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〈第八章〉屍が夢を観る-1

   1

 何処にも行って欲しくなかった。

 ずっと昔に、エポニーヌを愛していると言った時の微笑のまま、側にいて欲しかった。

 誰のものでもない、エポニーヌのモノでいて欲しかった。

 エポニーヌはこんなに愛してるのに、あなたでないと駄目なのに、あなたは遠くへ行ってしまうから。

 だから、繋ぎ留めようと。

 そのためにどうすればいいのかは、何となく、知っていた。

 だから今、ジルはこの腕の中にいる。

 その瞳はもう、他の誰をも映すことはない。ずっと、私だけを見てくれる。

 迎えに来るって、約束したのにあなたは来ないから。そのままエポニーヌを忘れてしまうから、だから私が迎えに来た。

 ――もう、ずっと一緒にいられる。だって邪魔をするあいつはもういないし、エポニーヌはずっとジルを抱き締めていられるから。


   2

 何が起こったのかよく解からなかった。

「あぁ……」

 ひゅう、と咽喉の奥が鳴り、悲鳴に似た音を奏でる。

 首から上を失くしたジルの躯が、糸が切れた操り人形のようにくずおれる。それは、ルネに覆い被さるようにして倒れ込む。それと縺れるようにして、階段を数段転げ落ちる。床に、頭を強くぶつけた。

 起き上がることもしないで、そのまま暫くぼんやりと天井を眺めていた。

 ルネの上に折り重なった、ジルだったもの。

重い。

 服に染み込んでくる血が、まだ温かい。

 ――何なのだろう。

 それの下から這い出て、それを眺める。

 これは、何なのだろう。確かに、ついさっきまでジルだったのに。

 ふらふらと、視線を上に遣る。

 階段の傍で、オリーブ色の髪をした女性が、ジルの首を大切そうに抱き締めていた。

「ずっと、一緒」

 歌うように、彼女が呟く。彼女がきっと、ジルの母親だ。何となく、分かる。だって、よく似てる。

 嗚呼、赤いな、と思った。これ全部、ジルの血だ。床に広がった紅も、ルネの顔や手を染める朱も、黒い服にじっとりと染み込んでその色を隠す赫も、全部温かな、ジルの色だ。

「……何で?」

 ジルだったモノに触れて、ジルだったモノに呟く。

 ――ルネは、まだ何も聞いてないよ?

「……ルネ?」

 不意にに背後から声が聞こえた。

 振り向く。

 レミーが、丁度階段を上りきった姿勢で立っていた。蒼い顔をして震えている。

 こんな処に居たんだ。よかった、無事で。虚ろに、そう思った。

「それは、……ジル、なの……?」

 違う。これはジルじゃない。ジルだった『モノ』だ。

 だがレミーはルネが何かを言う前に、再び問う。

「ルネなの……? ルネ、が、」

 その後を続けられずに、レミーはぱくぱくと唇を動かした。

 そうか。此処からあの女は見えない。レミーには、『そう』見えるのかもしれない。そういえば、彼にはジルを殺したいなんて言ってたな。そう思ったら、何だか笑えた。ふふ、と吐息が漏れた。

「あ……」

 レミーの顔が歪む。同時に、彼の右腕が浮き上がったように見えた。

「駄目、出ないで!」

 レミーが叫び、その手を押さえる。同時に。五指の爪が勢いよく伸びたように、ルネには見えた。

 五つの長い、触手のような爪が、撓り、うねり、銀の螺旋を描く。それらは一様に、ルネめがけて。それは、あの女性の能力とよく似ていた。

「あああぁぁぁぁっ!」

 絶望によく似た声で、レミーが叫んだ。

 それまで茫と座り込んでいたルネは、はっと我に返り、反射的に石床を蹴り躯を捩る。前傾姿勢になりレミーの懐に入ることで長く伸びた触手を躱そうとするが、それでも暴れる爪の先が首筋を浅く切り裂き、一本が右肩を貫いた。

 血珠が舞い、焼けるような痛みが弾け、ルネは床に膝を着いた。触手と化した五つの爪はルネを切り裂くと、伸びたときと同じ速さで収縮し、剣が鞘に納まるように、元の爪の形に戻る。

