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〈第七章〉 死ねばいいとあなたに言った-1

   1

 その日の朝は、しごく普通に始まり、けれどいつもと少しだけ違った。

 それさえなければ、或いはこんなことにはならなかったかもしれないと、今でもときどきルネはそう思う。

 ――背骨の辺りが軋むように痛み、胎児のように体を丸めて眠っていたルネは眼を開いた。

 いつも、夢を見る。夢の終わりと共に訪れる目覚めは気持ちのよいものではない。特に、今日は。

 わけの解からない悪夢のせいだろうか、体の節々が痛み、重かった。ゆっくりと身を起こすと頭に纏わりつくような痛みが感じられた。空気がゼリーにでもなってしまったような感覚。一瞬だけぐらりと視界が傾き、すぐに戻る。

 ――だるい。

 空気を入れ替えようと窓を開く。カーテンを開けた瞬間差し込む朝日に一瞬眼が眩んだ。昨日の曇天が嘘のように、空は青く、開いた窓から流れ込む空気は凛とした冷気に満ちている。――途端、全身に寒気が走り、ルネは思わず窓を閉じた。

 髪を梳き、寝間着代わりのアンダードレスの上から黒のワンピースを被り、まだ寒かったからカーディガンを羽織ると、ルネは扉の取っ手に手を掛けた。

 ここ最近――ほんの数週間、それは習慣になりつつあった。

 朝食はきちんと食べている。オリーヴが食事に呼びに来ると、ちゃんと応える。

 ジルが来て、少し変わったと思う。最初は、ジルと二人で食事を取るのはとても厭だった。けれど孤児院に慣れ、子供たちに妙に懐かれたジルがネリィにねだられ、みんなでの食事に顔を出すようになって、ルネも、つられるように。自分でも、どうしてそうするのかよく解からない。ただ、何となく、だ。

 けれど今日は食欲がない。止めようかな、と思ったが――結局、扉を開き、外に出た。

 其処によく見知った姿が眼に飛び込む。偶然ルネの部屋の前を横切ったジルと鉢合わせてしまった。

 ポケットに両手を突っ込んだジルは、いつも通りの少し不機嫌そうな表情で立ち止まる。

「あ……」

 ルネの小さな声に、ジルは

「ん」

 と、答える。――二人の間では、これが殆んど挨拶のようなものだった。何の理由もないのだが、数秒間だけ睨み合うように視線がぶつかる。ジルはいつも目つきが悪いし、ルネは最近ジルと顔を合わせると彼の不機嫌が移ったような心持ちになり、つい、彼を睨みつけてしまう。そのまま一瞬時が止まったような気がしたが、すぐにどちらともなくぷいと視線を逸らす。

 向かう場所は同じだから、自然二人は並ぶような形になってしまう。ただし、人二人分の隙間ができていたが。

 互いに無言のまま、階段を下りる。――と、不意に、起き掛けに感じた眩暈が再び襲った。

 ぐらりと世界が傾ぎ、一瞬体中の力が抜ける。

 階段を転がり落ちそうになったルネを片腕でジルが支えた。

 ルネに触れ、その体温に気づいたのだろうか、ジルは眉根を寄せる。

「――お前、熱あるんじゃねぇの?」

「……ない」

 あるかないかよく解からなかったが、取敢えず否定する。だがジルは「嘘つけ」と、ルネの額に手を遣る。

 ジルの手は、ひんやりとしている。寒いのに、熱くて、だからその冷たさは心地よかった。

「やっぱりあるじゃねぇか」

 茫とする頭ではうまく反論の言葉が見つからない。――ジルの言っていることは本当な気もするから、そもそも反論も何もないのだが。

「……ほっといて」

 漸くそれだけを言うと、ルネはジルから離れた。

「なーに? 朝から痴話喧嘩?」

「なっ……」

 通りがかったオリーヴが、ジルの方を見てにっと笑う。

「違ぇよ! こいつ! 熱!」

 なぜかジルは不意に怒ったようになって、文字通りルネをオリーヴへと押し付けるとふいと踵を返し、足音を立てて階段を上り自室の方へと行ってしまった。もともと彼が向かおうとしていたのは下の食堂のはずだったのに。

  

*…*…*…*…*…*…*…*


 目が醒めて、今がもう真夜中だと理解するのに数秒を要した。カーテンの隙間から漏れる僅かな月明りだけが頼りの、視界。静かだった。――それなのに意識が覚醒したのは、その違和感のせいだった。

