〈第三章〉歯車軋軋-1
1
彼は何も言わなかった。
だから、どうしてと私は言った。
彼は濡れていた。雨は血色を洗い流していたから、彼はただ、濡れていた。
「泣くなよ」彼は、そう言った。
泣いてなんかいない。
彼は一度振り返り、「やっぱ泣いてんじゃん」と呟いた。
泣いてない。そんな理由、何処にもない。視界がぼやけているのは、雨粒のせだ。
どうして。どうしてこんなことになったのだろう。彼は、答えてくれない。
彼の後姿が遠い。
追いかけたかった。追いかけて、追いついて、罵倒するとか頬を叩くとか、したかった。
けれど躯は動かない。肩口から脇腹にかけてざっくりと斬られた、その傷みのせいだろうか。
「じゃあな」と、彼は言った。
だから私は――吐き棄てた。
赦さない。私を傷つけたあなたを赦さない。私は、お前を、憎む。
彼は、わらった。
「俺はさ、お前に――――」
聴こえなかった。何も。
彼が言うのをやめたのか、耳鳴りのような雨音のせいか。
あのとき、追えなかった。その代わりとでも言うように、ルネは追いかける。ジルの後姿を。
彼は何も気づいていないようで、その背はどんどん近くなる。
彼と共にいた少年は、彼のことを『ジル』と呼んだ。記憶よりもほんの少しだけ大人びた顔だけど――同一人物でないはずがない。
彼を追う以外に、どうするのかなど何も考えられなかった。いや、思考するよりも先に躯は動いていた。
彼がもしそうなら――一年も前に、ルネの前から姿を消した少年――ジル、その人なのであれば――
――あれば、何だろう。
分からない。ただ追いかけた。追いつきたかった。会いたかった。憎かった。怨めしかった。殺してやりたかった。憎んだ。怨んだ。ルネのことを傷つけたジルを。彼しか、見えていなかった。
走って、撥ねて、細い枝の上を跳ぶ。樹と樹を縫うように、ルネに付着した血の匂いに寄ってくるイミモノも寄せつけない勢いで。いつしかルネは、気配を消すことを、忘れた。
ジルの背に近づき、追い抜く直前でルネは地に飛び降りた。
がさ、と足元の草が音を立てる。ジルが、立ち止まり――いつから気づいていたのか、驚きの少ない表情で振り返った。
その、顔。
間違いない。嘘じゃない。
「――ジル・カスタニエ……」
自分でも驚くほど震えた、しかし瞋恚に満ちた声だった。
ジルの瞳がゆっくりと見開かれ、それから戸惑うように視線が泳ぐ。
「ルネ……」
ああ覚えていてくれたと安堵する自分がどうしようもなく赦せない。
ジルはそれきり唇を引き結んで、凝固した。ルネも、名前を呼んだきり何も言えずにじっとジルを睨みつけた。
――どうして。
言いたいことが沢山あった。言えなかったことも、同じくらい。いつか再会するようなことがあったら必ず言おうと思っていた言葉が、沢山あったはずなのに出てこない。
風が止み、重苦しい沈黙がじっとりと空気をも湿らせるようにその場を支配する。
「――やっぱり……」
漸く口を開いたのは、ジルだった。
「お前だったんだな。クラウの屍体見て、もしかしたらと思ったんだよ。ひでぇ殺し方してたからさ」
そうして、唇だけで笑った。
何となく人を莫迦にしたような薄い笑み。変わらない――あの頃と。
「相変わらず、だな」
「……あなたもね」
そう。変わらない。
――どうする?
