〈第一章〉病める薔薇-2
5
細い足を外用の革靴に突っ込み、爪先でとん、と地を鳴らした。
睨むように前を見つめ、重い扉を押す。今日は暖かだから外套は不要だろう。
何も考えずに買い物に行くことを承諾してしまったことを、ルネは少し後悔していた。昼間に外を出歩くのは、みんなと食事を摂るのと同様好きではない。だから、普段も狩り以外で館の外に出ることは滅多になかった。それでもカミーユの『頼み』を断ると云う選択肢はルネの中に存在しないから、行きたくなくても、行く。
大したことはない。雑貨屋に行き、インクを買って帰るだけだ。
それに、分かっている。カミーユがルネにこんな頼み事をしたのは、ルネにもう少し外を歩かせたいからだ。
一歩踏み出す。真昼の陽射しが眼に痛い。今日に限って、この地方にしては珍しい程陽光は鋭かった。
石段を降りて、其処から門まで敷石の上の僅かな距離を歩く。靴の先を見るともなしに眺めながら、ゆっくりと。
心の中は、先に比べればずっと凪いでいる。『カミーユの望むこと』ができたのだと言ってくれた。そして、その後。別れ際のカミーユの言葉を反芻する。――『次の狩りは成功させること』を命じてくれた。それが、嬉しい。
それを、その命令を果たすまでは――少なくとも、それまで。ルネはいらなくならない。
だから、大丈夫。
緩やかな吐息を吐きながら立ち止まり、門を開こうと顔を上げる。
「……?」
鉄格子を交差させ曲線の模様を描いた大きめの門が、半分開いていた。
そして、その錆びた格子に手を付いた人影が一つ。――いや、『手を付く』と云うよりも門に手を掛けなんとか立っている、と云うような格好。
格子に縋り痩躯を屈めてはいるが、それでも随分と背が高いのが判かる。髪は銀。始めて視る色だ。裾の長い黒の上着がその金属じみた輝きを際立たせている。長い前髪が掛かっていて顔はよく見えない。
この孤児院に何か用があるのだろうか。取り敢えず、門を通るのに邪魔なのだが。
首を傾げるのとほぼ同時に、その人が大きな溜息をついた。
「あの……」
と、その長身痩躯が不意にぐらりと傾ぐ。
「……あ、」
咄嗟に、支えようと手を伸ばした。けれどその倒れてくる長身よりもずっと小さいルネにそれができるはずもなく、自身もバランスを崩す。
結果的に、見知らぬその人の力の抜けた肢体を抱いたまま地面に座り込むと云う格好になってしまった。
ルネの肩口に額を預けたその顔は若く、一瞬こんな状態も忘れて見入ってしまうほど、整っていた。瞼を閉じた横顔が、とても綺麗だ。
どうすることもできずに狼狽えていると、腕の中の躯が身じろぐ。
薄く、髪と同じ銀の瞳を開いて、彼はぼんやりと唇を動かした。
「――おなかすいた…………」
6
「君は莫迦か……」
街外れの孤児院の院長、カミーユ・ローランは溜息を吐き、冷たくなりきれない瞳で眼前に座る長身を睨みつけた。
「そんなことないですよ」
彼はパンを齧りながら明るく返す。再び溜息。――面倒なのが来た、と。
少し前、ルネが真っ赤になって引き摺るように連れて来た青年――イヴェール。
裾の長い薄手の外套を始め、全身黒尽くめだ。
痩せていて、背が高い。
彼を初めて見た者がまず視線を向けるのは、その髪。銀をそのまま糸にしたかのような、金属質の輝きを持つ長髪。肌が透けるように白く、滑らかだ。繊細な鼻梁に切れ長の瞳。その白皙の美貌は線の細い体格と相俟って何処か女性的で、一見しただけでは性別の判断がつきかねない。そして、薄い唇には常に、柔らかな微笑を浮かべている。――だが、その姿をよく観察すると、全くと言っていいほど覇気や生命力が感じられない。だから、だろうか。彼の美貌には何処か地味な印象があった。
「本当に君は……少しは考えたらどうだ、この街までの距離を」
三日間、飲まず食わずで歩き続ければ倒れもするだろうに。
「やだなぁ。ちゃんと考えましたよ? 三日くらいなら何とかなるかなぁって」
「何とかならなかっただろう……」
「そうみたいですね」
