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〈第七章〉 死ねばいいとあなたに言った-2

  5

 レミー・カスタニエは、ルネを探して城内を歩き回っていた。

 侵入者であるルネが傍にいない今、レミーは隠れる必要がなかった。レミーが牢に軟禁されていたことを知っているのはあの番人の男と、助けてくれた名前も知らない青年だけだったからだ。そもそも番人も、レミーのことになど興味がないようだったから、誰かが通り過ぎても咎められることはなかった。

 最近見なかったガキがいる、あいつ死んだんじゃなかったっけ? ――擦れ違う者たちの視線はその程度だ。レミーが大人しくして彼らと関わりあいにならないようにしていれば、殴られることもない。

 だから、レミーはひたすらにルネを探していた。

 なんてことのない、偶然の出会いだ。ルネが特別に何かしてくれたわけでも、レミーが何かしてあげたわけでもない。それでも、牢から出られたところでどうしたらいいのか分からず、だからルネを追いかける。其処には、意味も目的もなかった。

 彼女はもう、ジルを見つけただろうか。だとしたら、会いたくないと思う。――ジルには、一年前のあの夜以来会っていない。あれからすぐにレミーは地下牢へ行ってしまったし、其処へ彼が訊ねてくることもなかったから。

 会いたくない――けれど、会わなくてはいけないのだろうな、と漠然と考える。

 ――そうか。それなら、ルネを見つけて、ジルに会った方がいいのかもしれない。

 レミーは、ジルに謝らなくてはならなかったから。そう思うと心は憂鬱だったが、一度会った方がいいのかも、と思うと心は其方へ傾いてゆく。――やっぱり、謝りたいな、と。

 意味のなかったレミーの歩みは、そんな気持ちと共に目的を見出す。

 ジルに謝りたい。謝らなきゃ。それから、ルネにも。

 一年前のあの夜、レミーはジルを傷つけた。多分、そのせいでルネも。それだけじゃない。父も、母も、それから知らない人間ひとを二人、傷つけた。――殺してしまった。

 レミーがやったんじゃない。だが――そうなってしまう元凶を創ったのは、浅はかなレミーの行動だ。

 それに、レミーの『能力』が、ジルをもっと、傷つけた。

 一年前の、あの夜に――。


*…*…*…*…*…*…*…*


 あの時。

 かりかりかりがりかりかりかりかりかりがりがり。

 そんな音がした。

 いつものように、居場所がなくて城内を彷徨っていたレミーは、一階の大広間へと下りていた。広間はそのまま玄関と繋がっていて、家具など何もなく、何の目的もない広い空間で、其処にはいつも誰もいなかったからだ。

 けれど、玄関の方でそんな音がして、レミーが行ってみると、城の、唯一の出入り口の前に立っていたのは母だった。

 母――エポニーヌはいつも、自室でぼんやりと外を見ているか、泣きじゃくっているかだったから、レミーが彼女とこんな処で出会うのは初めてだった。

 いつもは母の泣き顔を見たくないし、殴られるのも恐かったから彼女を見ると目の届かない処へ隠れるのがほとんど習慣だったが、かりかりかりがりかり――そんな音が気になって、レミーは恐る恐る、大きな扉の前に立ちすくむエポニーヌに近づいていった。

 何かを抉るような、削るような一定の間隔で繰り出される音は、エポニーヌの手元から流れていた。

 母は、頑丈で分厚い、木製の扉を引っ掻いていた。

 爪が殆んど剥がれている。堅いものを無理に削り、ほんの少し裂けて逆立つ木屑のせいでその両手は血塗れだ。

 扉を引っ掻くたびに皮膚が擦れ、扉よりも寧ろ此方が抉れて行く。

 何だかよく解からず、だがそれに僅かな恐怖を覚えて、レミーはその場を動けなかった。

 エポニーヌはまるで痛みなど感じていないように、虚ろな瞳で扉を引っ掻き続ける。

 その扉には、いつも鍵が掛かっていた。鍵を持っているのは父だけで、父の許しがないとその扉は開くことができない。他の人たちが時折黙って窓から出入りしているのは知っていたけれど。

