何処へ向かうともなく廊下を歩き出した。

 少し経つと、リュシアンが追いかけてきた。

 石の床に敷かれた、古ぼけた絨毯が足音を吸い取る。硝子の嵌め込まれていない窓からは炎上した離れに集まる数人の男たちが視えた。

「全部燃えちゃったなぁ……」

 リュシアンが妙に間延びした声で言う。

「かまわねえだろ。あそこ取り仕切ってたのはクラウだし」

「そっか」

 何故だか、妙に空気が重い。

「……ルネって、さ。さっきの女の子?」

 リュシアンは遠慮がちに訊ねる。

「ああ。あいつは……どうした?」

「取敢えず、まだ生きてたし地下牢運んどいた。エポニーヌとか、他の連中が何て言うか分かんなかったし」

「そうか……」

 ちゃんと、生きている。それをきいてひとまず安堵する。

「怪我とかは?」

「さあ。もともと血塗れだったから分かんねぇ。ま、おまえが庇ってたし、大丈夫だろ」

 血塗れ。ルネは再開したとき既に、クラウディオの血に塗れていた。

 綺麗な服を着ていてもルネはいつもそうやって汚してしまうから、カミーユがいつも困っていたのを思い出した。

「じゃーな」

 伝えるべきことを伝えると、リュシアンはジルに背を向け、もと来た道を戻り始めた。何処へ、と問うと「エポニーヌ宥めに行くんだよ」と答える。

「ご苦労なことで」

「おまえが言ったんだろ」

 リュシアンは笑う。

「――ああ、そうだったな。あいつから、離れるなよ」

「わーってるって」

 リュシアンはひらひらと手を振って扉の向こうに消えていった。

 そう、エポニーヌから離れるな。――侵入者がいるはずだ。あの爆発を仕掛けたふざけた奴が。そいつの目的は判らないが、エポニーヌは殺させない。エポニーヌを殺すのは――。

 種は蒔いてしまった。待つだけだ。

 口端を歪めた、笑みととれなくもな表情を浮かべると、ジルはまっすぐ地下牢へ向かった。

 ――これから、どうしようか。


   8

「なんで……」

 最後に一言吐き棄てると、エポニーヌはジルに振り払われた手で自らの頬に爪痕をつけた。

 ルネ、誰? 

 知らない人だ。ジルが気にしていた人。誰だろう。――ジルを奪いに来たのだろうか。知らない誰かがまたジルを連れて行ってしまうのだろうか。

 厭だ。

 またジルがいなくなってしまったらと思うと、とても恐い。

 ジルはエポニーヌのものだ。誰にも渡したくない。

 床にぺたんと座り込んで、人差し指の肚で床をなぞる。

 ざ、ざ、ざ。

 皮が擦れ、血が出る。

 ざりざりざり。

 床に指を這わせる。赤い軌跡ができ上がる。

 ざりざりざりざりざりざりざり……

 そうして、指を蝋石のようにして、リュシアンが戻ってくるまでずっと、愛しい人の名前を描いていた。


   9

 長い廊下を昇りきった後、人のいない廊下を歩きながら、ルネはこれからどうしようかと考えた。

 本当は、帰るべきなのだろう。これは、カミーユの望みではない。だが、それはできない。このまま帰ったら、きっと後悔する。――あのときのように。だから、ジルに会いたい。会って――もう一度会って……

 ――私の中の、ジルを殺さなきゃ。

 ジルはきっと、ここ城にいるから。

 硝子の嵌め込まれていない窓から、何かが焦げたような、厭な臭いがする。おそらく先の爆発で燃えたものだろう。それが、ジルが此処にいるとの確信を持たせていた。

 そういえば、どうして自分はあの地下牢にいたのだろう。気を失ったあのときに殺されていてもおかしくはなかったというのに。――ふ、と。風に乗り、焦げた臭いに混じって、嗅ぎ慣れない奇妙な臭い。――そうだ、前に教わった。これは、ええと――火薬。

 日頃馴染みの薄い臭い。この地方では知識でのみ知る者も少なくないのではないだろうか。

 火薬。こんな物を使うのは『あの人たち』しかいない。――『帝國』。

 いる? あの人たちが、此処に?