 もう慣れた、幽かな空気の変動。或いはその前触れ、もしくは余韻。

 起き上がり、カーテンを急いで払って窓の外を見る。――運がよかったのか、悪かったのか。ジルが地を蹴り塀を伝い屋根と屋根との間を飛ぶように跳んで、街の外へと駆けて行ったのはちょうどそのときだった。

 何があったのかなど、すぐに判る。ルネは愕然として、ジルの背が見えなくなるよりも前に窓辺を離れ、真夜中であることも気に留めず勢いよく扉を開き、階下のカミーユの部屋へと駆けて行く。眩暈、頭痛、寒気――そんなもの、気にならない。ただ、湧き上がった強い感情に突き動かされた。

「――カミーユ……!」

 カミーユが起きていることは判っているから、大きな音が立つことにも構わず叩きつけるように扉を開けた。

 案の定、カミーユの部屋には明かりが灯っていた。彼自身も今、部屋に戻ったところなのだろう。大机に向かおうとしている姿勢のまま部屋の中央近くで、駆け込んできたルネの方を振り返った。

「ルネ……?」

 カミーユの声も聞かず、ルネは、駆け寄って彼の服を掴む。

「何で……っ、ですか……?」

 顔を歪めて、睨むようにカミーユを見上げるその瞳の色は、しかし非難ではない。

 どうして、という思い。

 ジルが出て行った。――それは、『狩り』以外の何でもない。ジルは、一人で狩りへ行ったのだ。――そう、一人で。

 ジルとルネは、一緒に仕事をしていたはずだ。そもそもジルの監視のためにルネは彼と行動を共にさせられたのだから。もう彼が来て一年近く経っていたけれど、その間ずっと、狩りはいつも二人だった。なのに、なぜジルは一人で出て行った?

 噛み付くようなルネの勢いに驚いた表情を見せつつも、たったそれだけの言葉で言いたいことは理解したのか、カミーユは困ったように、ルネに伝えた。

「ルネ……君の具合がよくないようだから、ジルが一人で行ってくれたんだよ。君はまだ……」

「あたしは行けます!」

 カミーユの言葉を最後まで聞かず、ルネは殆んど叫ぶように――カミーユを非難するように強く、言った。

 様々な温度の気持ちが渦巻いて、ルネは苛立つ。その複雑な気持ちは、単純な感情だ。つまりは、嫉妬。

『狩り』は、手段だ。ルネの、大切なものだ。

 ルネはいつだって、カミーユに望まれていたい。そのためには、狩りが必要だった。狩りに行けば、ルネは彼のものでいられる。いらなくならない。――繋がっていられる。

それは、『狩り』だけなのだ。

 なのに、ジルは一人で行ってしまった。いつも、二人で仕事をしていた。こんな夜に電話がなって、カミーユが命令して、狩りへ行くのはジルとルネ、二人だった。なのに、ルネの大切な狩りに行くのは、なぜ、ジル一人なの? そんな、彼に対する嫉妬。ルネは狩りへ行きたい。行かなきゃ、ならない。なのにそれを奪った、ジルへの嫉妬。不安、怒り、焦燥、嫌悪、孤独――そんな気持ち全てが、嫉妬という感情。

 それは、ジルがルネのためにしてくれた気遣いだった。――けれど、ルネはそれを踏み躙った。

 何が手段で何が目的だったのか、もう忘れてしまうくらいに、強い感情。狩りへ行きたい。行きたい。行きたい。行かなきゃ。

 熱は、大分下がっていた。

 眩暈がする。だがそれは、沢山眠ってしまったからだ。

 頭痛がする。だが、それだけだ。ルネは、走れる殴れる潰せる殺せる。

「命令して、カミーユ様っ……あたしは行ける! 狩りに行ける! だから、命令してください……!」

 ルネにとって、それが全てなのに。カミーユの命令で狩りへ行くこと――それしか、ないのに。

 ――どうして? 分かっているでしょう?