 ふと、思い至ってレミーはおずおずと話しかけた。

「出たいの……?」

 ひたすら扉を引っ掻いていたエポニーヌは初めてレミーに気づき、その言葉に頷く。

 いつもの、泣いていないときの母。ぼんやりとして遠くを見つめている、何処かあどけない表情。

 こんな風に母がレミーに向かい合ってくれることは滅多になかった。いつも、レミーを見るとエポニーヌは泣いたり叩いたりするから。

 だから、嬉しくて――レミーはこの人のために何かしたいと思った。

「待ってて、母さん!」

 不思議そうに見送るエポニーヌの視線を背に、レミーは走り出した。向かうのは、父の部屋だ。

 扉の鍵を何処に仕舞ってあるのかは知っていた。あれがあれば、扉は開く。母さんはきっと、喜んでくれるはずだ。

 幸か不幸か、その部屋には父はいなかった。だから、レミーは鍵をこっそり取って――扉を、開いてしまった。

 あのときの、レミーが望んだ通りの母の嬉しそうな顔が、忘れられない。

 それが、純粋に嬉しかった。

 あんなことになるなんて、思わなかった。愚かだった。

 ――最低だ。

 

 エポニーヌが出て行ったことは、すぐに父の耳に知れることとなった。

 怒られるかと思ったが、父はエポニーヌが敷地の外へ行ってしまうのを看過したらしい番人の男を殴りこそしたが、レミーには何も言わなかった。その代わりのように、父はレミーに、エポニーヌを探すから着いて来いといった。

 それから。


 あの場所で、エポニーヌがあんな風になってしまうことを、父は分かっていたのだろうか。漸く見つけ出したエポニーヌの狂気を、父は薄く嗤いながら、ただ見ていた。

 レミーには、何があったのかよく解からない。解かったのは、エポニーヌがとても傷ついたということ、それだけ。

 父の傍には寄らずに、塀の影でじっとしていたレミーも、ただ見ているだけしかできなかった。

 そこで刃を振るう兄の姿。死んでゆく二人の人。兄の刃の軌跡。泣いているエポニーヌ。それから――父に斬りかかる、ジル。

 久し振りにみる、ずっと会いたかった兄の姿は、あんなにも血に塗れていた。

 父を、ジルは何度も何度も切りつけた。

 レミーにとって畏怖の対象だった父は、いとも容易く――塵のように、死んでしまった。

 いやだ、と思った。

 こわい、と思った。

 兄が、父を殺す姿なんて、見たくない。見ていられるはずがない。――だって、こんなの、おかしい。捻じ曲がっている。

 ジルと血の繋がりは半分だけだ。共に過ごした時間も、短い。けれど、兄は兄だった。ジルは、レミーの兄なのだ。

 父は、父親らしいことなど何もしてくれなかった。レミーにとって、彼は恐怖でしかない。無口で、冷酷で。それでも、彼はレミーの父親だった。

 愛されたいと願ってた。愛されずとも、愛していた。

 なのに。

 見たくない。やめて。誰かが誰かを殺す風景なんて。いやだ。

 そう、願ったから。

 だから――

「なんでっ……!」

 そう叫んだとき、『能力』は、弾けてしまった。

 レミーの、『能力』。不自由で、理不尽で、邪魔な、自衛のための唯一の手段。

 左手の指先が、変異する。先端は、牙のように硬く。触手のように伸びて、のたうち、ジルを、目指す。

 それは、レミーの意志なんかじゃない。

 レミーが望むか、望まないか、そんなものは関係ない。――誰かが誰かを殺しているところを見ると、その、殺している者へと、牙は伸び触手は襲い掛かる。自らを傷つける前に、その要因となるものを消してしまおうとする、無意識。

 それだけだ。くだらない変異。望まない『能力』。

 レミーが望んだって出てこない変異は、唐突に、ジルの右の顔に巻かれた包帯を切り裂き、血珠を弾けさせ、暫く蠢いてからレミーの元へと帰ってくる。

 ――厭だ……

 今、レミーはジルを殺そうとした。殺してしまうかもしれなかった。

 少なくとも今、傷つけた。

 こんな風に赤が広がっているのは、きっと、レミーがエポニーヌを外に出してしまったからだ。それでも、これ以上ジルを傷つけたくなかった。

 それから、レミーは、解け掛かった包帯のその下――ジルの、畸形を見てしまった。

 それは、歪んでいた。醜かった。例えば――イミモノに似ていた。そう、思ってしまった。

 ジルの瞳は失意に濡れていた。

 ――ごめんなさい。全部、僕の、せい。

 僕が悪かった。莫迦なことをした。母さんが喜んでくれればいいと思ったのに、泣かせてしまった。父さんが死んでしまった。ジルを傷つけてしまった。傷つけて、それに、侮蔑した。