追いかけて、追いついて、それからどうするかなんて何も考えていなかった。
言葉を捜す。
何も浮かばない。今までだって、上手く話せたことなんてないのに今、言葉が出てくるはずがない。ただ、睨みつけるだけしかできなかった。
胸の奥がずきずきと痛む。錘がぶら下がったようでもあった。
あのこと――一年前のことや、それ以前の生活はとうに自分の中で決着がついているはずだ。ジルに斬られた傷が塞がってゆくに従って、徐々に忘れていった感情があった。徐々に生まれていった――造り出した感情がある。
いろんなものがくるくると渦巻く。
「お前は――」
再びジルが何か言おうとしたとき――空気が乱れた。
振り向く――背後――殺気――――
視えたのは、銀色に光る何かと、人。
さっきジルと共にいた少年だと、判る前に反射的腰を落としそれを躱そうとする。
だが、それより前に突如視界が傾いだ。背を向けたジルに脚を払われたのだ。首筋めがけて振り下ろされたはずの刃は夜闇に光る銀弧を描き地面に突き刺さる。ばらばらと跳ね上がった土が舞った。
強かに背を打ちつけ、息が詰まる。だから反応が遅れた。ジルが片膝を着き――拳を、リサの鳩尾に叩き込む。
痛みよりも、圧迫感と吐き気。かは、と苦しげな吐息が漏れた。――嗚呼、ジルはまたルネを傷つけた。。
仰け反った視界に、樹々の間の空が観えた。
生理的な涙がつうと一筋滑り落ちる中なぜだかはっきりと。
薄い三日月は、意地悪く笑った唇のように視えた。
2
ヴェロニカ・バイラーは森の中で『その時刻』になるのを待っていた。樹の幹に背を預け、懐中時計を凝視する。
――まだ。まだまだまだ。
秒針の動きすらも遅く感じる、高揚したもどかしさ。
――まだ。だから、落ち着け。
逸る心に言い聞かせる。冷静になれと。失敗は即ち確実な死だ。
少し先、ヴェロニカから見て北の方に、樹と草の途切れた空間がある。その中央には石造りの大きな城があった。じっとりと湿った空気を纏ったような陰鬱な立ち姿で、森に棲むモノを秘めやかに圧倒している。人の気配は薄い。このセクトの城に棲んでいる者は少ないと聴いていた。其処から少し離れた場所には同じような材質でできた、倉庫のようにも観える小さな建物。其処では『奴ら』がイミモノを飼育しているのだと、今の彼女は知っている。――何しろ、つい昨日侵入したばかりなのだから。もっとも、そのときは今のように一人ではなかったが。
化け物を飼うなんて、やはり奴らも化け物だ。イミモノよりも最悪な害悪、魔族。奴らを殲滅するのが、ヴェロニカの本来の役目だ。
シャンテテイル最南端『帝國』に拠点を置く、『人間族による』魔族殲滅のための組織『在朱の月』。その仕事に、大した理由などない。目的も理念も理想も、渾ては『魔族の消滅』だ。自警団などの中で高い戦闘能力を認められた者が選ばれそして魔族を鏖殺する――そんな組織。『在朱の月』の存在は『帝國』付近では名も通っていた。この辺りの地方の者には殆ど知られていないようだったが。
人間族は、劣る身体能力や『能力』を使用できないのを補うように錬金術で造りだされた『装置』を駆使し、魔族の消える世界を唄う。
だが、実際は――特に魔族の多い北西の地方では、『朝の月』の協力を仰ぐことも少なくない。所詮、人間族の力などその程度だ。体よく利用しているつもりだろうが、それは向うとて同じことだろう。今回だって、組織外の者の協力でなんとか準備が整ったのだ。本人が直接そう言ったわけではないが、十中八九魔族だろう。
街から大分離れた此処へ、徒歩にも拘らず一瞬で連れて来た。敵の城に侵入して『装置』を仕掛ける。――人間族に、できるはずがない。
魔族はとてもとても憎んでいたが、そのときは『こんなものか』程度にしか思わなかった自分が不思議だ。その人物からは魔族特有の『匂い』がしなかったかもしれない。何処か、何かが薄いような不可解さを感じた。――とても大切な仕事を前にしてそれ処ではなかったが。
離れの蔵に仕掛けた『装置』が作動し、その混乱に乗じて城へと侵入し、頭領を殺す。最後に城の至る処に仕掛けられた『装置』が作動して、全部、終わり。
頭で考えるのは簡単だ。だが、現実はそう上手くいくものではない。何もかもが不確定で不安定だ。
