〈第二章〉月光の獣道-1
1
葩を。
毟る。払う。千切る。飛ばす。――舞い上がる。
真夜中。眠るのは好きじゃない。――夢を見るから。
夜は静寂が滓のように漂っていて、だから窓の外の微かな風の音すらも耳につく。
痩せた青白い手足を寝台に投げ出すように横たわりながら、赤い花の花弁を丁寧に毟ってゆく。月華鏤の赤い葩をひとつひとつ千切り、ふと、脳裏に過ったのは幼い頃に教えてもらった花占い。――違う。毟りたいだけだ。
月華鏤。
幾重ものくすんだ紅い花弁が玉のようになった花。棘を失くした薔薇のような花。幼い頃は、これが薔薇の紛い物のような気がしてならなかった記憶がある。葩の数は多いから、こんな物で花占いをやってみたってなかなか終わらない。
好き、嫌い、好き、嫌い――嫌い。
不快感と共に、ぼんやりと思い出す。あの不可解な銀髪の青年のことを
あれから一日が経っていたけれど、館の中ではその姿を見ていない。カミーユの知り合いのはずだから彼に問うてみようかとも思ったが、それは、頬に口づけられたことに執着しているみたいで――莫迦莫迦しくて、やめた。どうでもいいことだ。
腹が立ったのは、いいように扱われた自分自身。
――もっと。
もっと、強くなりたい。
それは、いつも想うこと。強ければ、後悔なんてしない。傷みだって、殺せる。だから、もっと。もっと強くならないといけない。
――強くなれば、夢は見ないだろうか。
夢は、いつも悪夢だ。昔の記憶。どうしようもない流れの中で逆らえなくてもがき続ける夢ばかり。だから、眠るのが怖い。怖くて、眠らない。――眠れない。
夜に限って開かれたカーテンの間から、月が見えた。
薄い三日月。滑らかな曲線を以って真夜中の黒を切り取っている。
ふ、と息を吐いて、寝台の隅に山になった月光を鏤めた花を一つかみ、空に投げ上げる。ふわふわと、空気を嘗めるようにゆっくりと降下。それは、諧謔を伴って躯のあちこちに降りてくる。
白いシーツの上に広がった黒髪は蛛糸。散らされた葩は血飛沫のようで、けれど獲物はかからない。
或いは。待ち望んでいるそれは自分なのかもしれない。
2
滑らかな曲線を以って真夜中の黒を切り取った薄い三日月が視える。
分厚く堅牢な防護壁の上に腰掛け、親指の爪をかりかりと噛みながら、彼はぼんやりと空を見上げた。
この場所からは、孤児院がよく見える。
結局彼は、あれから館を訪ねてはいなかった。行けば、あの子がいるだろうから。
カミーユはきっとまた、自分の気紛れな行動に嘆息しているだろう。――いや、或いは安心しているか。
灯の消えた館を眺め、思考する。
早く、事が起こらないかと。
苛苛と、爪を噛む。
「あ――……」
勢い余って指の腹も噛み切ってしまった。つう、と血の筋。
舌で拭う。
花のような薫りと、蜜のような味がした。
今はもう何を食べても何の味もしないのに――唯一感じられるのは錆びたような血の味だけなのに、やはり自分の血は違うのだと、韜晦のように微笑んだ。
3
街の中心近くの宿屋、その一室。
ヴェロニカ・バイラーは表情を消して、深い紅色の制服に袖を通していた。蝋燭の炎が揺れ、艶やかな美貌に不安定な影を描く。
窓の外を見るともなしに眺める。滑らかな曲線を以って真夜中の黒を切り取った、薄い三日月があった。その赤に、思い出すのは血の色。
――あのときは、もっと、赤かった。
瞳には昏い光。
戦闘着でもある制服の、金の留め金を掛ける。――制服。魔族殲滅のための組織『在朱の月』に所属している証。ヴェロニカの誇りだったもの。
もしかすると、これは規則違反なのかもしれない。だが。
――そのために、来た。迷いなんてない。
だからきっと。否、必ず。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
『あのとき』から、ずっと。その後のことは、何も考えてはいない。
4
中心部に大きな噴水のある街の、北側の城壁を外側から眺める者が二人いた。彼らは薄墨色のマントに身を包み、うち一人――十代後半の少年は肩に大きな袋を担いでいる。
「ね、クラウ。この街?」
「ん……」
此方の、クラウと呼ばれた男も、まだ少年の面差しが残っている。
「お前……俺に付き合ってるだけなんだから、余計なことするなよ」
「判かってるってば」
彼は、傍らの少年を牽制するようにざらついた掠れ声で呟くが、少年は軽薄な、けれども無邪気な笑顔で返す。クラウはつまらなさそうに鼻を鳴らしただけだった。土気色の顔にかかるくすんだ赤毛を払うと、無造作に地面を蹴る。彼の躯は撥条のように跳ね上がり、三、四メートル程はあろうかという高さの城壁の上へと着地した。それから、「リュシアン」と少年を促す。名前を呼ばれた少年も、同じように後に続いた。