 レミーはがたがたと震えながら、ルネの血の付着した爪先をぎゅっと握り締めた。怯えた小動物のような表情で、爪と、ルネとを交互に視る。

 ぱたぱたと血が滴る。

 どうしてそんなことになったのかがよく解からずに、ルネは血の滲む首筋にそっと手を遣った。意志で――『能力』で出血を止める。幸い此処は、あまり深くない。だが肩は触手が骨を砕いて貫通していて、右腕を少し動かすだけでも酷く痛かった。

 服の内側で腕を伝った血が、指先まで流れ、爪の先から滑り落ちる。液体の、滴る音がする。床に広がった血は、ジルのものだった。それと、今滴るルネの血が混ざり合う。全身、二人の血で塗れていた。生臭い。錆びた鉄に似た臭いがする。でもこれは、生き物の匂いだ。

 震えるレミーを眺めながら、ジルの頭を抱いて幸せそうに微笑んでる女性を眺めながら、ルネはその血に二本の指を浸した。――繋がった。だから今、この一面の血は、ルネのモノだ。

 す、とその指を眼の高さまで持ち上げる。赤黒い液体はルネの意志によって、床の血溜りから細長く伸びて髪の毛のように指に絡み付いていた。

「ジル……」

 傷が痛む。吐き気がする。ざわざわする。くらくらする。

 何をどうしたいわけでもなく。だけど、例えばルネを傷つけたレミーだとか。ジルを傷つけ、壊してしまったあの女性だとか。もう何も言ってくれない、横たわるジルだったモノだとか。

 床に広がる赤全部が、ざわりと蠢く。

 涙が一筋、頬の血を溶かした。

 だが。

 唐突に、腕を掴まれ強い力で引っ張られた。景色が反転する。微かに花のような薫りがした。視界を銀色が掠め、直後黒くなる。

「すみません。時間切れです」

 耳元で、囁かれた。

 抵抗する暇もなく――それ以前に、何がどうなっているのか理解する間もなく、風を感じた。硝子の嵌め込まれていない、あの窓から外に出たらしい。だが此処は大分高い場所にあった――直後、轟音が響いた。自然な空気の流れとは明らかに違う、強い風が吹き、砂埃が舞うのを肌で感じた。――火薬の臭いがする。


   2

 軽い振動を感じ、漸くルネを捕らえていた腕から開放された。

 森と砂地との境目の草の上に降ろされ、不意のことによろめいた躯を支えられる。

 がらがらと、何か堅いものが崩れ落ちる音。つい今し方までいた、城の方を見て、息を呑む。――巨大な、石作りのそれは、今まさに、半壊している最中だった。

 ルネ達が元々居たのはどの部分だかはよく判らないが、石壁が大きく崩れている。城の三分の一ほどが、一度に抉られたように、大小の瓦礫となって散らばっていた。城の形を保っている部分にも大きな亀裂が入っている。

 立ち昇る砂煙に混じるのは、火薬の臭い。

「城の彼方此方に、時間が来れば爆発する『装置』、仕掛けていたんですよね」

 呆れるくらい落ち着いた穏やかな声に、ルネは我に返って振り向いた。

「あ、私じゃないですよ?」

 その人は慌てたようにひらひらと空いている方の手を振った。もう片腕に、気を失ってしまったらしいレミーを抱えている。

 既知の、人だった。

 黒いコートに身を包んだ長身痩躯、金属めいた艶のある銀の長い髪――孤児院の門の前で会った、あの人だった。名前も知らないが、滅多に見ない端麗な容姿と、不可解で奇妙な言動はよく覚えている。

「あなた……」

「あ、覚えてました?」

 その人はにっこりと微笑むと、力の抜けたレミーの躯を木の根元に横たえた。

 どうやらルネは、レミーと共にこの青年に抱きかかえられてあの場を逃れたらしい。

「どうして……」

「役得ってやつですかね。仕掛けた本人から教えてもらったんですよ」

「誰が……?」

 後じさって彼から距離を置きながら、惰性で訊ねると、「あなたには関係のないことですよ」と、さらりと言われた。

「そう」

 何だか彼には調子が狂わされる。もう関わりたくないと思っていた。

 更に二、三歩離れると、ルネは彼に背を向け、瓦礫の山と、まだ尚あちらこちらで崩れている城を見た。

 あの時、そのままあの場所にいれば、この爆発に巻き込まれて死んでいたのだろう。彼がなぜ自分とレミーを助けたのか、判らないけれど、レミーが助かって安心した。あのまま彼を傷つけることもなくて、よかった。