 カミーユの服を、縋るように掴んでいた。

「お願い……」

 不安だから。カミーユの命令がないと、とても心細くて、恐いから。なのにカミーユはジルだけに命じた。――ジル、だけに。それが、恐い。

 お願い――ルネに命令をして。いらなくなりたくないの。望まれていたいの。カミーユの道具でありたいの。

 だから、狩りに、行きたい。

 縋りつくように、抱きつくように、彼の胸に顔を埋めたから、ルネは気づかなかった。カミーユの、とても哀しそうな顔に。それでも――否、それだからこそ、カミーユは、ルネの言葉に――頷いた。


 そしてその選択を、カミーユは後悔することになる。

 それは、ジルがいなくなってしまった夜。

 ルネはジルよりも遅れて狩りへ行った。だから、其処で何があったのかなど、何も解からなかったから――漸く追いついたはずだったルネを切り裂いたジルを、憎んだ夜。



  2

「――……ジル」

 長い長い沈黙の後、ルネは低く言った。

「何?」

 呼びかけに、意味はなかった。何となく、彼の名前を呼ばずにはいられなかった。

 これからどうしよう、と思う。このまま帰りたくなんてない。何のために追ってきたのか――ジルを、殺したいと思ったからだ。けれど、違う。そんなのじゃない。ルネは、どうしたい? 分からない。

 莫迦な考えだと判りはするけれど――あの頃に、戻りたい。

 ルネがジルの死を願ったことも、ジルがルネを傷つけたことも、何もかもなかったことにしてしまいたかった。――けれど、ジルがそれでいいはずはない。彼は、ルネと共に過ごした時間の外に、その闇を抱えているのだから。だから、ルネの気持ちはとても自分勝手。

 判っているのに――ジルと、離れたくない。

 ジルはもう、あの場所に戻れない。ルネは、戻らなくてはいけない。

 ずっと抱えてきた憎しみがあれば、今此処で迷うことなんてなかった。けれど、ジルへの温もる想いはとても大切なものだから。

 ジルは――どうするのだろう。あのとき何があったのか、ジルから聞きたい。どうして、ルネを傷つけたのか。けれど、聞きたくない。今、ジルの隣にいる――それが、消えてしまいそうだったから。

「ジルは……どうして此処にいるの? これから、どうするの? 

 ――あなたは……何を望むの……?」

そんなことを訊きながら、時間なんて止まってしまえばいいのにと、思った。



  3

 エポニーヌ・カスタニエはふらふらと廊下を彷徨い歩きながら、探していた。

 思い出してしまった。忌まわしい記憶。最低な記憶。エポニーヌを傷つけた、全て。

 ――うそつき。

 嘘つき。あの人は嘘を吐いた。

 エポニーヌと約束したのに。絶対に迎えに来るって約束したのに。

 あの人は、約束してくれた。だから、エポニーヌは待った。あの人との約束があったから、エポニーヌは生きていられた。あいつに殴られたって犯されたって閉じ込められたって踏み躙られたって、きっとあの人は迎えに来てくれる、と。

 あの人と同じ名前を持つ、あの子がいたのが支えだった。あの子がいれば、あの人との約束は嘘ではないと思える。だってあの子は、エポニーヌの傍にあの人がいた証なのだから。同じ名前をつけたのは、繋がっていたかったからだ。

 あいつは、エポニーヌをとてもとても愛した。だから、エポニーヌが誰よりも愛したあの人から、引き剥がした。だから、エポニーヌはあいつを憎み、ジルを愛した。あの人はずっとずっと、来なかった。でも、待っていた。あいつが居るから、あの人は来ることができないのだと思っていた。

あの人がいつまで経っても来なくても、それでも、ジルがいたから。――だから、信じていたのに。

 あのとき――あの人はエポニーヌを裏切った。傷つけた。踏み躙った。

 思い出してしまった。

 きっと、解かりたくなかったから。あの人を信じたくなかったから。それでも、信じていたかったから。――とてもとても、哀しかったから。だからずっと、忘れていた。

 あいつが死んだ夜、あの人も死んでしまったこと。あの人が、エポニーヌのことなどもうどうでもよくなってしまっていたこと。

 あの夜、エポニーヌを閉じ込めていた城の扉は、開いた。だから、エポニーヌは逃げて、走った。あいつに閉じ込められる前、あの人と共にいた場所へ、と。

 追いかけて、追いついたあいつは絶望を見せ付けられたエポニーヌを見て、嗤ったと思う。

 其処には、あの人がいた。あの人が笑っていた。あの人が、知らない女性ひとの傍らで、笑って、いた。

 あの人は、言った。仕方ないさ、と。エポニーヌの瞳も見ずに。――仕方ないさ。君と僕は違うんだ。流れる血も。住んでいる世界も。どうしようもなく、違いすぎるんだよ。

 きしきしと、頭の奥が軋む。

 思い出したくない記憶。認めたくない事実。歪んでいる景色。風景。あの人。

 違う? 何が違うの? あなたは私を愛した。私もあなたを愛した。あなたは私に微笑みかけて優しい眼差しをくれて私を抱いた。私も、そう。なのに、何が違うというの? ――赦せなかった。哀しかった。吐き気がした。愛しかった。寂しかった。逢いたかった。傍にいたかった。ずっとずっとずっとずっと、待っていた。