まるで他人事のように微笑み、イヴェールは首を傾げる。その動作だけをみると、いっそ可愛らしいのだろうか。カミーユはもう麻痺してしまったが。
付き合いは、十年程。最後に顔を合わせたのがいつだったのか、記憶が定かではない位のだが、再会に対する感動は薄い。寧ろ皆無だ。もう少し違った形であれば多少の感慨もあったかもしれないが。
彼はこうして時折ふらりと館に立ち寄り、少し話し、そしてまた去ってゆく。そんなことがこの十年間繰り返されてきた。それでも会っていない期間がこれほど空いたのは初めてかもしれない。
「今まで何処へ?」
「んー、その辺をふらふらと。『帝國』とか」
「それはその辺じゃないと思うんだが……」
『帝國』と此処は地図の端と端に位置している。
イヴェールは、『朝の月』の協力者ではあるらしいが、詳しいことはよくは知らない。信頼しているかどうかは微妙なところだ。普段どうやって生活しているのかも知らなかった。外見だけ見れば二十代半ばの青年なのだが、時折ふと幼い笑みを浮かべることもあるし、達観した老人のような空気が滲み出ることもある。――奇妙で不可解な人物だった。
「いったい何の用があって来たんだい」
「いや、特に用はないんですけどね」
「――……何もないのならなぜ来た」
いともあっさり斬り捨てられて、カミーユは頬の端を歪める。
「ちょっと頼まれ事ですよ。この街で人と会う約束がありましてね、ついでにあなたの顔を見に立ち寄ったんですよ。もう随分と会っていないでしょう」
「そうか……」
ならば来なくてもよかったのに。寧ろ来て欲しくなかった。――彼のとの会話は、調子が狂う。
「それでは、そろそろ私はこれで」
「……それだけでいいのかい?」
イヴェールが食べたのは小さなパン一つとスープ一杯だけだ。三日間、もしかしたらそれ以上、何も食べていないというのに。一食分にするとしても、少なすぎる。
「十分ですよ」
イヴェールは微笑む。つまりはもう食べたくないということなのだろう。
「空腹は感じるんです。でも、食事は嫌いですから」
「――味がしない、か」
以前にちらりと聞いたことがあった。――何を食べても、何の味もしないのだ、と。あのときも、訊き返すといつもの微笑でそれ以上の追及は流されてしまった。ただ――血の味だけは判かりますよ、付け加えて微笑んでいた。
カミーユの呟きに向けられた微笑みは肯定とも、単にはぐらかされただけとも取れる。カミーユは肩を竦めた。イヴェールはそんなカミーユにはお構いなしに扉に手を掛ける。
「……ところで」
ふと、イヴェールは立ち止まった。
「私を此処まで連れてきた黒髪の子、誰です? 以前此処に来たときには見ませんでしたけど」
「ルネのことかい?」
「ルネ、ね。いつから此処で暮らしているんですか?」
「四年程前からだが……」
イヴェールは、奇妙に眼を細めた。何かを思い出しているようにも見える。
「それまでは、何処に? 何故あなたが彼女を?」
微笑んではいたが、その口調は詰問するような響きがあった。その奇妙な調子に、カミーユは答えることを拒否した。何故そんなことに答えなくちゃならない、と。何処か、穏やかでないものを感じたのだ。
イヴェールはそれを不快に思った様子もなく、すぐに柔らかい微笑をを唇に刷いて、踵を返した。扉の外へと出て行く彼に、カミーユは言った。
「イヴェール、君がどう云うつもりなのかは知らないけど……ルネを傷つけたら、許さないよ」
カミーユに、普段の穏やかな表情はなかった。唇を引き結んで、彼をじっと睨む。
だがイヴェールは、カミーユの眼差しをするりと交わすと、にっこりと、白い花が綻んだように微笑んだ。
「私が彼女を? 物理的な意味でなら、それは有り得ませんね」
ではそうでない意味でなら――だが彼は、此方が何かを言う前にぱたん、と扉を閉めてしまった。足音が、遠ざかる。
カミーユはいつだって、彼には何も聞かないことにしていた。