 はっきりと、そう思ったわけではない。ただ、その自分の感情に言葉を当てはめるのは酷く難しかったから、何か、言葉を捜したらそれが一番似ていた。――醜いと、思ったのだ。

 ――ごめんなさい。

 堪らずに、ジルの温度を失くした瞳から逃げ出しながら、レミーは泣いた。

 ごめんなさい――そう、言いたかった。

 謝ってどうなるものでもない。それでも、伝えたかった。

 兄が好きだったから。ぶっきらぼうで、だけど優しかったジルが大好きだったから、だから気持ちを伝えたかった。 

 レミーが畏れているのは、ジルの拒絶だ。

 あのとき、ジルはレミーにサーベルを振り上げた。レミーは逃げ出したし、ジルは追いかけもしなかった。もしいま、ジルと再会したとき――彼に、今度こそ完全に拒絶されるのが恐い。先に拒絶したのはレミーなのに。ジルの変異を、蔑んでしまったのに。

 それでもレミーはジルが好きなのだと、そう伝えたいから、恐いけれど、謝りたいと思った。

 

   6

 緋色の歯車が軋み、歪み、捩れ、廻った。ただ、それだけだった。

 窓から吹き込んでくる風が今更冷たく感じられて、寒いな、と思った。

 胸の中に鉛が痞えているみたいだった。ジルと再会した時にも感じていた厭な気分だったが、ただ憎しみを振り翳していたその時とは温度が違っていた。

 心の奥が、冷えていく。

 ちらりと隣に腰掛けたジルの顔を盗み見る。と、ジルも同時に同じことをしたようで、視線が絡み合った。どんな顔をしたらいいのか解からなくて、ルネはすぐに目を伏せて顔を背ける。

 訥訥としていたジルの言葉が途切れ、しばらくは沈黙が流れていた。

 ルネは唇を僅かに開き――だがすぐに閉じる。

 何かを言いたかったけれど、何も言えなかった。

 ――何を言えばいいのだろう。

 それ以前に。何を思えばいいのだろう。

 解からなかった。

 心をひたひたと包んでゆく、わけの解からない感情。あの時から今まで積み上げてきた、そしてついさっき、突き崩されてばらばらになった、滾っていたはずの強い感情。それらを食むように、緩緩と。

 ジルは沢山傷付けて、傷付けられた。ルネも、傷付けられたし、彼を傷付けたモノのひとつだ。あの時、ルネがジルへと吐き棄てた言葉。憎悪に塗れた視線。死ねばいいと、そう願った。何も解からずに。当たり前だ。解かろうとしなかったのだから。それはきっと、ジルを傷付けた。

 きっと、ジルは『あの時』と同じだったのだろう。きっと、泣いていた。

 ただ、ほんの少し、遅すぎただけで。

『あの時』は、ジルを抱き締められたのにな。冷えた心で、そう思った。


*…*…*…*…*…*…*…*


 ただの夜の記憶。

 いつもと変わらない、狩り。

 獲物は魔族が一人。――それは、ジルの既知だった。

「いい様だな、なり損ない。俺たちの処から逃げ出したと思ったらこんな処にいるとはな!

