〈第一章〉病める薔薇-1
1
さして広くはない部屋だ。
卵色の壁紙、扉や壁の腰板は飴色に磨き上げられた樫材。天井に明かりはなく、壁際の小さな机に、灯の消されたランプがぽつんと置いてあった。机の他に置いてあるのは、クロゼットと寝台だけ。
西と北の側の出窓には、今は重いベルベットのカーテンが引かれている。
暗い室内、外の喧騒は微かにしか届かない。
水の底のように停滞した冷たい空気が沈黙していた。
ルネは、痩せた四肢を寝台に投げ出し、ぼんやりと天井を眺める。
精巧に造られた人形のようなその姿はじっと動かない。それでもよく見れば、白い咽喉が呼吸のために僅かに上下していた。
探るようにそろそろと、緩やかに息を吐く。
思考は纏まらず、しかし止まらない。溢れる水のように、ただ、止め処なく。
考えるのは昨日のこと。逃がしてしまった自分の失態。
あの時男をすぐに追いかけなかったのは、其処にいた少女が怪我をしているように見えたからだ。遠目では、どの程度の怪我か分からなかったし、あのまま放っておいてもいいのかどうか、迷った。
それは多分、本当に彼女が心配だったからじゃない。
『あの人』なら――魔族を殺すことよりも、怪我人を助けることを優先すると思ったから、
けれど、すぐに他の、街の住人が駆けつけた。そんなことなら、迷わないで男を追いかけていればよかったんじゃないかとか、先に男の方を攻撃していればとか、最初の一撃でどうして仕留められなかったのかとか。
悔恨は尽きない。どうすればよかったか、何をしなければよかったか、そんなものは考えるだけ思いつく。そのどれもが正しいような気がするし、みんな何処か違うような気がする。――いや、何にしろ原因は自身にある。だから、自虐のように唇を噛む。
命令の内容自体はいつも、被害の拡大を防ぐことで、魔族を『狩る』ことが第一の目的ではない。――あの場所に辿り着いたとき、既に誰かが殺されていた。けれどあの瞬間に殺されようとしていた少女は死んでいない。イミモノは殺した。魔族は街から去った。『狩り』と呼称されるその仕事が成功なのか失敗なのか判然とせず、そのこともまた苛立ちに似た不安を募らせる一因だった。――もしかしたら。死人が出た時点で失敗なのかもしれない。
この組織の目的は、人間族を護ることなのだから。
鬱鬱とした思考は、湧いては散り、消える側からまた生まれる。茫漠と、散漫と。鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい。そんな気持ちそのものが。
――その止め処ない感情は、不意に聴こえた扉を叩く音に遮られる。
「ルネ、起きてる?」
やや高圧的な、若い女性の声。――ルネが暮らしている、孤児院の職員の一人、オリーヴだ。
「……ルネってば」
言葉と共に彼女は再び扉を叩く。ルネは仕方なく、
「……いる」
とだけ、返した。抑揚に乏しい、か細い声。
「食事の時間」
「……それで」
分かりきったことであるが、反抗心のようなものからつい聞き返す。
「ちゃんと降りて来なさいよ」
食堂は一階、このルネの部屋は二階だ。だから『降りて来い』と。分かった、とは答えない。このやり取りも既に日常だ。
オリーヴが溜息を吐くのが聞こえる。
「……じゃ、それだけ。ちゃんと来てよ」
そして扉から離れる気配。
鬱陶しい。
以前はオリーヴも、あんなにしつこく食事へ呼びには来なかったのに。いつからだろう。確か、あいつがいなくなった頃――いや、関係ないか。
のろのろと起き上がる。食事に行くつもりはないが、今着ているのはアンダードレスだけで下着姿も同然だから、ちゃんと服を着ようと思う。あの人の処へ、行こう。
薄暗い部屋の中、クロゼットからワンピースを引っ張り出して身に着けながら、そうだ、と思いつく。
止め処なく、緩慢に散漫する思考なんていらない。欲しいのは、強い想いだ。だから、消えてしまわないように、あの人に認めてもらえるように強く、思う。
決めた。次は、必ず仕留める。