そうして、二人は街に這入る。
住人は眠っていた。侵入者たちに気づくことなく――だから、観ていたのは、滑らかな曲線で以って真夜中の黒を切り取った、薄くわらう三日月と、そのすぐ傍を横切った小さな鳥だけだった。
5
鳥の羽ばたく音が聞こえたような気がした。それは、一瞬ですぐに止まる。だから、その音を気に留めたのはほんの一瞬のことで、再びルネは月華鏤を玩ぶ。
ひとひらずつ、毟り、千切り、投げて、散らす。寝台から身を起こし、冷たい壁に背を預けて。薄布越しのひんやりとした感触が心地よい。
だんだんに、一枚一枚取り払うのが面倒になってきて、まだ沢山ある赤の花弁を纏めて掴み、引き千切る。ぶちぶちと音を立てて萼から離れたそれを空に放ったとき、扉の向こうから息を殺した呼び声がした。ルネ、と。
あくまで柔らかく、けれど真剣な声――カミーユだ。認識して顔を上げると同時に、遠慮がちに扉が開く。
「やっぱり……起きていたんだね」
黙って首肯する。なかなか眠りに就けないのは昔からで、カミーユもよく知っていることだ。
ルネがこのとき身に纏っていたのは袖なしのアンダードレスで、殆ど下着姿と変わらなかったが、お互いにそんなことは気にしない。カミーユが真夜中に部屋を訪ねて来るのは、よくあることなのだから。それは、いつも同じ理由。即ち。
「仕事だよ」
声を潜めて、囁く。さっきの音は、この辺り一帯を上空から監視している鳥が、異変をカミーユに伝えに来た音だ。
カミーユの顔は、苦渋に満ちている。当然だ。ルネに与えられる『仕事』とはつまり『狩り』で、それは何処かで人が魔族かイミモノに襲われていると云うことなのだから。
けれど、ルネは、嬉しい。緩やかで純粋で、そして理不尽な歓喜が這い上がる。
『狩り』は、ルネの願い。理由。安堵。歓喜。狂喜で狂気で兇器。そして、宴。
『仕事』があると、安心する。まだルネは、使えると云うことだから。いらなくなることは、何より怖い。そして、『仕事』――即ち『狩り』はカミーユを繋ぎ留めておく、手段だ。――それに。もっと、ルネの奥深くで、本能が噎ぶ。魔族の本来あるべき姿を、呼ぶ。
無表情を装い、胸の高揚を押さえる。
カミーユは、そんなルネの感情に気づいているのかいないのか、早口に情報を伝える。
「場所はこの街。北区防護壁付近に魔族と小型のイミモノが侵入。被害は不明」
その言葉を聴きながら、ルネは立ち上がり、クロゼットから引っ張り出した服に着替え始める。
「イミモノは完全に殲滅。魔族のほうは狩ることが望ましいけれど、深追いしてあまりに危険なことはしないこと」
命令の内容を、再び脳内で反芻し、頷いた。命令の内容はいつも通り、簡単だ。つまりは全部殺す。今度は、この間逃がした分も取り戻すくらいに。
「大丈夫かい?」
「ええ」
ワンピースを被りながら、狂喜と焦燥の入り混じった感情のままに答える。
――今度こそ。
大きく広がった袖口から伸びる手首にリストバンドを巻く。同様に、首にも黒い革製の首輪。両方とも、銀製の飾りが付いている。妙にごてごてとした装飾の施された革靴を履いた爪先で、とん、と床を鳴らす。全身を黒に包み、袖口や襟、裾にあしらわれたレースや赤く細いリボンと相俟って、血塗れの鴉のような装いになる。華奢な手指とスカートから伸びた細い足、人形のような顔だけが、切り取られたようにただ白い。
紅を刷いたような朱唇をちろりと舐め、ルネは窓を開いた。夜の冷気が滑るように流れ込んでくるが、冷涼なサリュ平原としては気温はやや高い方といえた。風は弱い。
窓の縁に足を掛ける。――此処は二階で、下は石畳なのにも拘わらず。
「カミーユ」
「気をつけて」
ルネはこく、と頷く。瞳だけが、爛と。そして、外気に身を乗り出し――夜闇に身を躍らせた。
何の躊躇いもなく窓から飛び降り、地を蹴り塀を蹴り高い位置までゆくと、家々の屋根の上を飛ぶように跳んでゆくルネの背を、カミーユは窓辺で見送った。
窓は閉じない。ルネがいつ帰って来ても、館の中に入れるように。
本当は、住人の被害よりも、ルネのことが心配なのだ。そんな自分は『朝の月』の一員としては色々と間違っているのだろうが、それでも考えずにはいられない。
知っている。ルネが、カミーユの命令を遂行することに必死になっていることを。怯えていることを。
――そんなこと、在り得ないのに。
決して、不要になんてならないのに。とても、大切に思っているのに。
けれどカミーユは、上手く伝えられず、ただ、仕事を与えてルネを安堵させ、同時に圧迫することしかできない。