 だから、エポニーヌは――。

 あの人はいなくなった。もう、迎えに来てなどくれない。

 でもね――だから、ジル。あなたを放さない。約束したもの。誰にも渡さない――渡せない。今度こそ、必ず。

 だって、エポニーヌはジルを誰よりも、愛しているから。

 そうして、愛する人を探して、愛する人を失ったエポニーヌは、歩いた。

 

  4

『ジルは、これからどうするの?』

 ルネのそんな言葉に、すぐに返すことができなかった。

 自分でも、解からないのだ。

 エポニーヌがいたから、此処へ戻ってきた。エポニーヌを、殺したくて、殺せなくて。

ただ、見届けなくては、とだけ思う。自分がエポニーヌにしたこと――その、終結を見届けなければならない。――けれど、例えばあの少女の言葉が嘘だとしたら。或いは、それが終わったとしたら。自分は、どうしたいのだろう。

何処へ行く? 何をする? そんな目先のこと、解からない。

ただ、ルネに言わなくてはならないことがある。ジルがルネを傷つけたこと。それから、もう一つ。それだけは、絶対に。

きっと彼女は、あの街へ――カミーユの元へ帰るだろう。彼女が離れていくことが、今更ながら厭だなと思う。もう既に酷く傷つけ、自分から突き放してしまったのに。そんなジルの気持ちはとても自分勝手。

だから、言えればいい。伝えられればいい。彼女に赦されるとは思わない。けれど、伝えたい。ジルの、気持ち。あの夜のこと。

沢山の人を傷つけた。

 傷つけてばかりいる、ルネも、レミーも、リュシアンも――皆、ジルの大切な人だ。

なのに、うまくいかない。自分のことばかりで、その手を掴めない。何も、伝えられない。

 どうしたらもっと器用に生きられただろう。なぜうまくできないのだろう。

 ――だが、そんな逡巡は後悔に繋がることくらい、とっくに知っている。迷う暇があるのなら、伝えた方がいい。それができなくて、今まで苦い思いをしてきたのだ。だから、ジルは言葉にした。

「――俺は……エポニーヌを、赦せなかった。……今も、な。同じくらい――いや、多分それ以上に、父親も赦せない。

 どうしてエポニーヌは人間との子を産んだんだって思う。出来損ないが一つ、できるだけなのに。だから母親も父親も憎かった。

 俺の向こうに父親を見ていることが、自分が揺らいでるみたいで、厭だった。

 ――でもな、それ以上にきっと、出来損ないの自分が嫌いだった。でも、それを認めるのも厭だった。だから、エポニーヌを憎んで紛らわしてた。俺は、エポニーヌを殺したい。それが、俺の望み。――だから、俺は此処にいる」

何をどう言えばいいのか、分からない。それでもルネには伝えたかった。ジルのこと。欠落。欠陥。出来損ない。ジルは――

「――混血なのね」

 そう呟くルネの顔には、納得したような表情が浮かんでいた。声には何の感情も籠もらない。

 何となく知ってたわ、とルネは付け加えた。

 ジルの、顔の右半分を覆う包帯。その下にあるのは、畸形。『能力』を持たない代償に得た、変異。

 何も知らないものが見るとイミモノの眷属と嗤い、その故を知るものが見ると出来損ないと哂う、ジルの、畸形。

 あの頃は、あんなにも知られることを嫌い、懼れた。そのせいで、大切な人を傷つけもした。

 けれど、今口にするのには躊躇いがない。それはきっと――あの頃と違って――先が、見えないからだ。どうなっても、もうよかった。ルネを既に傷つけ、そして拒絶されてしまっていたから。それは、自棄といってもいいくらいのものだった。