けれど、成功させねばならない。絶対に。何に代えても頭領だけは、殺す。
気づけば、時刻はもうすぐ其処に迫っていた。
3
サリュ平原付近のベルスーズの森一帯の中でも一際大きな樹、その枝に腰掛け、眼下の景色を見守る者がいた。
銀の長い髪を背に流し整った顔に柔らかな微笑を浮かべた、女性じみた美貌。
持て余し気味の長い足をぷらぷらと揺らしながら、不意に彼は顔を顰める。むぅと眉根を寄せ、しばし黙考。
「まぁ……」諦めて、
「暫く様子を観ましょうか」
呟く。
ずっと焦燥のような苛立ちを感じていたが、もう彼女は動き出した。森へ、入った。予想外の事態は寛仮しよう。敵は多く、強い程いい。
今夜だけならば待っていよう。好きに動くといい、必ず追いつける。もう、見つけてしまったのだから。追いつくことなど簡単だ。――例え、手に入れることはできなくても。
佳月を見上げて、微笑んだ。
長い髪を掻き上げると、華奢な手首に幾重にも巻いた細い銀鎖がさらさらと音をたてた。
「――もうすぐ」
そう、もうすぐ。
もうすぐ、
会える。
4
「ちょっ……おい、どうしたんだって……!」
攻撃が空振り行き場を失くしたリュシアンの右手を掴んで突如走り出したジルに、リュシアンは困惑と非難の入り混じった声をあげた。
「帰るんだよ」
ジルはリュシアンの方を見ようともせず邪険に短く答えた。その間もただ、走る。
「だからどうして! せっかく遊べると思ったのに」
「……」
「だいたい戻ってみればいいって教えたのお前じゃんか」
「……」
「もしかしてお前、あいつと知り合いなわけ?」
「……」
「ああもういいよ分ったよ! 何も訊かないから放せって」
その言葉に、漸くジルは彼の手を開放する。――リュシアンは素直だ。人を欺くことなど考えもしないから、そう言っておいて一人で引き返すようなことはしないだろう。引き摺られていたリュシアンが自力で走り出すと、速度は俄然上がる。
背後では彼女が――ルネが追ってくる気配があった。いずれ彼女は追いつくだろう。――あのときと違って。だが、ジルはまた走った。遠ざかりたくて。
思い出す。彼女の怨嗟に満ちた瞳。
恨むのは、当然だ。
一年と少し前、ジルは彼女を斬った。裏切った。
蹲るルネに、背を向けた。去った――逃げた。
あのときルネは泣いていた。傷みか、痛みか。
現在は以前とは違う。ジルも、ルネも。今更どうすることもない。ルネはジルを憎んでいるだろうから。
それに、思う。
待ち望んでいることがある。だから今此処に、ルネは邪魔だ。
けれど、結局また逃げているけれど、ならばなぜ自分はこの一年、よく街の近くまで出ていたのか。認めたくはないが、どうしようもない二律背反だ。――まだ、あの感情を忘れていないらしいと苦笑した。
開けた空間は突如現れる。
いくらも走らぬうちに樹や草を人の手で払った砂地に出た。その中央には石造りの城。二人の属するセクトの『領域』だ。
其処に人の気配は薄い。棲んでいる者がそう多くはないからだ。ジルが幼少期に過ごし、一年前に再び戻ってきた、大嫌いな、居場所。昔はもっと大勢が属していたような気がするが、今棲むのはほんの三十人程度だ。見張りすらいない。いや、必要ないか。
「ジル、ったくもう。どうしたんだよ」
リュシアンは息を切らして、漸く立ち止まったジルを睨みつけた。
「……訊かないんじゃなかったのかよ」
「そうだっけ。忘れた」
「莫迦。――お前には関係ねぇよ。くっだらねぇ。どうでもいいだろ」
「……分かった。――なぁ、ジル。お前がもしこのセクトの頭領になったら……」
「ならねぇよ」
「え? だってエポニーヌが」
「それはあいつが勝手に言ってるだけだ。俺にその気はねぇって、前に言ったろ」
「何だってそう厭がるわけ」
「面倒だし、俺人望ねぇし、それに――」
エポニーヌの望む通りに行動することが厭なのだ。それに、このセクトはあの男のモノだった。頭領になるなど、反吐が出るほど厭だ。寧ろ、此処が崩壊することを望みすらする。だが、その言葉は呑み込んだ。
「レミーがいるだろ」
「でもあいつ……」
「何」
「いや、だって、ほら……エポニーヌだってあいつのこと……」
