〈第六章〉無垢なる士-2
5
ヴェロニカが事前に入手していた地図に従い『その場所』へと続く階段の下へと辿り着いたとき、其処には先客がいた。
このセクトの頭領がいるはずの部屋――其処へ行くために通らなくてはならない石段の半ば当たりに腰掛け、階下の窓をぼんやりと眺めている、十代後半のまだ少年と呼べる程の若い男。その階段を上りきった処にある、狭い踊り場と一枚の扉。――其処に、ヴェロニカの終着がある。
角に身を潜ませて様子を確認しながら、慣れた手つきで右手に握った『装置』――拳銃に弾を詰める。
――もうすぐ。すぐ、だ。逃がさない。殺す。絶対に殺す。
まずは、邪魔なあの魔族から。
すう、と息を吸い込み、ヴェロニカは栗色の髪の少年に狙いを定め――引き金を、引く。それとほぼ同時に少年がゆっくりと顔を上げる。――気づかれた。
短く鋭い音と、撃った反動で手元に衝撃。
「うわっ……、と!」
堅い音。少年のすぐ側――一瞬前までちょうど少年が頭を預けていた処の石壁が抉れた。続け様に二発、三発と弾丸を撃ち込む。
だがそれらは悉く躱される。
少年は焦燥から舌打ちをしたヴェロニカを視ると余裕の表情で――薄く笑いながら、唇を尖らせて息を吹く。ひゅう、と口笛のような音と共に、その口元から一陣の風が生まれくるくると渦巻き、舞い、飛びながら、――ヴェロニカには白く光る三日月のような形の刃に視えるモノを形創り、くるくる、くるくると獲物を狙う鷲のように、迫る。身を捩って躱そうとする。が、間に合わず右の二の腕が薄く切り裂かれる。
白刃は背後の壁に硬質な音を立てて突き刺さると、空中に散逸した。
ヴェロニカはじくじくと血の滲む傷口を押さえ、唇を噛んだ、
――『能力』、か。
相手がそれを使う前に殺してしまうから、間近でその力を目にするのは殆んど初めてと言っていい。
目の当たりにしても、恐怖などは湧かない。一層の嫌悪と侮蔑が揺らめく。『能力』など、化け物の気狂いじみた能力でしかない。
だがその『化け物』の少年は階段を数段下りてヴェロニカをまじまじと見下ろす。
「あっぶねぇなぁ……面白かったけど」
目を瞬かせ、あくまで軽い口調で少年は言う。
「それ、何て言うんだっけ。えーと……ソーチ? すごいな」
魔族の特徴である長めの八重歯は『能力』を使ったときに、現われると聞いていた。彼も例外なく唇から白い牙を覗かせて、にっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。
その態度に、ヴェロニカの心に動揺が走る。
「さっき聞いたんだけどさ、住人殺し回ってる『侵入者』がいるって。それって、あんたのことかな」
ヴェロニカは素早く弾丸を補充する。
答えないヴェロニカには構わず、彼は尚も訊ねる。
「そんなの使ってるってことはおねえさん、もしかして人間族?」
「――だったらどうした」
憮然として、だがそれを韜晦するようにヴェロニカは吐き棄てた。
脳が何処か壊れてるんじゃないかと思えるくらいに、この少年は落ち着いている。にこにこと楽しそうに笑いながら。
それは、ありふれた『力あるものの余裕』などではない。そんなものならヴェロニカは何度だって目にしてきたし、そして踏み躙ってきた。
ヴェロニカを苛立たせるのは、そういった類のものではない。彼の、純粋に楽しんでいる笑顔――そう、例えば玩具を見つけた子供のような。
莫迦にしている。蔑むよりも遥かに、莫迦にしていると思った。
――こんな、ガキが。
拳を握り締め、苛立ちを沈静させる。自身に言い聞かせる。――感情を飽和させるべきはこいつじゃあ、ない。
この先。もう、この先だから。だから、待っていて。
「其処をどきな、ぼうや。――あたしは此処の頭領に用があるんだ」