  けれど――ルネは。彼女も、自棄なのだろうと思う。だって今まで、そんなことを言ったことはなかったから。

 ルネは――ありがとう、と、呟いた。

 ジルが目を見開くと、ルネは少し怒ったように頬を赤くして、言い訳がましく、それでもゆっくりと言う。

「……だって、嬉しいもの。ジルが、ジルのこと話してくれるのは、嬉しい。

 あたしは、出会ってからのあなたさえも十分に知らない……解からないことも、沢山あるわ。だって、知ろうともしなかったもの。……でも、あなたのこと知るのは――あなたが話してくれるのは、嬉しいの」

 ルネは、ジルの方を見ない。ただ、階段に腰掛けて床の一点をじっと睨んでいる。けれどその言葉は、自身の心の中身を探りながら、丁寧にひとつひとつを取り出しているようだった。

 それから、ふと視線を上げて、ジルの方へ顔を向ける。

「ねぇ、ジル。あたしは、あなたを憎んだ。あなたを殺したいと望んだ。あなたを拒絶した。あなたもあたしを傷つけた。喧嘩を沢山した。出会った頃、あたしはあなたが嫌いだった」

 珍しく淀まない口調で、ジルを見つめる。真っ直ぐに。睨むように。けれど、其処に宿る強い光は、決してジルを傷つけるものではない。

「でも……でもね、――あたしはあなたを蔑んだりなんかしない。絶対に」

 思う。本当に、ルネは――ジルが捕らわれている沢山の柵が、どうでもいいのだ、と。

 彼女に出会ってから、ジルの中には新しい風が吹き込まれていたのだと思う。淀んだ感情を、少しずつ――それは本当に少しずつだけれど、削り取りながら。

「俺は……もっと長く、お前といたかったよ」

 それが、ジルの気持ち。もっとルネの傍にいたかった。――もっと、早くに出会っていたかった。そうすれば、もしかしたらジルは変われたかもしれない。

「そうすれば、あのとき――俺はお前を傷つけずに済んだかもしれないな」


*…*…*…*…*…*…*…*


 それは、狩りなどではなかった。

 なぜなら、獲物と定義付けられた魔族がいるはずの場所にあったのは、よく見知った忌まわしい顔だったのだから。

 もう、二年も経っていた。忘れていたつもりだった。欠落品ゆえの劣等感、父親への侮蔑、母親への憎悪――そんな感情を、失くしかけていた。そう、信じていた。なのに。

 立っていたのは、義父だった。憎悪と絶望と嘆きに彩られた顔で泣きじゃくるのは、母親だった。その母に組み敷かれ首を絞められているのは、知らない男だった。けれど、その顔には何処か見覚えがあった。――彼は、ジル自身と、よく似ていた。そして、その傍らでへたり込んでいる若い女。

 分からなかった。けれど、解かった。

 エポニーヌが、泣きながら半狂乱で叫ぶ呪詛のような言葉。


 あなたは私を愛した。私もあなたを愛した。あなたは私に微笑みかけて優しい眼差しをくれて私を抱いた。私も、そう。なのに、何が違うというの? 赦さない。絶対に赦さない。そんなの赦さない。私はずっと待っていた。ずっとずっと、あなたを待っていた。あなただけを愛した。あいつに何をされても、あなたがいたから私は生きていけたの。あなたとの約束があったから。あなたは私に言ったわ。迎えに来るって。約束した。どうして? どうしてよ? 私はあなたを愛しているのに!


 とんだ絶望だ。何が起こった? なぜ彼らが此処にいる? エポニーヌは見たくないものを見た。そして、ジルも。――エポニーヌに殺されようとしている男がジルの実父でなくて、何だというのだろう。

 ――何でだ? 

 どうして、よりによって。こんな再会を、誰が仕組んだ?

 エポニーヌが恋人――つまり、ジルの父が迎えに来てくれると信じて、ずっと待っていたのは知っていた。

 男の傍らで震えている女性が、彼の恋人だとしたら――そう云う、ことなのだろう。エポニーヌは、裏切られた。

 ひたすらに彼の首を締め付けるエポニーヌの言葉は狂ったように紡がれ続ける。けれど、ジルにはそのときの彼女が、いままでで一番正気に見えた。今の彼女は、ただ大切なものに裏切られて傷ついた、何処にでもいる人の一人だった。

 愕然として、拳を握り締める。爪が、掌の柔らかい部分に喰い込んで血が滲んだ。なぜだろうという思い。なぜ、こんな処で。そして同時に、湧き上がるのは今までずっと蓄積され続けていた、どろどろとした感情から生まれる、怒り。

 この男が、父親? 脆い愛情で、エポニーヌを縛り続けた。その脆い絆に縋りつき、ジルを愛せなかったエポニーヌ。絶望を見せ付けた、義父。

 吐き気がする。体が熱い。――なぜだ? ひたすらに、そう思う。なぜ、叶わぬ約束をした? なぜ、エポニーヌを踏み躙った?