『朝の月』なんてお前みたいな半端者にはぴったりの塒だよ。なり損ないはなり損ないらしく出来損なったイミモノでも追い回して異端者どもと群れていりゃあいいんだ」

 高らかな嘲笑。

 男の吐き出す言葉の意味は、あの頃のルネにはよく解からなかったし、興味もなかった。ただ、ジルを罵倒するその声が不愉快だった。

「まあどっちにしろお前みたいななり損ないは――がっ!?」

 手を出したのは、ルネだった。

 爪を僅かに立てて頬を殴った。肉が僅かに抉れ、血が滴る。

 ジルは、心を塗り潰してしまったように――彼に怒るでも蔑むでもなく、表情を変えることなくただじっと立っていた。だから。

「獲物は獲物らしく、黙って死ねばいいのよ」

 頭に血が昇っての行為だったが、後悔はしていない。

 ジルはこんな――こんな奴に意味不明に罵られていいような、そんな矮小な人間じゃない。

 地に伏した男の顔を靴の先で蹴飛ばす。

 どうしてこんなに苛立つのか、不思議な気がしたが――とにかく、男の嘲笑も罵声も、ジルのことをまるで屑でも見ているような目で見ていることも、酷く、不快だった。

「ふざけるなよ、ガキっ……っ!」

 男は腕を撥条のようにして跳ね上がると、短刀でルネを薙ぐ。が、とん、と後方に飛び退いただけで軽く躱した。

 彼は舌打ちをするとすぐにジルの方を向く。それから、その顔――ジルの、包帯を巻かれた顔の右半分に刃を振り下ろす。

 茫と俯瞰していたジルは、漸く「あ……」と。

 ルネは持っていた斧を瞬時に短刀に変える。だがそれは、男がジルの顔に刃を突き立てるのには間に合わなかった。

 きん、と硬い音がしたような気がした。同時にルネが肉薄し、短刀を男の脊髄へと突き刺し抉る。

 男は「ぐぇ」と小さく呻き、細かく痙攣するとそのまま、倒れる。

 ルネは放って置けば明らかに活動飽和が訪れる男を引き摺り倒し、放り出すと、ジルへ駆け寄る。

 ジルは、顔を――短刀が振り下ろされた場所を手で覆っていた。

 確かに、男の短刀が垂直に振り下ろされたはずだ。だが、ジルの押さえるその場所からは出血の気配がない。

 俯いた彼の顔を見上げる。

「怪我……」

「……っ!」

 ジルが息を呑んで顔を歪める。同時に、伸ばした手を乱暴に払われた。

 だから、ルネには見えてしまった。

 切り裂かれた包帯の、その下。

 ジルの素顔。いつも隠していた場所。

 其処には、傷一つついていない。――其処は。ジルの顔の、右の半分は。びっりと、蛇のようなものの鱗に覆われていた。

「あ……」

 驚いて、ルネは静止する。

 初めて眼にする、躯に現われた変異。それは――イミモノに、似ていた。

 ジルが一層顔を歪めた。

 それは、常のような不機嫌な顔ではなかった。

 其処に感じたのは――ジルの、……恐怖?

「ジル……?」

 囁くように呟く。

 ジルは、その表情のまま顔を背ける。

 その変異は、とても醜かった。『畸形』そう呼べるだろう。こんなの、初めて見た。醜くくて、それからイミモノに似ている。其処には短刀が振ってきたにも拘わらず、傷がなく、鈍く光っていた。それでも、ルネはみていた。ジルを。ジルの感情を。

 唇を噛んでいる。それは、怒りを堪えているようにも、嫌悪に耐えているようにも見えた。握り締めた掌が震えていた。

 ジルの傍へもっと近づく。今しがた腕を振り払われたのは、気にならなかった。

 彼の抱えているであろうその傷みなど、解からなかったから。だから、何も言えなかった。

 その代わりのように。

 ルネは、ジルの背に腕を回して――彼を、抱き締めた。

 ジルよりも背が低いから、爪先で立って彼の肩に顎を乗せて、骨ばった背をゆっくりと撫でた。

 耳元に唇を寄せて、小さく言う。

「……あたしが泣いてると、カミーユはいつも抱きしめてくれるわ。そうすると、少し安心する。……ジルも、そう?」

 涙など流してはいなかったけれど、ルネにはジルが泣いているような気がした。そんな風に見えた。

 何かを言いたくて、でもいつも以上に言葉は見つからなくて、だからカミーユがそうしてくれるように、彼を抱き締めた。人が泣いているときにどうすればいいのかなんて、これしか知らなくて。