 ジルと、その母親はあの中に埋もれてしまったのだろうか。

 一度に色んなことが起きすぎて、今は逆に冷静でいられた。首筋と肩の痛みも、頭をはっきりさせている。

 ――ジルは……。

 まだ何も――言いたかったことは言えていないのに。最後まで、聞いていなかったのに。

 そう思うと、酷い吐き気がした。胸の辺りに無理矢理穴を開けられたような――そんな風に、痛い。

 一年前、あの夜に、ルネの中のジルは死んだはずだった。そう願ったはずだった。――ルネの元から、ジルは居なくなってしまったあの時に。

 ジルはまた、居なくなってしまったんだ。

 ――気持ち悪い。

 首筋が痛むし、肩の傷も痛い。

 足元が定まらずに、ぐらつく躯を再び彼が支えた。

「なぜ?」

 顔を、見上げる。

 わけがわからない。どうしてこんな風になってしまったのだろう。

 つい先刻、この人はルネを助けた。彼が放っておいたら、あのまま終わっていたのに。

 色んな処が、傷む。

「なぜ……?」

 なのに、その人は。

 笑った。唇だけで、薄っすらと。

 それからゆっくりと腕を擡げ、瓦礫の山の、とある場所を指差す。

 導かれるように、ルネは其方を見る。

 華奢な長い指の指し示す場処。――其処の瓦礫が不自然に蠢き、盛り上がった。

 それから姿を現したものは。


   3

「あの女、死んじゃったのかな」

 高い木の枝に腰掛けて半壊した城を眺めていた、少年のような容貌の少女が呟いた。

 ケープから伸ばした手で薄茶がかった金色の、顔の半分を覆う長い前髪を弄りながらふん、と鼻を鳴らす。

「せっかく手伝ってやったのに」

 少し掠れた声は不自然なまでに大人びていたが、ぶらぶらと不規則に、スラックスに包まれた脚を揺らす様に幽かな幼さが滲む。

 唐突に、少女は勢いをつけて、三メートル近くあるであろう高さの枝から、猫のように軽々と飛び降りた。

「つまんないの」

「そうでもないよ」

 いつの間にか、木の根元に立っていた人影が、独白のように返す。

「何?」

「まだ生きてる」

「あ、そう」

 少女の言う『つまらない』事態ではないことを告げる人影に、しかし少女の態度はつれない。其方を見ようともしないで、森の奥へと足を向ける。

「何処行くの?」

「どっか」

 不機嫌そうに、少女はアーモンド形の瞳を細めた。

「……あいつが、いる」

 少女の声は心なしか震えていた。

 それを揶揄するように、人影――彼は小さく嗤った。

「そんなに怖いわけ?」

「……悪いかよ」

「理解できない」

「お前はあいつを知らないからさ!」

 立ち止まり、人影の方を向いて少女は大仰に手を広げてみせた。口元には自虐とも彼への嘲りともつかない、辛うじて笑みに見える歪みがあった。

「ぼくの行動に口を出すな! ……どっか行っちゃえよ」

 最後は拗ねたようにそっぽを向いて靴の先で小石を蹴飛ばす。

 大人びているのだか子供っぽいのだか分からない――彼は思った。これでも自分よりずっと年上のはずなのだが。

「その『あいつ』のことなんだけどさ――」

 彼は予てから準備していた話を切り出す。

 これを聞いたらきっとまた怒り出すだろうなと思いつつ。


   4

 あれは、何だろう。

 ――いや、イミモノだ。

 ぼんやりと、ルネは思った。

 イミモノなんていつも見慣れているはずなのに一瞬思考が鈍るほど、瓦礫から這い出てきたそいつは、おかしかった。

 そいつは、一瞬で成長した気がする。積み上がった石の塊から顔を覗かせたその時は、猫ほどの大きさだったそれが急速に膨らんで、ルネの背丈の二、三倍の大きさになったのを、確かに見た。

