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〈第八章〉屍が夢を観る-2

   5

 地を這うように、駆ける。瓦礫の石を踏み割り、蹴り、立ち止まることなく、そいつへ向かって。

 風が、耳元で唸る。

 躯が軽い。痛みも感じない。――それを、疑問に思うことすらも。

 目の前には、そいつがある。

 その場所は、混乱に震えていた。セクトの拠点たる城が一瞬にして半壊し住人達は棲み処を追われ、瓦礫の中から発生したイミモノが動いているモノを次々と捕食してゆく。どうしていいのか分からず狼狽する者がほんの少し。爆発によって傷つき倒れ、イミモノの餌となる者がいる。一番多いのが、セクトを棄てて逃げ出す者と能力で以ってイミモノに立ち向かう者。彼らは、知っているのだろうか。このイミモノが、セクトの頭領から生まれたものであること。彼らが従うべき総帥が、もういないこと。

 イミモノを生んだ者――エポニーヌ・カスタニエ。ジルの母親。ジルを殺し、ジルに殺された、可哀想な人。ジルが殺したいと望んでいた人。それなのに、まだ、動いている生命体。

 醜いイミモノ。

 ジルが殺すはずだった。なのに、ジルはいない。どこにもいない。ジルだったものすらも、何処かへ行ってしまった。

 お前が奪った。ジルの言葉を奪った。

 ルネはまだ、聞いていない。ジルの言おうとしていた言葉。一年前のあの夜と同じように途切れてしまった言葉。それが何だったのか、想いを巡らすのも莫迦みたいだ。もう永遠に、知ることはないのだから。

 時計の針が止まるように、唐突に断絶されてしまった色んなことが、脳裡に浮かんだ。もう、繋がることはない。

『こいつ』が奪った。二度も、ルネからジルを奪った。

 だから、痛みを吐き出す。

 色んな感情が、揺れていた。

 憎しみ、悔い、悲しみ、恐れ、願い、呪い、疼き、喜ぶ。

 イミモノを見据える瞳の赤は、その渾ての色だ。

 邪魔だ。なぜ。死んでしまえ。返して。教えて。

 赦さない。

 前触れもなく、飛び跳ねた。

 そいつの前足が撓り、ルネを捉えようと撥ねる。跳躍し、靴の裏で受け止めた。その反動で、正面から真っ直ぐに飛び込む。

 まずは武器を得るために、一番柔らかな場所。左右非対称に散らばった幾つもの眼。

 爪を立てた五指を突き立て、虹彩に沿って抉りながら腕を沈めた。温かな、樹脂のようなぬめりを感じながら、肘まで差し込んだその手を眼球ごと掻き出すように引き抜く。その手に、血混じりの透明な体液が握られていた。思考する間も惜しく、だからそれは歪んだ楔のような形をしていた。

 そいつが、金属が軋んだような耳障りな咆哮を上げた。

 再び前足が襲ってくる。大きく後ろに飛び跳ね、その銀弧を躱した。それから横から回り込み、干からびたような色の脚を踏み台に勢いをつけ、落下の速度でそいつの腹に楔を突き立て、そのまま楔の刺さった状態で地に降り立つ。下手な裁縫で縫われた縫い包みのような傷跡がついた。吹き出す血は、捕らえてゆく。短刀ほどの大きさだった楔が、長剣のような長さになる。

 透明な体液と、血液と、細かな肉片が混じり奇妙な色をした、柄も柄も、刃すらない武器だけれど、ただこいつを傷つけるための道具としては十全。くるりと回して逆手に持つと、そいつの前足の付け根に突き立てた。節くれだったそれは堅く乾いていて、生き物を傷つけた感触がしなかった。甲殻類を潰したような音と共に楔の先端が沈み込み、だからルネは命じた。楔は唐突に数多の触手を細く伸ばし、その脚に絡みつく。それからそれらは一斉に暴れて、邪魔な前脚を複雑な軌跡でばらばらにした。木っ端のような堅さの肉片が弾ける。

 そのすぐ傍から生えている、前脚より幾らか長く太い後ろ脚も同じように切り離した。細かくなりきれなかった、木の幹のようなそれが転がった。

 片側の脚を失くしたそいつが吼える。バランスが悪くなったのか、巨体が不安定に揺れた。

 無様な格好。ルネは唇だけで嗤う。

 跳び撥ね、楔で突き刺し、切り裂き、内腑を引き摺り出す。皮膚の傷は落書きのような模様を描く。肉片は土に塗れ、そいつは血と涎と透明な体液を撒き散らし、それでも残る脚での捕食はやめない。

 周りで、ルネと同じように戦う者は、ほんの少し邪魔だった。ルネが、傷つけたいのに。だがそいつらを払う暇も惜しかったから放っておいた。ただ、傷つけたいという衝動があった。もっと沢山、もっと醜く。こいつが、ジルを奪った。だから、切り裂き、抉り、引きずり出して、叩き潰す。

 蜿蜒と、延延と、痛みを吐き出しながら傷みを刻み付けた。

 流れ出た血と体液は水溜まりのようになって、跳ね回るルネの足元で珠と散る。千切れた肉片が腕や脚に纏わり付いていた。気持ち悪い。そういえばあの時随分と簡単にジルの首は千切れたな。お前は大きいからそんな風にはいかないのね。いや、いかせない。ジルと同じようには逝かせない。