そう思えば、不快感も不安も焦燥も紛れて、温く埋もれずに『世界にいられる』ような気がした。
たとえそれが理不尽だとしても、確かに。
2
シャンテ=テイル北東。黒い森に囲まれたサリュ平原。その、北部。
なだらかな丘が続き、稜線に沿うように森への入り口が顔を覗かせている。緑に覆われた大地に吹く風は冷涼で、乾燥していた。
ぽつ、ぽつと点在するのは『街』。
広い平野の中、その数は少ない。
堅牢な防護壁に囲われた集落同士の間隔は広すぎて、一番高い鐘楼に登ってよく眼を凝らさなければ、互いの存在を確認できない程だ。地にはそれらを繋ぐ道もない。街と街の結びつきは弱く、それぞれが孤立していた。
その中の、森に一番近い街。丘の向こうはすぐ、生い繁る緑だ。中心には大きな噴水。人口はやや少なめだが昼間のうちは穏やかな喧騒に包まれている。
その街の外れに、館がある。三階建ての、普通の家族が住むには少し大きな館。――それは、親族がイミモノや魔族に襲われ、身寄りのなくなった子供たちを育てる孤児院だった。どの街にも、大抵一つはある施設。
――けれど、その孤児院には魔族が棲んでいた。『朝の月』に任命された数人の魔族が、人間に混じって生活していた。
この街を、周辺の街を、そして人間族を護り、魔族を――同族を『狩る』ために。
無論、人間は誰もそんなことは、知らない。
3
僅かに開いた扉からそっと中を眺める。
この館の中では玄関ホールに次いで大きな部屋だ。ダイニングテーブルが繋げて置かれている。奥には暖炉があるが、今の季節、火は焚いていない。もともとこの建物は昔金持ちが住んでいた館だったらしく、内装は孤児院にしては手が込んでいて、家具や、鉄の窓枠には植物を象った細かく豪奢な装飾が施されているが、其処で食事をしている子供たちにとっては特に気に留めるべきことではないらしい。
座っているのはまだ舌足らずに喋る幼子から、ルネより少し年上くらいまでの子供が十一人。オリーヴと、もう一人の大人が食事を配っている。彼女ら三人は此処で働いている職員だ。
「ねぇパンが足りないよ!」
「あ! スープ引っ繰り返っちゃった」
「ふぇ……」
「こらバカ! エミール、女の子を泣かせるな」
「ネリィが泣き虫なんだ!」
子供たちの甲高い声がなんだか怖くなって、ルネは気づかれないよう扉を閉じた。元より、オリーヴの言う通り食事に出ようとは思っていない。何となく、見てみただけだ。
あんな中で食事なんかできないと思う。孤児院の他の子供たちと言葉を交わしたことも殆どない。食堂の中の喧噪は、自分とは違う世界の出来事のような気がした。
この孤児院に紛れて暮らす『朝の月』は、ルネとオリーヴと、あと三人。オリーヴが何かと自分に構うのは、同じ魔族だからなのか、よく分からない。
ルネは、自分が一階に下りてきた理由を思い出し、扉に背を向けた。
「あ……」
「行かないのかい? せっかく降りて来たのに」
いつから其処にいたのか。回れ右をした瞬間に衝突し、抱きとめられた。
見上げる。
「カミーユ……」
あちこちに撥ねた猫毛と柔らかな笑顔が印象的な、三十代前半の背の高い男性が立っていた。カミーユ――ルネに、仕事を与えてくれる人。
憮然として問う。
「いつからいたの……」
「今来たんだよ。君を見かけたからね」
初めは見上げていたカミーユの顔から緩緩と視線を落とし、それに併せて驚いた顔も元の無表情に戻っていく。
カミーユはこの孤児院の院長だ。そして、それだけでなく『朝の月』の一員でもある。
この広大なサリュ平原を二分した、その領土の片割れ――北側に棲む狩人たちの統率や街の状況の把握など、情報整理や人事に関係する仕事を行っている人で、自身が狩りに行くことはない。彼はつまり、ルネに命令を下す人で、それから――ルネを拾ってくれた人。ルネの「ローラン」と云う苗字はカミーユとお揃いで、それが兄弟か親子のようで好きだった。近づくことができているのは、名前だけだけれど。
「またオリーヴが怒るよ? あの子も可哀想に」