 過る記憶を振り払う。

――まさか。そんなことない。

胸が苦しい。――今はそんなこと考える必要なんてない。忘れればいい、今は、『帝國』のことなんて。頭の中でいろんなことがくるくると渦巻く。

ルネは、どうすればいい。何を考えればいい? 

「――……ぶっ!?」

 不意に立ち止まったルネの背に、何かがぶつかった。

 緩緩と振り向く。

 ――嗚呼そうだった。この子もいたんだ。

 さっきからずっと、ルネのうしろ後を歩いていた少年。母親の後に続く雛鳥みたいだ。

 少年は鼻と額を押さえながら、首を傾げてルネの瞳を覗き込む。

「……あ、あの……、どうしたの……? 大丈夫?」

 くるくるとよく動く、よく観ると深緑色の瞳。それに、何となく気が抜かれたような気分になってルネはふ、と息を吐いた。

「……なんでもない。どうもしない」

「え、あ、ごめん……」

 ふと、それに既視感を覚える。

 何だろう。以前、同じような気分になったことがある。

 この少年と、言葉も態度も全く違うのに、何か似ていた――。

 まるで少年に合わせるように首を傾げたルネに、少年は眉根を寄せる。

「な、なに……? あ……、そうだ!」

 少年は不意に素っ頓狂な声を上げる。

「僕、まだ聞いてなかった! あの、君の名ま――むぐっ」

 と、ルネは少年の言葉が終わらないうちに彼の口を押さえつけ、ついでにもう片方の手で彼を抱くと、背をぴったりと壁に貼り付け、息を殺した。

 すぐ側の十字路を一人の男が横切ってゆく。

 少年もすぐにその意味を察したのか、大人しくしている。

 かつ、かつ……

 足音は次第に小さくなり、やがて、消える。そうしてルネは、漸く少年を解放する。

「っぷはぁ」

 可愛らしく息を吐く少年を複雑な表情で一瞥すると、ルネはすぐに歩き出した。

「……あまり喋らないで」

「ご、ごめんなさい……」

 あからさまにしゅんとした声。それでも少年がついて来るのが気配でわかる。

 ――ふと、ルネは立ち止まる。

「ぶっ!?」

 二度目の衝突。

 そんなことはお構いなしに、ルネは背後を振り返る。

「――ルネ」

 一言。

 え? と少年が首を傾げる。

「ルネ・ローラン……あたしの名前」

 ぱあぁっと、少年の顔が明るくなる。名前を教えただけなのに。それも、彼が望んだから、それだけの理由なのに。

 ――変な子。

 心の中で呟いた。

「……あなたは?」

「あう、え、えと……」

 少年は何故だか、一瞬躊躇う。言いたくないのなら別にいい。そう思い、ルネは再び歩き出す。

 だがすぐに、背後から声が上がった。

「僕は、レミー」

 少年は、ゆっくりと。けれど――

「レミー・カスタニエ」

「え……」

 足を止め、振り返る。途端に少年は「しまった」とでも云うような、何処か怯えた表情になる。

「カスタニエ……?」

 唇で反芻する。

 知っている、名前。カスタニエ――――ジル・カスタニエ。

 訝りながらも、ルネはおずおずと、何故だか表情の凍りついている少年に訊ねた。

「『ジル』って、知ってる……?」

 少年は、

「ジル――……?」

 二、三度目瞬き、それから漸く表情が我に還ったようになり、あわてて首をがくがくと振った。

「ジル、知ってる! ――僕の、兄さん!」

 ルネは、その場に凍りついた。

 ――一体、此処は何処なのだろう。 

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