その言葉に、少年がほんの一瞬だけ眼を細めたことにヴェロニカは気づかない。
「へぇ……用って、何?」
「殺す」
ヴェロニカは感情を堪えた瞳で少年を睥睨しながら低く返す。
「じゃ、どけないな」
無論、そう言ったからといってどくことはないだろうということ位、知っている。
「エポニーヌはあんたには殺させない。おねえさんにもさ、事情とかあるだろうけど……ま、それはどうでもいいか。とにかく、エポニーヌを殺させるわけには、いかねぇんだ。だから、さ……」
少年は一度言葉を切り、肩を竦める。
「……諦めろって言われたからって諦めるような奴じゃなさそうだね、おねえさんは」
ふ、と少年の口元に、何か大切なものを思い描いたような笑みが昇る。だがそれは、ヴェロニカにとってどうしようもなく瑣事。
「……当たり前だ。退く気がないんなら死にな、ぼうや」
瞋恚で以って痛みを無視し、憎悪を籠めた弾丸を放つため、引き金を引いた。
心にあるのは、ただ、大切な人――ビアンカ。
――死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね化け物は全部全部全部消えてしまえ死んでしまえ赤に塗れて死ねばいい、殺してやる。
ヴェロニカの銃口が火を噴いたのが、きっかけだった。
弾丸を避け少年は地を蹴ると一瞬でヴェロニカに肉薄する。
振り上げられた拳をぎりぎりで躱しながら銃を持っていない方の手で腰に差していた短剣を抜き、払う。少年は首を傾けやり過ごしざまにヴェロニカの足を払う。躯を打ちつける前に半転し、床に片膝を着いて少し距離の離れた少年へと引き金を引く。一発目は壁を抉り、もう一発は彼の頬を掠めた。
さっき、不意を突いて彼を殺せなかったのは、大きな過失だった。一対一の接近戦となれば、魔族に比べて膂力の劣るヴェロニカは圧倒的に不利だ。――こんな処で立ち止まっている暇はないのに。そんな冷静な思考と、魔族に湧き上がる憎悪が鬩ぎ合い、躯が火照る。
少年が口笛を吹いた。
空から生まれたいくつもの白刃がくるくると、ヴェロニカめがけて舞う。ぱっと耳朶に熱が走り、反射的に首から上を庇う。腕、脇腹、脚、肩に焼けつくような痛みが走る。細かな血球が弾けた。
その赤に一瞬視界を遮られる。少年が再び刹那にして接近したのが気配だけで判った。腹部に蹴りを放たれる。ヴェロニカの躯が宙に浮き、背を強かに壁に打ちつける。息が、詰まった。それでもすぐに足元を定め、次の攻撃に備える。すぐに、白刃が飛んでくる。その半分を何とか躱すが残りの半分は新たな傷を創る。
ヴェロニカはぎり、と奥歯を噛んだ。今までの奴らとは違う。攻撃は当たらない。まだ、まともな傷を負わせていない。
眼で追うのがやっとだ。躯がついて行かない。――こんなにも、力の差があるなんて。
それでも、殺意は消えない。
弾が切れてしまったので、予備にと所持していた一回り小さい拳銃を取り出す。
銃口を向け引き金を引く。また、少年は躱し、床を蹴って、跳ぶようにしてすぐ側まで来る。ヴェロニカは短刀を振り上げるが――少年は今度は躱すことをせずに、ヴェロニカの腕を掴んで攻撃を止めた。振り払えないくらい、強く。
「――すごいね、おねえさん」
心底感心したように呟く。
「でも――」
少年は手を離し、一歩退く。彼の顔に窺えたのは、哀れみの色。
「諦めて帰ったら?」
それは、ヴェロニカの神経を逆撫でする。
――どうして。
どうして、こんな奴に憐れみをかけられなくてはいけない?
「――ふざけるなっ!」
叫び、短刀を振るう。それは、少年の頬に二つめの浅い傷を創った。
諦めて帰る? 冗談じゃない。そんなことをしたら、ヴェロニカのこの一年――いや、あの子と過ごした十数年はどうなる?