 イミモノの脚はもう前脚が一つだけ。猫の眼の大半は抉り出し、青鈍の皮膚と灰色の腹には奇妙な模様ができていた。臓物が溢れ、消化しきれていなかった人間の、溶けかかった躯の一部が幾らか、はみ出していた。

 ――死なないな。

 思う。もう切り裂く処が殆んどないくらい傷つけたけれど、こいつがどれだけの痛みを感じ、その生命はどれだけ削り取られているのか分からない。ふと、思い出し――巨大な半球体の頭頂部を見上げる。濁った白い染み。

 ――あそこにあの女がいる。

 その、立ち止まった隙を突かれた。最後の一つの前脚が振り上げられ、撓る。

 鉤爪に捕らえられる前に、大きく後ろへ飛び退こうとするが――不安定に積み重なった大小の石片に脚を掬われて、体勢を崩す。鉤爪の銀弧からは逃れたものの、躯のごと瓦礫に倒れ込んでしまった。躯の彼方此方を強打し、擦り剥く。舞い上がる砂埃に咳き込んだ。咳き込みながら――おかしいと思う。だって、痛みを感じない。

 あの人の血のせいだ。そんな気がした。

 痛みのないのは、きっと危険なことだ。酷い怪我をしたって、気にならない。もしかしたら、命に拘わるかもしれないのに。だけど――今は、これでよかった。この状態がいつまで続くか分からない。それなら、早く。今はただ、こいつを殺すこと、それだけでよかった。

 こいつの、天辺。其処に、ジルに殺されたエポニーヌがいる。

 勢いよく、撥条のように起き上がる。地に、確かに足を着け、イミモノへと駆けた。今し方ルネを襲ったその脚を踏み台にする。

 靴の裏で踏みつけ、その跳ね上がる反動で跳び、猫のようにしなやかに、そいつの頭頂部――半球体の天辺へと降り立った。

 足場の悪い、柔らかな皮膚の上。――其処に、彼女はいた。

 爆発のせいなのか、右足がなく、指が数本千切れていた。衣服は襤褸布のようになって絡み付いている。右肩が完全にイミモノの皮膚に埋まっていて、空疎な瞳が夜の空を映していた。

 本当に、ジルが殺したのだろうか。――爆発のせいで、死んでしまった、もしかしたら、そうなのかもしれない。

 ぼんやりと、彼女を見下ろした。

「……あなたね」

 エポニーヌ・カスタニエ。ジルの母親。

「あなたが、ジルを殺した」

 私と一緒だ、そう思った。

 ルネも、ジルの死を望んだ。一年前、彼にそう吐き棄てた。彼女は、ジルを愛していた。ジルは、ルネの大切な人だった。

 でも。

 あなたが愛していたジルは、あなたが殺したジルなのかしら。

 転倒したときに武器は手を離れてしまっていたから、彼女の抜け殻の上に、掌を翳す。其処には、潰れたような傷があった。自分でこれを創り出したのは、この宵のことだ。随分と前の出来事のような気がするけれど、傷口はちゃんとまだ、濡れた肉を晒していて。

 ルネは、自らの血液に、赦した。

 生々しくぬめりながらも流血だけはしていなかった傷口に、じわりと血が滲む。滲み、膨れ上がり、溢れ出たそれは雫となって滴り落ちることはせず、一筋の糸のように、揺らぐことなく真っ直ぐエポニーヌの胸の上に降りる。『それ』は擦過傷から彼女の躯へと侵入する。細かく枝分かれし彼女の血管と、繋がる。

 エポニーヌの躯は、右の肩でイミモノと繋がっていた。そこから、血液はイミモノの内部へも、侵入する。そいつの裡の体液と混ざり合い、ルネは、繋がる。

 解かる。その躯の細部まで行き渡る血管渾てが、解かる。その内部の体液は渾て、ルネと繋がっている。ルネの、ものだ。

 ――仇を取ったのだとは、言えない。ただ、痛みを吐き出しただけだ。

 だから。

 殺す。

 殺す。殺す。殺す。殺す時だ。

 虚ろに、そう思った。

 掌を、くい、と引く。

 命じた。

 そして。

 そいつの躯中の液体が渾て、弾けた。


   6

 爆煙のような緋色が弾けた。肉片が舞い上がり、一瞬の後、雨粒のような血珠と共に降り注ぐ。

 俯瞰していたイヴェールは、足場を失ったルネの、力の抜けた肢体を片手で抱き留めた。

 眼を閉じたその顔は血に塗れている。体中に血と肉片が纏わり付いていた。

 傷だらけだ。意識を失ったせいなのか、自らの意志で出血を止めていた傷口からは、じわじわと血が滲み始めていた。

 彼は眼を細めて、ルネを眺める。

 その唇から微かな吐息が零れた。切なげな、溜息。

 それから、ふっと微笑みを浮かべる。常とは違う、花が綻んだような、心からの笑みを。

「やっと……」

 夜色の髪。目蓋の下の、月色の瞳。それから、あの血の味――

「……やっと、会えた」

 そうして彼は、腕の中の少女を抱き締める。――愛しげに、そっと。

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