 酷く吐き気を催す姿だった。

 芋虫に似ていたが、体長が短すぎて巨大な半球体のようにしか見えない。柔らかそうな皮膚は青鈍色で、腹の部分だけが白に近い灰色だった。折れ曲がり節くれだった細い脚が二対、蜘蛛の脚のように腹部から生えていた。口は大きく、鮫のような細かい歯が無数に並んでいた。その上には、糸のような虹彩をした金色の眼が左右非対称に幾つも散らばっていた。

 脚は、殆んど意味を成していないのか、流動する腹で以って少しずつ蠕動している。

 半壊した城の周囲には、そのイミモノと同じように瓦礫の下から這い出してなんとか生き延びた者を始めとして、もともとこの城の住人だったであろう者達がちらほらと見えた。彼らも、突然現われたイミモノを眼にし、ある者は逃げ出し、ある者は傍に寄る。

 と、その巨大なイミモノは不意に。ただの飾りのように見えた前脚が勢いよく撓った。脚の先は三叉に分かれていて、大きな鉤爪が生えている。その前脚は、傍に居た二人の男を纏めて掴み、攫い、物凄い速さで口に放り込んだ。

 咀嚼しているのは遠目にもよく分かる。口からはみ出した片足がぶらぶらと揺れた。

 そいつはゆっくりと移動しながら――捕食の瞬間だけは素早く、周囲にある生きたモノを、食べてゆく。

 イミモノの特性だ。そいつらは、際限なく何でも食べる。

 知ってはいても――ルネは眉を顰めた。気分のいい光景ではない。イミモノ自体も酷く不快な姿なのだし。

 あんなに大きいものは初めて見た。あんなものが街まで降りて来たら。――殺しておいた方がいいのだろう。だけど、放っておけば、誰かが殺すだろうなとも思う。此処は、魔族の棲み処なのだから。

 さっき、あいつが一瞬で膨れ上がったのは何だったのだろうとは思う。だが特に追求する気にはならない。どうでもよかった。

 だが、傍らの青年は違ったらしい。

「あれ、何処から生まれたか分かります?」

 先刻の、唇だけの薄い笑みは消し、それまでの不可解に穏やかな微笑に戻して、彼はルネに問うた。

「どうだっていいわ」

「あれの、天辺の部分。……見えますか?」

 彼は答えを知っているらしく、ルネに指し示す。ルネは諦めて、彼の言う部分に眼を遣った。彼が何を知っているのか、何が目的で、今何をしたいのか――いちいち疑問に思う気にもならなくなってきた。

 その巨大なイミモノの頭頂部、半球の極の部分。青鈍色の中心に、白く濁った小さな染みがある。染み――あれは、人?

 柔らかそうな皮膚に、人間が埋まっていた。なぜ、あんな処に。

「エポニーヌ・カスタニエって女性はご存知です?」

 冷たい汗が滲む。

 エポニーヌ――女の名前。それから、『カスタニエ』。嗚呼、それならきっと、きっと――

「あなたの彼が何も話していないのでしたら、教えてあげましょうね。

 彼女にはイミモノの種――卵が植え付けられていたんですよ。もう、一年近く前のことですけどね、今になって孵化したようですよ」

「なぜあなたがそんなこと知ってるの」

「まあ偶然、ね」

 この人の口振りからすると、――ジルは、そのことを知っていた?

 それなら。母親を殺すことを望んでいたジル。だけどどうしても、直接刃を振り下ろすことができなかった。

 ――だから?

 なぜ彼がそんな物を持っていたのかは分からないけれど、これは、ジルがやったことなのか。

「そう……」

 今になってやっと、エポニーヌは死んだのだ。ジルが、殺した。

 だけど、あいつは動いている。

 まだ、動いている。

 ジルが殺したはずなのに動いているあいつはエポニーヌから生まれた。ジルを殺した女から。

「そうなの……」

 あいつがジルを殺した。

 ジルが殺すはずだったのに。あいつはジルを殺して、ジルに殺され、なのに、まだ、動いている。

 ――なら、私が殺してもいいよね?