 もう、彼らの元を離れて二年が経っていた。だが、幼い頃から染み付いたその感情は消えてなどいない。消えるわけがない。ただ、忘れかけていただけだった。だから、今、彼らがどうしようもなく憎い。

 ――それは、心を縛る皮ひもが針の先で突かれ避けてゆくような感覚。其処から溢れ出るのは、どろりとした怒り。憎悪。悪意。

 この男が――この、人間が全ての元凶。ジルが出来損ないとして生まれた要因。エポニーヌを壊した原因。こいつが、いたから。

 ずっと、ずっとずっとずっとジルは、疎ましかった。鬱陶しかった。憎かった。『能力』がないこと。変異があること。畸形と詰られること。全ては、人間族の父親がいたから。エポニーヌに認めてもらえなかった。いつも、自分自身の奥に父の面影ばかり探していて、ジルは何処にいるのか、不安になってばかりいた。周りの奴らは鬱陶しかった。ジルを蔑んだ。幼い頃は殴られたし、今だって彼らの視線には侮蔑の色が濃く浮かぶ。いつも義父がジルを見る瞳の色は冷たい悪意だった。自分の妻が唯一愛した者の子供だから、それは、嫉妬の混じった出来損ないへの侮蔑。なのに、こいつは――

「――やめてっ……」

 傍で震えていた若い女がふらふらと立ち上がり、エポニーヌを突き飛ばしたのが、引き金だった。彼女の手に、白く光る刃が握られていたのを、視た。

 ジルはこの、憐れなひとを、護ったのだろうか。――気がつけば、エポニーヌへと刃を向けた女へと、刀を振り下ろしていた。

 誰のものだかわからない絶叫が響く。闇夜に濁った血が吹きあがる。肉と骨を絶つ、確かな感触が手に残る。

 ――うるさい。

 エポニーヌの手から逃れ、倒れた女に駆け寄る男を、ジルは冷たい瞳で見下ろした。

 頭の何処かは酷く冷静で、なのに、茫とする。

 解からない。これは何だ? 歪んでいる。捻じ曲がっている。

 躊躇いなど、何処にもなかった。ただ、憎かった。――こんな、矮小な、屑のために。

 男の背へと、逆手に持ったサーベルを、突き立てる。

 今までに何度も味わった、イミモノを殺すときのような――だが、それよりもずっと脆い感触。

 殺してしまいたかった。ただ、ひたすらに。吹き出す血が、この男の贖罪。呻き声は懺悔。もっと――もっと、強く。倒れ臥した男に、何度も何度も刃を刺した。

 薄い笑いを浮かべながら。

 真っ赤だった。思考回路も、視界も。ひたすらに、赤い。

 わけが解からない、ふわふわとした心地がする。――簡単なことだった。殺してしまうのが、こんなにも簡単なことだったなんて。行き場のない憎悪は、こんな風に容易くぶつけることができたなんて。殺してしまえばいい。ジルを踏み躙ったものなど、渾て。赦さない。義父ちち実父ちちも母も全部死んでしまえばいい――殺してしまえばいい。

 何かが外れてしまった心では――後は、簡単だった。

緋色の歯車が、廻った。

  

*…*…*…*…*…*…*…*


『何、してるの?』

 震えながら、そうルネは言ったと思う。けれど、『邪魔をするな』とジルは吐き棄てたと思う。

 鬱陶しかった。邪魔だった。せっかく今、ジルは殺しているのに。憎しみを潰しているのに。

咎める声は吐き気がする。気持ち悪い。止めて欲しい。聴きたくない聴きたくない聴きたくない。今、引き戻されたくない。だから――何も考えられずに、彼女に、大切に思っていたはずの彼女に、斜めに刃を走らせた。今まで築き上げたきれいな感情は、そのときはどうしようもなく無力だった。

 それから、義父を殺した。恨みを、憎しみを、怒りを、刻み付けるように何度も斬りつけた。

 みんな、死ねばいい。

「やめて……!」

 そんな叫びが遠くで聞こえたような気がして顔を上げると――何かがジルを襲った。細く、長く伸びる触手のようなものが、ジルへと高速で、迫る。咄嗟にジルはそれらを切り落とそうとするが、けれどその数本の触手はまるで自分の意志を持っているかのようにジルの刃を逃れる。そして、うち一本が――右の眦を掠めた。