カミーユは優しい。誰かを強く咎めたり、大声で譴責したりしている処を見たことがない。ルネを諫めるその声も、苦笑混じりだ。
「……いらない、から」
「ん?」
「食事、いらない、……から」
訊き返されて、ルネは怒ったように無理矢理言い返した。
カミーユは小さく溜息を漏らす。分かっている、カミーユはできるだけルネに『普通に』生活していて欲しいのだと云うことは。
「もう少し、ちゃんと食べないと……」
食事は、後から一人できちんと摂っている。あまり沢山は食べられないけれど。
と、不意にカミーユはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「……背、伸びないよ」
ルネは僅かに眉根を寄せ、拗ねたように唇を尖らせた。
確かに、ルネは背が低い。今は十四歳だが、あまり年齢通りに見られることはなく。大抵、二つは下と勘違いされる。そのことに損も得もないし、自分の外見の幼さは自覚しているが――言われるのは、何だか癪だ。
カミーユはぷぅと膨れたルネの頬をつつく。
「もう此処にきて四年、だし……たまには食事に出てみたらどうだい?」
もう此処にきて四年。カミーユと出会ってから四年が経った。
。けれど、
「それは――」
ルネは膨れ面をふと解いて、カミーユを見上げる。
「それは、命令?」
カミーユの笑みが濁る。――少しだけ。
――四年が経っても、私は何も変わらない。
「……私はね、ルネ。『狩り』以外で君に命令したりなんかしないよ」
一瞬の沈黙の後、カミーユが労わるように紡いだ言葉は、ルネの心の隅に小さく突き刺さるような罪悪感を与える。
カミーユを悲しくさせるのは、いけないことだ。彼は、ルネの大切な人だから。
「……ごめんなさい」
謝ると、ますますカミーユは困ったような顔になる。
どうすればいいのか分からなくて、ルネは眼を伏せた。長い睫毛が濃い影を創る。
「ルネ……あんまり気にしないで」
頭にカミーユの大きな手が乗せられ、艶やかな髪をそっと撫でる。視線だけを上向けると、カミーユはさっきまでの優しい笑みを唇に昇らせた。
安堵して――ルネはカミーユを訪ねようと思って階下に降りて来たこと、その用事を漸く思い出した。
「あの、カミーユ……昨日のこと…………」
そしてあの、憂鬱が固まりになったような、胸に痞える感覚を思い出す。
「ごめんなさい……侵入していた魔族、私、逃がした」
昨夜は、帰って来るとカミーユは魔族が街からは去ったことと被害の状況を確認したただけで、詳しい報告もなしに早く寝かされた。だから、カミーユにはまだ言っていない。――ルネが役に立てなかったこと。
カミーユの役に立ちたい。困らせてばかりだけれど、だからこそせめて、仕事ではきちんと役目を果たしたい。――不要になりたくないから。だから、失敗は何より恐い。
なのにルネは、失敗ばかり。それでも、カミーユは、
「大丈夫」
と。言い聴かせるようゆっくりと言う。
「君は、私の望むことはやってくれた。イミモノの殲滅と、街から魔族を追い払うこと。ね? 十分だよ」
そして、ルネの頭に掌を乗せてもう一度。
「大丈夫」
と。――それだけで。
ふ、と心が軽くなる。
カミーユが頭を撫でてくれた。嬉しくて、気恥ずかしくて、再び俯く。
あの止め処なく重苦しい気持ちが、緩やかに散逸する。
カミーユの望むことは、できたのだ。
――よかった、そう思った。
カミーユは心底安堵したようなルネの顔を観て微笑むと「そうだ」と、懐を探る。そして銀貨を一枚差し出す。
「買い物に行ってきてくれないかな。インクが切れてしまってね」
ルネはよく考えもせず、反射的に頷いた。
「それは……」
「ただの『お願い』だよ」
4
その孤児院の門前に、一つの人影があった。
錆ついた鉄格子に縋るように手を付き躯を支え、嘆息する。
此処に来るのは久し振りだ。館の外観は、以前とあまり変わってはいない。
彼は、元気だろうか――
そう思ったとき、ふと、視界が傾いだ。