 布越しに伝わる二人の体温が溶け合う頃、漸く。

「泣いてねぇよ……」

 ジルは小さく呟いてぷいとそっぽを向いた。まるで、拗ねた子供みたいに。


*…*…*…*…*…*…*…*


 状況は似ていて、だけど全然違って。

『あの時』と同じようになんてできなかった。だけど。

 ジルに吐き棄てた、死ねばいいと云う言葉と、彼を憎んで過ごした今日までの時間。それが、莫迦みたいで悔しい。あの時確かにジルを愛しいと思ったから。だから。

 また会えて、よかったと思った。ジルを憎んだままにならなくて、よかった。思い出せて、よかった。

 ジルの言葉が聞けて、嬉しかった。

 後悔なんて、幾らでもある。だけど、せっかく会えたのに、あの時吐き棄てた言葉のままで終わりたくない。

「……ジル」

 黙り込んでしまっていたジルの名を呼ぶ。顔を見ていたくて、立ち上がって階段を少し下りた。

 ジルは不思議そうにルネを見る。

 せっかく眼の高さを合わせたのに、つられたようにジルも立ち上がってしまった。

 何を言ったらいいのかは、解からない。だけど、言いたいことくらい、沢山ある。ジルは一年前のあの夜のことも、ジルのことも、言ってくれた。嬉しかった。だから、ルネも言おうと思う。言わなきゃ、きっと解からない。

「……あなたのこと、聞けてよかった。あの時のこと、話してくれて嬉しかった。……会えてよかった」

 今日じゃなくて、もっとずっと前。ジルに会えてよかったと思う。今はもう、戻れないけれど、こんなに色んな気持ちをくれた。

「俺は……お前を傷つけた」

「だけどあなたも傷ついたわ」

「殺そうとした」

「あたしもよ」

 顔を背けたジルの、ルネから逃げるような言葉。本当に、言わなきゃ解からない。

 優しい人だと思った。可哀想だと思った。不器用で、愛しいと思った。

 きっとジルは、自分を含めた色んなモノが赦せない。赦せなくて、色んなモノを傷つける。そうやって傷つける自分が、また赦せなくなるのだろう。

 だから。

 聞いて欲しかった。

 ――あなたがいてよかった、って。


   7

 一年前のあの時、沢山のものを壊して、傷付けた。もう壊れてしまったのだから、そう思って自ら踏み躙った。なのにルネは、ジルを見る。捻ていて、いつも怒ったり拗ねたり、伏目がちで。けれど時折見せる、無垢で真っ直ぐなルネの瞳が、ジルは苦手で、同じくらい好きだった。ルネは、覚えているだろうか。ずっと前の、あの夜のことを。

『泣いているときに抱き締めてもらうと、安心する』のだと、あの時ルネは言った。確かにそうだと思った。あの時、泣いてなどいなかったけれど、ルネの言葉に心臓をつかまれたような気分になった。わけの解からない、本当に泣いてしまいたいような気持ちになった。あの時背に回されたルネの細い手が、不思議で。誰かに抱き締められたのは、あの時一度きりだ。色々なものを踏み躙っても、棄てられない記憶。

 あの時から――もしかすると、その前から。ずっと、抱えてきた気持ち。言葉。

 ずっと、言ってしまいたかったけれど、できなくて。いつか、そう思っていた。だが、『いつか』なんてずっと訪れない。だったら。

 今二人の立つ場所は、違う。

 一年経った今、偶然会えた。会えて、よかった。ジルの言葉を、ルネは聞いてくれた。まだ、言いたい言葉がひとつだけ残っている。

 その先なんて、望んではいない。ただ、伝えたいだけ。知って欲しいだけだ。ルネを傷つけたジルに、そんな資格はないだろうけれど、でも、このままで終わりにしたくはない。

 ――そんな気持ちを、ルネは、赦してくれるだろうか。


   8

 かちゃりと、左手に巻き付けて持っていた懐中時計の金鎖を鳴らして、イヴェールはその文字盤を眼の高さに掲げた。――もう少し。

 ルネともう一人、オリーブ色の髪の少年の声がぎりぎり聞こえるか聞こえないかの、できるだけ離れた場処の壁に、彼は寄りかかっていた。二人きりだからこそできるのであろう彼らの会話を盗み聞いているようであまり気分はよくないが、『あいつら』が近くにいるのだと判った今、ルネから目を離してはいられない。だから、イヴェールは辛うじてその存在を捕らえていられる場処で佇んでいた。

 それに。仕事を手伝った人間族の女性から教えてもらった時刻までもう少し。『そうすべき時』まではルネの問題に手を出す気はなかったが、さすがにこれはそうしてもいられない。

 ――にしても……大胆なことをする。

 イヴェールは壁伝いにずるずるとしゃがみこんで、軽く息を吐いた。

 さすが『帝國』の住人、と言うべきか。名前は確か、ヴェロニカ・バイラーと言ったっけ。『仕事』と称してはいたが、随分と私怨が混じっているようだった。この城まで送り届けた時点で手は切れたのだが、彼女は、上手くできたのだろうか。