彼の姿が、出会ったときから全く変わっていないことも、決して眠らないことも、彼が一体『何』なのかも。彼と似た人を、よく知っていたから。けれど、ルネのことに関しては別だ。
――守らなくちゃいけない。
カミーユは、イヴェールが消えた扉の向こうをじっと睨んだままでいた。
7
喧騒がある。
人がいる。
街は、嫌い。
人々の中に、ざわめきの中に、『どうでもいい多数』の中に紛れてしまうことが。それから、珍しい黒髪と赤い瞳をじろじろと見られることが。
だから、沢山の人は嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。何処か冷めた気持ちで、思った。
――いろんなモノが嫌いだが、カミーユは好きだ。彼に出会ったのは四年前。ルネがあの館に来たときだ。
カミーユはルネに命令をしてくれる。だからルネは戦う。ルネが戦えなくなるまでカミーユはきっと命令してくれて、その間ルネは要らなくならない。だからルネはカミーユが大好き。
強い感情は綻びを繕う糸になる。理不尽でも、愚かでくだらなくて無意味でも、あればそれでいい。仮縫いでも服は服だ。
先に門の前で遭った人を思い出す。名前を呟いていたからカミーユの処へ連れて行った。――綺麗な顔だな、とだけ思った。少し驚かされたけれど、あの人は好きも嫌いもない。ただ、ほんの少し怨んでいた。再び外に出ようとしたとき、オリーヴと鉢合わせたのだ。怒っている、と云うよりも不機嫌そうに見えた彼女は半ば無理矢理ルネに買い物を押し付けた。買い物をすることそれ自体はカミーユのついでだからよかったのだが、オリーヴと話したくなかった。
買い物は、殆どが機械的な作業だ。買うべき物を書き出した紙をオリーヴには渡されていたから特に問題はないはずだった。だが滅多に街に出ないせいで何処にどの店があるのかがよく解らず、迷う。オリーヴが頼んだものは少しの日用品と食料――院での生活に必要なものだ。カミーユのインクだけならばすぐに終わったと思うのだが、全て買い終えるのに随分とかかった。
訪れた店のいくつかでは、店主から親しげに話しかけられた。或いは髪や瞳の色を見てもの珍しそうな顔をする人がいた。直接口に出す人もいた。どれも、どう返したらいいのか分からなくて大抵は何も言えずに足早に店を去って終わった。
――帰路につく頃には、館を出たときに比べてもう大分気温が下がっていた。
人通りの少ない細道、早く帰ろうと思い足早に歩を進めた。と、肩に軽い衝撃。人とぶつかった。視線を上げると、僅か上に女の顔があった。ラベンダーのような香水の匂い。
ルネはその姿を一瞥しただけですぐ、再び前を向き歩き出す。赤銅色の瞳と視線が絡み、女は不快そうに顔を顰めたが、特に引き留めようとはしなかった。謝ったりなどしないのはお互い様のようだ。
刹那の接触。
彼女の粘りつくような奇妙な視線がなぜか――ほんの少しだけ――気になり、だがそれはどうしようもなく瑣事だった。
8
子供とぶつかった。怒鳴りつけるほど機嫌は悪くはなかったので下の方にある顔を睨みつけるだけに留まる。
ヴェロニカ・バイラーは今年でもう二十七になる。錆びた鉄のような色の軽く波打つ長い髪を纏め上げ、普通に着れば硬い印象を与えるであろう服の胸元を肌蹴させていた。
生憎彼女は、相手に頭を下げてやるような腰の低さも度量の広さも持ち合わせていない。だがそれは相手も同じようだった。
――子供の癖に生意気。
目つきの悪い勝気そうな美人は舌打ちをした。
背の低い少女と一瞬、視線が絡みあう。――初めて見る瞳の色だった。月のような血の色。赤。擦れ違いざまにその瞳で少女は此方を一瞥しただけですぐに前を向く。
だがヴェロニカは。そのまま立ち止まり遠ざかる少女の細い背をじっと見る。
紅で塗り潰した唇を小さく動かし、無声音で呟いた。
――マ・ゾ・ク
ヴェロニカは人間族だ。だが、魔族は判かる。僅かな匂いの違い。『仕事』で培った勘が告げていた。
少女は角を曲がり、その姿が見えなくなる。記憶に鮮やかな月色の瞳と夜色の髪。
――どうして魔族かこんな街の中にいる?