「あの女が死ねば関係ないだろ」
どの道、此処はそろそろ破綻するだろう。あの男が死んで以来、薄々感じていたことだ。頭領を継ぐ器の者が何処にもいないのだから。ジルは、そのことにあまり興味はない。
「どうでもいいさ。俺は、エポニーヌが死んだら此処を出て行く」
その言葉に、リュシアンが表情を変える。ほんの一瞬だけ眉根を寄せて、ねだるように首を傾けた。
「俺も着いて行っていい?」
「なんでだよ」
あまり、今は考えたくもない話題にジルは顔を顰める。あまり未来は見たくない。先のことなんて、屑だ。現在すら満足に見られないのだから、不条理な現実に支えられる不安定な未来に何を託せというのだろう。いつ、どのように崩れるかなど、どうしたって判りはしないのだ。そしてそのときは、必ずやって来る。――一年前、痛いほど解らされた紛れもない真実だ。
不快そうに眉根を寄せると、もともと怒ったような表情が一層不機嫌になる。リュシアンが慌てて話題を変えた。
「あれ、さ。本当にやるの?」
「ああ。――いや、もう、した」
「そうなの? へぇ」
「なんだよ」
「いや……愛されてんのになぁと思って」
「そんなんじゃねぇよ。鬱陶しい」
愛されてなどいない。――あいつは、ジルのことなど見てはいないのだから。
「そう……かな」
「そう思うんならお前があいつの息子になれ」
「あ、それ勘弁。俺、母親とかいらないし」
「ならほっとけ」
「はいよ」
リュシアンは唇を尖らせ拗ねたように言った。
単純で莫迦で、けれどもう十八になるのに無邪気な笑顔を浮かべる彼は、純粋で素直だ。何かに執着することがなく、それ故に下心も何もない。だから、ジルは彼と共にいるときだけは普段より饒舌だし、変に神経を尖らせずに済むから気楽だ。今は唯一気を許せる相手でもあった。
此処では彼以外、そんな風にジルを同じ目線で扱う者はいなかった。大抵の者が、奇異と侮蔑の眼で見、一方で何処か怯えたような態度で接する。彼らとの間に、馴れ合いや情など存在しない。駆け引きや牽制といった、根底に暴力を孕む白々しい人間関係に支配されていた。
一年前、再び此処に戻ってきたジルに、ただ笑って「久しぶり」と言ったのは、彼だ。もしかしたら、随分救われているのかもしれない。
ふと、リュシアンはジルの背後に視線を遣り、気を使っているのか、或いは彼のことだから飽きたか面倒になっただけなのかもしれないが、くるりと城の方へ爪先を向けた。
「俺もう疲れた。帰って寝る」
「ああ……」
少し躊躇って、そっぽを向きながら呟く。
「……悪かったな」
「やー、別にいいんだけどさ、俺は」
リュシアンは数歩城へと前進し、それから振り返って普段滅多に見せることのない真剣な表情で言った。
「なんかさ、そう云うの似合わない」
ジルは、思わず苦笑する。
「……俺もそう思う」
そしてリュシアンは肩を竦め、じゃあなと手を振って灯の殆ど燈らない城へと歩きだした。背中が消えるまで見送って、それから振り返る。さっきからずっと感じていた気配へと。
「……仲がいいのね」
いつの間にか追いついていたルネがぽつねんと、離れを背に立っていた。話が終わるのを待っていたらしい。他人が話している処に割り込めないのは相変わらずのようだ。
「別に……よかねぇよ」
「よさそうに見えるわ」
そういえば、と思う。
自分たちもこんな風だったろうか。互いのことに無関心で、なのに口喧嘩ばかりしていた。
こんな思いもかけない再開に、動揺もせず冷静でいられる自分が少し不思議だった。確かに、根拠も理由も確証もない微かな希望を持ってあの街の近くにはよく出ていたけれど――この一年、心の隅に抱き続けてきた、罪悪感とは僅かに違う痛みと後悔たり得ない諦観は変わらずにずっと、陰陰と渦巻いていたが、だから、何だ。今更ジルにできることなんて何もない。せいぜいルネに殺されてその恨みと傷みを昇華させてやることくらいだろうが、その気もなかった。
「お前、さ――怒ってる?」
「ええ」
「恨んでる?」
「ええ」
ルネには、ある。
追いかけて、走って、睨んで話してそんな風に思うことは。感情をぶつける理由が、確かに彼女にはあった。ルネは、何も悪くなかったのだから。――いや、たとえ『なくても』、きっとルネはぶつけようとするだろう。行き場のない気持ちを、何かに。