 地面を踏みしめ、数歩、歩む。

 躯が痛い。血が足りなくて、ふわふわする。肩の痛みで、利き腕である右腕が思うように動かせない。

 だけど。

 行き場のない傷みを吐き出す場所は、其処にある。

 唇を噛み、また一歩、進む。

「待って」

 ――彼が、それを遮った。

「邪魔しないで」

「しませんよ」

 彼が、ふふふと笑った。

 ルネの前に回り込み、腕を掴む。もう片手で、ルネの血塗れの頬を捕らえた。ぞっとするほど冷たい、屍体のような温度。

 振り払いたいけれど、できない。蜘蛛の巣に捕らえられたような気分だった。ルネを凍りつかせる何かが、相変わらず微笑んだままの彼の銀の瞳に浮かんでいた。

 彼の視線が、首筋の傷を辿る。それから、彼はす、と屈み込む。

 前にも同じことがあったと一瞬思ったけれど、その時とは違った。

「何、」

 彼は首筋に顔を寄せる。

 唇が、首の付け根の浅い傷に触れた。

「離して」

 ぴりぴりと引き攣るような痛みが走る。彼は、傷口を嘗めていた。

 獣の身繕いのように、切り裂かれた皮膚を辿る。その唇も舌も、ルネに触れる手と同じくらい、冷たい。

 背筋を、冷たい何かが這う。凍りついたように、動けなかった。

 恐かった。

 彼が嘗めているのは、ルネの、血だ。

 躯を少しずつ喰われているような、そんな恐怖感。恐くて、動けなくて、彼を突き放せなかった。

 実際にはほんの僅かの間のことだっただろう。だがルネには、とてつもなく長い時間に感じられた。――漸く、彼が躯を離す。

 ルネの首筋から顔を上げた彼を見て、ルネは眼を見開いた。

 彼の瞳。ついさっきまで、確かに髪と同じ銀色をしていたはずなのに、今、その色は、――赤かった。ルネと同じ、月色をしていた。

「ああ……失礼」

 ルネの視線で、彼は思い出したように言うと、一度目蓋を閉じ、一瞬後、ゆっくりと開いた。すると、その色は元の銀に戻っている。

 其処に、さっきまでの微笑みはない。――いや、微笑んではいた。だがそれは、今までと違いすぎるくらいに艶めいている。それも、心底嬉しそうに。

 彼はちろりと舌を出して唇に着いた血を嘗め取って、嬉しそうに、言う。

「やっぱり、あなただ」

 全身からどっと汗が噴出す。漸く、ルネは呪縛から解けたように彼を睨みつけた。

「あなた……何なの……」

「イヴェール」

 彼は、笑う。ぞっとするくらいに艶を含んだ微笑だった。

「ただ、冬と、私はそう名付けられた」

 イヴェール――冬。名前じゃない、ただの言葉。

「そう云うことじゃなくて、あなたは、」

 イヴェールと名乗った彼はルネの唇に人差し指を置いて非難の声を封じると、その手を自身の口元に持って行き――歯を立てた。

 人差し指の腹を、噛み切る。

 そしてその指先を再び、呆気に取られているルネの口元に運んだ。血珠の鮮やかな白い指先が、唇にあてがわれる。

「お会いできて嬉しいです」

 唇の隙間から、液体が一滴、流れ込む。

「だから」

 どうしてか抗うことができずに、その一滴を嚥下する。

 それは確かに、彼の血液のはずだ。

 だけど、花のような薫りがした。蜜のように甘かった。

「お願い」

 それが咽喉を滑り落ちて、躯の奥へ入り込み――ルネの裡で、何かがざわめいた。

 すぅ、と周囲の音が消えていく。躯がふ、と軽くなり、波が引くように、痛みが消えていった。

 視界が鮮やかな色を持つ。何か――何かが、変わった。

 ざわざわする。何処かが、ざわざわと、揺れる。

 どうしてか、暗い空に月を探した。紅い、意地悪く笑った唇のような月が、あった。

 そして、その下には、それがあった。

 醜く膨れ上がったなりそこないの生き物が。

「殺して」

 耳元の甘い囁きに背を押されて、ルネは地を蹴った。

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