あの子のために生きてきた。これからも、そうだ。
殺す。頭領を――あの子を殺したこいつらを殺す。魔族を、赦さない――赦せない。
ヴェロニカの傷など、どうでもいいのだ。ただ、憎いという、その感情だけ。それだけだ。
「あたしには、もうこれしかないんだ!」
血を吐くような叫びと共にヴェロニカの攻撃は少年を捕らえる。
止めようとして、しかし防ぎきれなかった少年の掌を刃が貫く。ヴェロニカはそれを引き抜こうとするが、その前に彼のもう片方の手に殴られ、引き離される。
「痛ぁ……」
何処か不思議そうな声音で少年は呟き、短刀を引き抜く。
短刀を奪われてしまったことに歯噛みしながら、ヴェロニカは体勢を立て直す。――と、そのとき。きぃ、と金属の軋む小さな音がした。
同時に少年がはっとしたように、後ろを振り向く。釣られるようにヴェロニカも少年の視線を追い――階段の上の扉を、見た。
取っ手が、まるで手招きでもするように傾き、ゆっくりと、扉が開かれた。そして其処から、ふらふらと現われる、人影。
考えるまでもなく、躯が動いた。
「だめだ……!」
そう少年が叫んだのと、どちらが先だっただろうか。
銃を構える。引き金を引く。銃口が立て続けに火を噴く。少年が立ち塞がる。
「あ……」
少年が驚いたような、か細い音を紡いだ。
狙った人影ではなくそれを庇った少年の、右胸と腹と脚に、弾丸は命中する。
ヴェロニカは再び引き金を引こうとする。だが、その手は目の前の少年に掴まれた。
「お前には……殺させねぇ……っ」
文字通り血を吐きながら、彼は言う。初めて、少年の瞳が敵意と殺意と焦燥と失意と、それらがごちゃ混ぜになったような、淡い怒りの色に染まっていた。
少年が、まだ手にしていた短刀をヴェロニカの腹に、突き刺す。そして同時に掴まれていた腕が凄まじい力で引っ張られ捻られぼきばきと骨がぶちぶちと筋肉がぷつぷつと神経がぐちぐちと皮膚が、腕が、もぎ取られた。
「ぅあああああああっ」
咽喉の奥からこみ上げてくる熱いものを吐き出しながら、ヴェロニカは絶叫する。――この感覚は、痛みと呼べるのだろうか。耐え切れない。気が狂いそうな焼けつく感覚。全身を駆け巡る衝撃。舞い散る血、血、血――赤。
不意に。渾てが赤に呑み込まれるような感覚に襲われる。意識が一瞬だけ、混濁する。
赤い。紅い。緋い。朱い。赫い。そして、明い。そうだ、あのときも、あかかった。真っ赤だった。
――あのとき。ヴェロニカは仕事でサリュ平原まで来ていた。滞在していたのは妹が住む街とは別の街だったから、仕事が終わったら会いに行くと、手紙を出した。
嬉しかった。手紙の遣り取りだけで、もうずっと妹に会っていなかったから、嬉しかった。幸せだよと、いつも手紙で報告する妹の笑顔がまた観られるのだと。そして、返事を受け取った次の日。大好きな、大切な妹の住む街へと行き――其処は、赤かった。
血塗れて、殆んど四肢がばらばらになりかけて動かない彼女の夫と、何年か振りに見る妹の顔はとても大人っぽくなって随分と変わっていたけど妹に変わりはなくてだけどもうそれは妹じゃなかった。
だって、動かない笑わない話さない泣かない怒らない歌わない息をしない。
――赦さない。
愛する人との子供を身篭っていた妹。あの子の幸せは、奪われた。私はあの子に会えなかった。
赦さない。絶対に赦さない。あの子を殺した魔族を、赦せない。
だから、調べた。必死に情報をかき集め、あの子を殺した奴らを、探して、此処まで来た。
死ねない――死んで、たまるか。絶対に、殺す。
唐突に視界の赤はヴェロニカの流した血の赤に引き戻される。
立ち上がる。痛み。でも、あの子はもっと痛かった。もっと、生きたかった。
憎悪と執念と悲しみと恨みと傷みと痛み、それからあの子への想いで以って。床を踏みしめ、既に傷を負っている少年が邪魔で、けれど互いに血を流しすぎた。足が縺れ、少年と共にヴェロニカは倒れこむ。
――畜生っ……!