「憎んでる」
「ええ」
それが、羨ましいと思う。自分のように、自棄になって渾てを棄て、棄てきれないものを壊してしまうよりもずっと、生きているような生き方だ。
「じゃあ、俺のこと、嫌い?」
「……ええ」
ルネの表情は変わらない。瞳だけが、揺らめく光を孕む。
「何で、追いかけてきたんだよ」
無表情が、幽かに揺れる。
気まずい沈黙が流れた。ルネもジルも、何も言わずに――言えずに、互いの顔をじっと見る。まるでどちらかが動くのを待つ睨みあった蛇のように、或いは見つめ合う恋人同士のように。
今すぐにでも、此処から立ち去りたかった。だがそれは焦燥などではない。今更。そう思うが故の苦痛だった。
先に眼を逸らしたのは、ジルだった。
――卑怯だ。
重い口を開いたのは、ルネの方。
「……また、行くの? あのときみたいに、何も言わないで」
責めた口調ではなく、訥訥としたただの言葉。
「別に、聞きたいわけじゃないし、知りたくもない。けど……、だって、あたし解らない」
すぐにルネもジルをを視なくなる。視線を地に這わせている。
微かに震える語尾には気づかない振りをした。
「解ったって、変わらねぇだろ。今更、戻らない」
ずるい言葉。
「今更、元通りにしたいわけじゃないわ。――壊したいだけ」
「何を?」
判っていたけれど、訊いた。
ルネはそうして身を守る奴だ。だから、ルネは、自分を傷つけるものを、傷つけたものを――ジルを、決して赦しはしないだろう。
「――あなたが嫌いなの」
答える代わりに、ルネは言った。抑揚に乏しいか細い声は酷く澄んでいて――けれどこのときだけは、低かった。
半ば乾きかけた血に塗れた、酷い格好だ。おそらくクラウディオを嬲り殺したのはルネだろう。
いつも、ルネはそんな風に殺してきた。
あの頃と、ジルは変わらない。自分だけ背が伸びたのか、ルネの顔が以前よりも少し下の方になった気がするが、それだけだ。変わってはいないのだと、思うけれど、大切な何かが決定的に壊れてしまった。ルネは、変わっただろうか、大切なものが。もしそうだとしたら、ジルが壊したものがきっとある。
壊れてしまったものはもう元には戻らない。だからジルは、それらを踏み躙ってゆく。
「……お前は、どうしたいんだ?」
再び、ルネは黙り込む。
大きな瞳の光はもう、ジルを睨みつけてはいなかった。ただじっと、視ている。毅然としているのに、突付けば崩れそうな脆さが、あった。漸く解るようになった頃、嚥下することなく棄ててしまったものがある。けれど、その欠片はまだ知っていた。
ルネは、ジルを赦さない。語らない黙らない。
直しようがないのなら、変わる手段は更に壊すこと、それしかない。だから。
背に掛けたサーベルの柄に手を掛ける。もう、心は麻痺してしまったのだろうか、刃を向けることに何の躊躇いもない。
「俺は……」
「あたしは……」
二人の声が重なった。ジルは思わず口を閉じる。ルネは彼が話し出そうとしたことに気づいていないようだった。
「あたしはっ……あなたに――――」
言葉を聴くことができなかったのは。
視た。
妙にゆっくりと、視覚が捕らえた。ルネの背後で膨れ上がる、橙色の炎が、離れが、
何も知らず、判らなかった。
閃光。
爆発?
だから何も考えず、ただ思って。
それはほんの一瞬。手を伸ばせば届きそうな、届かないようにも見える距離に立つルネの腕を掴み引き寄せ――爆風に吹き飛ばされる。瓦礫が舞う。――逃れようと、地面に躯を投げ出した。ルネを抱き寄せたのは、その場所にいれば彼女が劫火に呑まれてしまうと思ったから。そうなってしまうのが、厭だと思ったから。
鼓膜から直接心臓を叩くような轟音が響く。離れが爆発したのだということは判ったのだが、理解ができなかった。
だが、考えるよりも前に、飛んできた石壁のうちの大きなものが背に激突し、痛みすら感じないまま――意識を、手放した。ぼやける視界の中、庇いきれずに地面に頭を打ちつけ気を失ってしまった少女の細い肩を抱いた手に――無意識に――力を込めた。壊れてしまいはしないだろうかと、思いつつ。