ヴェロニカは虚空を睨みつけた。
いや、理由などは瑣事だ。殺したい。今すぐ追いかけていって殺したい。魔族なんてみんな死ねばいい。死んでしまえ。だが、辛うじて理性は情動を抑える。街中での戦闘行為は同じ人間族に被害が及ぶ可能性があるから、禁じられている。
歯痒さと憎悪と嫌悪と狂虐めいた喜びの入り混じった、それでも飽和にはいまだ遠い感情で、無意識のうちに懐の短剣にそっと触れた。
9
灰色の石畳。歩く度にかつ、かつ、と硬質な音がした。
ほんの少し、その音と感触を楽しみながら歩を進める。
少し開けた道に出る。此処はもう防護壁に大分近く、並んだ建物の殆どが空き家で、人通りが全くない。――館は、防護壁の際にある。この道を真っ直ぐ行き突き当たりを左に曲がった処をまた少し歩けば、孤児院だ。
街の中心近くのざわめきは此処までは届いて来ず、少し落ち着く。
不意に。
「待って」
声と、背後から腕を掴まれるのは同時。
引っ張られ、不意のことに抵抗する間もなく足を止められる。
最初に浮かんだのは純粋な疑問。
――今、此処に人がいた?
それは文字通り不意に。
まず視界に飛び込んだのは白と黒とそして銀。
視線を上げる。
「あ……」
見覚えのある姿だ。印象的な銀の髪、地味だけれど綺麗な顔、線の細い長身。
「さっきはどうも」
ルネの右腕を掴んだままにっこりと笑うその人は、先に門の前で遭った人だった。
「……何か、用?」
「用は特にないんですけどね」
ルネは大分上の方にある顔を視線だけで見上げた。
女性的で性別の判断に一瞬迷うような容貌の長身痩躯は、悪びれもせずに微笑む。
「なら、放して」
どうでもいい相手とほんの少しの敵意を以って会話する時は、あまり閊えずに話せる。害意があったときはもっと饒舌になれた。
「そうですねぇ……」
ルネは言葉に迷う。
――何だろう。さっきからじっと見つめていて、感じる奇妙な違和感。――微笑みを絶やさないのに、覇気や生命力の類が感じられない。霞か靄のような掴み処のないものを相手にしているような気がした。
そんなルネの懐疑には構わず、彼は言葉を紡ぐ。
「綺麗な瞳ですね。――生まれつき?」
「何……」
そんなこと、知らない。ルネに親はいないし、その両親のことを知っている人も誰もいない。気がついたらルネは一人だったから。そのときから瞳はこの色だ。珍しい色ではあったけれど、そんなこと考えたこともなかった。
彼の、どこか品定めするような眼つきも気に喰わない。き、と睨みつけた。
「あなたには関係ないわ。放して」
「放したら逃げるでしょう?」
何でもないことのように、楽しそうに言う。左手には買った物が詰まった紙袋を抱えているからその手を振り払うことができない。
苛立ちは募る。
だが相変わらず、眼の前の人物は自分のペースだ。
「ええと……あなたの名前は――ルネ……?」
カミーユから聞いたのだろうか。
ルネが答えずにいると勝手にその人は納得する。
「そう。ルネでいいんですね? 苗字とかあります?」
「……ローラン」
「ルネ・ローラン……ふぅん」
右手が自由になる。彼は、ルネの手首を掴んでいた手をひらひらと振り、満足げにふ、と微笑んだ。そしてその代わりに、一歩此方に近づく。ルネは反射的に後退った。
「あなた誰? 何なの?」
ふと、彼の表情が変わる。掴み処がなく覇気が感じられない先までの微笑ではなく、無邪気で、嬉しそうな――或いは、失くした玩具を見つけた子供のような微笑み。
「私は――」
身を屈めて、瞳の高さをルネに合わせる。額同士が触れそうな距離。
「私は、あなたに会いに来たんですよ」
泣く児をあやすような、そんな声音。――その言葉を咀嚼する前にふっと視界が白に覆われて、それから、頬に柔らかな感触。
「……?」
――頬に接吻られたのだと、頭で理解する前に、彼は身を起こす。そしてまた元の飄飄とした笑顔に戻り、反応できずに眼を瞬いているルネの髪を撫でその横を擦り抜け、街の中心の方へと去っていった。
だから。漸く我に還り真っ赤になったルネが、振り向いたときにはもう、彼の姿は、何処にもなかった。