 ざく、と、そんな音を立てて包帯が千切れ、目元から血が弾ける。

 ゆるゆると、ジルはその方向にも刃を翳す。其処に立っていたのは、弟だった。震えながら、左手を抑えている。

 その怯えた視線がジルの傷口を捕らえる。「え?」と、彼の唇がそう動いたのが見て取れた。その瞳に一瞬浮かんだのは、ジルの包帯のその下――畸形を見たときに誰もがまず浮かべる色と、同じ色。その醜いものは、何だ? と。混じる排他と嫌悪の光。

 ――ああ、こいつもか。

 絶望に似ていた。

 色を失くした瞳で、レミーを見下ろしてサーベルを振り上げた。

 だが。

「――ジルっ……!」

 心地のいい自暴自棄からジルを呼び戻したのは、エポニーヌの叫び声。

「もうやだっ……! もう、厭だ……」

 頭を抱えて、幼子のように泣きじゃくる母。ジルは、レミーから離れると其方へ向かう。

 振り上げた刃を、彼女に突き立てることができなかったのは。

 現実に引き戻されることを拒絶して、その歪みを突きつけられてしまうことを忌避して――大切だったはずの少女まで、傷つけてしまったのに。

 エポニーヌが憎い。誰よりも、何よりも、憎い。二年経っても拭えなかった感情。ずっと染み付いていた憎悪。なのに――彼女が憐れだ。憐れで、哀しくて、憎くて――力を失くした腕がだらりと垂れ下がった。

 このひとを、殺せない――。彼女は、ジルの母親だったんだなと、思った。

 生温く降り注ぐ血の雨は、いつの間にか本物の雨に変わっていた。冷たい雨粒が、体温を下げていく。

 人間が、倒れていた。死んでいた。ジルが、殺した。レミーは、ジルに背を向け走っていく。エポニーヌがいた。泣いていた。そして、彼女がいた。ジルが、傷つけた。

 二人の父を殺しても、心は軽くなどならない。ただ、冷たくなっていく。

 心の何処かが、壊れてしまったようだった。――いや、実際に壊れていた。

 だって、ジルは痛くない。こんなに彼女は傷ついているのに、ジルは何処も、痛くなかった。

 ただ、事実だけが淡々と胸に染み込んでいくだけだった。

 彼女は、ジルを睨み、言葉を吐き棄てた。硝子の破片のように、麻痺してしまった心臓に突き刺さる言葉を、ジルは聴いた。

 心が凍る。冷たくなる。――傷む。腐る。疼く。落ちる。痛む。

 彼女の言葉が、いたむ。

 なぜ、自分は今笑っているのだろう。本当は、叫びたい。泣いてしまいたい。吐き出したい。――でも、ジルは笑った。

 彼女も、泣いていた。涙など流していなかったし、その瞳は燃えるような色をしていた。けれど、泣いていた気がした。

 誰かが泣いているときにどうすればいいのか、彼女は以前教えてくれた。だが、それがジルにできるはずない。彼女を泣かせたのは、ジルだから。

 それでも、泣かないで欲しいと思う。泣かないで、それから――彼女はジルを憎むだろう。恨むだろう。そして、ジルを殺しに来て欲しいと思った。

 ――もう、此処にはいられない。

 だから、帰らなくてはならない。

 ジルは、誰よりも憎んでいた母を殺せない。そして、誰よりも蔑み疎んじていた二人の父親のように、大切な人を裏切り、傷つけた。

 彼女の言葉から、逃げ出したかった。恐かった。笑っていたけれど、それでもジルは、恐かった。

 もう、ジルは彼女を酷く傷つけてしまった。壊れてしまったものはもう、戻らない。壊したのは、ジルだ。傷ついた彼女を見ることを、ジルは拒絶した。そして、踏み躙った。もう、壊れてしまったのだ。それなら痛みすら感じないくらいに、完全に。

 彼女に、言いたいことがたった一つだけ、あった。

 いつも、言いたくて、けれどずっと言えなかった言葉。

 それを口にしかけて、止めた。――もう、届きはしないだろう、と。

 そして、ジルは、逃げた。――ルネの元から。

「帰ろう、母さん……」

 もう、何も感じなかった。

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