それならば、
「あ……」
一人でも、多く、と。ヴェロニカは残った最後の武器――歯で、少年の咽喉を噛み千切った。――少年の表情を見届けないうちに。
だから、彼女は知ることがなかった。
解からなかった。
少年の瞳には死への畏怖などなく、ただ彼が、一人のために、願っただけだということを。――ヴェロニカと、同じように。
そして彼女は、赤い軌跡を創って床を、辿る。――扉へと。
脚に力は入らず、這うようにしか進めない。傷口が擦れ、腹部に突き刺さった短刀は一層喰い込む。片腕では、上手く動けない。もどかしい、もどかしい、もどかしい。
「ちく……しょうっ……」
少しずつしか進まない躯。動かない。すぐ、其処にいるのに。
扉から出てきたヴェロニカの標的は階段を一段下りた処で立ち止まっている。その、足元にすら視線も届かない。
口の中が血の味に満ちていた。
吐き気。痛み。焼けつく傷み。
――ねぇ、ビアンカ。あんたは、痛かった? 悔しかった? あんたも、こんなに赤かった?
同じ最期を辿るのに、もう永遠に会うことはない妹に、訊ねる。
手を伸ばす。届かない。届かない。届かない――
「畜生っ!」
石の床を叩く。何度も、何度も。
「畜生っ畜生っ畜生っ畜生っ」
すぐ其処にあるのに、届かない。届かなかった。今も、あの時も。
赤い、景色。
「畜生……ビアンカ……」
会いたいよ。あんたに、会いたい。
視界が霞む。
泣いてなどいない。だから、涙のせいじゃ、ないはずだ。
6
何だか酷く、気分が悪い。
エポニーヌは自室の扉を開き、一歩、外に出た。
途端に、噎せ返るような血の匂いに包まれる。下を見下ろすと、其処は赤かった。
何だかよく解からないけれどその赤に不安を覚えて、エポニーヌは胸元の首飾りをぎゅ、と握り締めた。細い鎖の先端に小さな薄緑の硝子球がついた、簡素で安っぽいペンダント。――ずっとずっと昔に、あの人から貰った物だ。それは、エポニーヌの宝物。大切な約束。――迎えに来ると、あの人は言った。だから、エポニーヌは待った。
なのに、あの人は来ない。
どうしてなのかなと、ときどき思う。もう、あいつは死んだのに。エポニーヌはずっとずっと待っているのに。約束、したのに。
「ジル……」
赤い。
辺りはしん、と静まりかえっている。
とても、変な気分だ。気持ちが悪い。頭が痛い。そして――怖い。
その不安の理由はすぐに思い当たる。
あのときも、赤かったからだ。――……あのとき? あのときとは、いつだろう。
階段を、ふらふらと下りる。人が二人、倒れている。廊下は赤く、血の匂いがする。あのときと同じだ。
けれど、『あのとき』と云うのが思い出せずに首を傾げる。――いや、思い出したくない。
ふと。
「――エポニーヌ」
名前を呼ばれた。驚いて振り返ると、窓辺に人が立ってる。少年のような格好をした、少女が一人。
「だれ……?」
少女はエポニーヌの質問には答えずに、口元にうっすらと笑みを刷ける。
「きみのジルは、どうしていなくなったのかな」
「え……?」
私のジルは、どうしていなくなったの。
いなくなってなどいない。ジルはこの城にいる。ちゃんと帰ってきてくれた。あの人だって、いなくなったのではない。迎えに来てくれないだけだ。――迎えに来てくれない?
どうして?
――赤い、紅い、朱い、赫い。
「あ……」
唐突に。
針の先でつつかれ裂けるように、水底から泡が浮かび上がるように、思い出した。
ジルは、いなくなった――その理由までも。