 ――ま、どうでもいいか。

 ほんの少し気になりはするが、本当にイヴェールが大切なのは、ルネだけだ。


*…*…*…*…*…*…*…*


 ――行かないで。

 彷徨いながら、エポニーヌは思った。

 何処にも行かないで。私ももう何処にも行かないから、だからずっと、エポニーヌの傍にいて。行かないで――いかせない。

 ずっと一緒に。誰にも渡さない。今度こそ。

 

   9

「お前さ……もう、帰った方がいいよ。……カミーユが心配する」

 いつもの薄い笑みでも、不貞腐れたような顰め面でもなく、何処か何かが吹っ切れたような顔でジルは言った。

 ルネは、無言で頷く。 

 結局、それがいいと思った。そうすより他になかった。

 また会えたのは、一晩だけの偶然で、ルネは帰らなければいけない。カミーユの元を離れることなど、考えられないから。

「あなたは……ずっと此処にいるの?」

「まさか。出て行くに決まってんだろ……もうすぐな」

 ジルが肩を竦める。ルネは「そう」と呟いた。

「……会えて、よかった」

 何回目かの言葉だけど、また言った。ジルは少し笑みを浮かべて、「俺も」と返した。同じだ、と思って、少し嬉しくなった。

 もう、会うこともないかもしれない。だけど、ジルがもう少し、楽に呼吸ができるような世界に行ければいいと思う。

 本当は、もっとずっと一緒に居たかった。そうしたら、きっとちゃんと『友達』になれていた気がする。あの時、ジルを憎んだ。そうやって、一年過ごした。傷みが怖かったから、そんな感情を無理矢理作って。だけどやっぱりジルが好きだ。だから。

 ――言わなきゃ。

 初めて出会った時、実年齢より小さく見えると言われて腹が立ったこととか。足を怪我したときにおぶってくれた、痩せた背の温もりとか。熱を出した日に、気遣ってくれたこととか。本当に、嬉しかったのだ。――初めてだった。こんな風に誰かと過ごしたのは、初めてだった。最初は、厭な人だと思ったのに、なのにジルは優しかったから。ルネはそれを、返せていたのだろうか。判らない。だから今、言いたいのだ。言葉にしないと、きっと解からないから。

「あの」

「なあ」

 思い切って顔を上げたら、二人の声が重なった。ルネは決まり悪そうに、ジルは苦笑して、黙る。ほんの少しの沈黙が流れ、それからジルが先に口を開いた。

「あのさ、ずっと言いたかったこと、あるんだよ」

 ルネはジルの顔を見ているのに、ジルはふいと視線を逸らしている。

「あの時もさ、言いかけて言えなかった。……今更って、思えて」

 覚えている。雨の中、聞こえなかったジルの言葉。ルネが意識を失ったから聞こえなかったのだと思っていたか、そうではなかったのだろうか。

「俺はさ……」

 其処でジルは、言葉を捜すように一度唇を閉じた。視線が、ふらふらと彷徨う。

 あの時に聞けなかった言葉。聞きたかった言葉。それが、何なのかは分からなかった。だから、ジルの言葉を聞いたら、そうしたら、言おう。ルネは、ジルが再び口を開くのを待った。

 その時、ジルの背後に、白い影が揺れた。

 それからすぐに。

「……俺は、」

 やっとまた、言ってくれたのに。――ジルの咽喉から、何かが生えた。

「……?」

 ジルが、わけが分からないといった表情で、咽喉元に手を伸ばす。

 彼の背後には、同じオリーブ色の髪をした女性が立っていた。――嬉しそうに。ルネが気付かなかったのは、彼女がたった今角を曲がって此処に現われたからだ。

「ジル」

 ジルの咽喉に突き刺さった何かは、嬉しそうに名前を呼んで微笑む彼女の指先から伸びていた。

 ――何?

「な……、ん」

 掠れ声で何かを言おうとしたジルが、ごぼりと赤黒い何かを吐く。

 ――わけが、分からない。

「ジ、ル……?」

 分からなくて、彼に手を伸ばす。不思議そうな顔をしているジルに手が届く前に、彼の咽喉元に刺さった何かが――女性の、長く伸びて触手のようになった爪が、うねって、ジルの、首が、弾き飛ばされるように、千切れて、堕ちた。

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