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〈第六章〉無垢なる士-1

   1

 それを幸福と呼ぶのなら。

『――――……そうそう、私、姉さんにお知らせがあるんだ。姉さんびっくりするよ。

 でもね、まだ内緒。だって、もうすぐ会えるんだものね。

 姉さんがすぐ近くにいるんだって思うと、何だか不思議な気がします。勿論、とっても嬉しい!

 早く会いたいな。

 あと三日……この手紙が着く頃にはあと二日、ね。楽しみに待っているわ。 あなたの妹 ビアンカより。


 追伸 私は幸せです。だから、心配しないでね』


『心配しないでね』――それは、あの子の口癖だった。

 だが、そう言われたってヴェロニカはいつも妹の身を案じていた。彼女が『帝國』を離れ、イミモノや魔族の多く棲む地方へ移り住んでからは尚更だった。

 あの子の言葉が、干渉を嫌うが故のものではないことは、よく解かっている。『姉さんは、姉さんのために生きていいんだよ』――そんなことを言われたことも、あった。それでもヴェロニカは妹が幸福になれば、それでよかった。

 あの子がいなくなって初めて、あの子を護り、あの子のために生きることはそのまま――自分のために生きることだったのだと、知った。解かった。

 あの子は早くから気づいていたのかもしれない。だから、終始言っていたのだろうか。『幸せ』と。

 ごめんね、と、思う。

 ――あたしは一生このままだ。

 両親が死んだときからずっと、ヴェロニカはまだ幼い妹を守ってきた。

 たった一人の家族のため、働いた。闘った。『在朱の月』に入ったのは、そのためだ。

 そうやって暮らしてきた、あるとき。

 妹は『帝國』へ来ていた行商人の男と結婚するために、あの場所を離れた。

 ずっと遠くの、魔族の多く生息するサリュ平原へ送り出すのは心配だったし、戸惑いもしたけれど、祝福する気持ちの方がずっと強かったから、ヴェロニカは繋いでいた手を、放した。

 それはもう、六年も前の話。

 あのとき笑顔で手を振った妹が、記憶に残る最後の姿。――だって、再会した妹はもう、ビアンカではなかったから。

 廊下を歩きながら、ヴェロニカは思い出す。

 先刻、首を絞められて真紅に染まりかけた視界。

 あの子も、赤かったのだろうか。

 角を曲がって現われた男をまた一人、撃ち堕とす。――こいつも、赤いのだろうか。いや――…

 磨耗した神経には瑣事だったはずの魔族の死は、今はただ、憎しみに熱を宿す。

 何度も何度も読み返してぼろぼろになってしまった、妹の最後の手紙は御守のように、いつも持っている。それを服の上からそっと撫ぜ、屍の軌跡を造って、ただ、前に進んだ。

 その道はいつ崩れるかも知れず。


   2

 エポニーヌのいる部屋へと通じる階段の半ば辺りに腰掛け、リュシアンは下方の窓からぼんやりと燻る瓦礫を眺めていた。

 退屈に、欠伸を一つ。

『侵入者』の話はとうに耳に入っていた。面白そうだと思った。だがそんな者がいれば尚のこと、リュシアンは此処を離れるわけにはいかない。

 此処の者が何人殺されようが、別に構わないと思う。実際、先程から何人か死者を見たし、聞いた。その中にはリュシアンと大分親しい者もいた。けれど、何の感慨も湧かない。――どうでもいいのだ。さっき、クラウディオが死んだときだってそうだ。「そうなんだ」――それしか、思わない。

 幼い頃からずっとそうだった。――好きなモノも、嫌いなモノもない。『お気に入り』は沢山あったけれど、失くなっても別に哀しくない。

 いつも、退屈だった。

 血を見ると楽しいのは魔族の本能らしいけれど、それ位しか楽しくなかったから、気づけばそればかりやっていた。血を流すのは、自分でも他人でも、生きていても死んでいてもよかった。

 だから、あのとき――五年前の記憶。ジルと出会った雨の日。イミモノに傷を負わされ伏して地に倒れていた、十三歳のリュシアンは、齧られたのは背中だから血が見えなくてつまらないなとだけ、思っていた。

 苦い土の味も、赤く染まる視界も、耳鳴りのような雨の音も、痛みが麻痺してしまう程の寒さも、不思議なくらい気にならなかった。――勿論、息子を囮に逃げて行った母親のことも。

 どうせ見えないのだからと視界を染める赤に身を委ねて一度閉じた目蓋を再び開いたのは、「なぁ」と、霞がかった意識の中に呼び声を聞いたから。

 焦点の合わない眼でどうにか捕らえたのは、屈み込んだ姿勢でリュシアンと同じように泥濘んだ地面に頬を着け視線を合わせている、二つか三つ程年下の少年だった。

「……なに…………?」

「あ、生きてる」

 それが、ジルとの出会い。

 リュシアンは――ジルに、拾われた。

 あのとき、彼は半ば引き摺るようにして彼はリュシアンを背負い、棲処へと連れて行った。

「あんた、名前は?」

「あー……名前? そういやぁ、ないなぁ……」

 両親には『自由』の名の下に放逐されて育った。思えば自分は名前すら持っておらず、それすらも当然のことのような気がしていたのだ。

「別に誰も呼ばないんだから、あってもなくても変わんないし」

「ふーん……でも、あった方が便利だろ。お前の名前、リュシアンな」

「なに、それ」

「このあいだ死んだイミモノの名前」

「お前……イミモノに名前付けてるわけ?」

「俺じゃねぇよ」

 彼はリュシアンに寝床と食事を与え、怪我の手当てをさせ、咎める周囲の声を睨んで黙らせた。

 ここまで他人に構われたのは初めてでとても奇妙な心持だったから、当事者のくせに茫としてそれらを眺めているリュシアンに、ジルは「お前、変な奴だな」と言った。

 彼の方がよほど変だと思った。

 面白いと思った。――ジルは、面白い。

 大切なものなんて、ない。なにかに執着することも、他人に心を動かすことも、なかった。

 だからそんな感情は、リュシアンは初めてだった。

 傷はやがて回復し、漸く動けるようになったリュシアンに、ジルは初めて帰る場所のことを聞いた。「帰らなくてもいいのか?」と。

 死んだと思い込んでいた息子が元気に戻ってきたときの母はきっと面白いだろうと思ったが、それよりジルの方が面白いはずだと思った。だから、そう望んだらジルはお前の好きにすればいいと、そう言ったので、リュシアンは此処に留まった。

 その頃にはもう、ジルを取り巻く環境や複雑な事情は自然と耳に入ってくるから知ってしまっていたけれど、それらはリュシアンにとって瑣事で、――ジルへの純粋な興味はいつしかそれ以上になっていた。

 ジルが好きだ。リュシアンの、たった一つの執着。

 報われようとは思わない。ジルに好かれたい、とも。

 これはリュシアンの一方的な感情だから。

 リュシアンはジルを解からないから。

 他人を――自分の命でさえもどうでもいいと思っているリュシアンには、ジルの憎しみも悲しみも後悔も杞憂も忌避も解からず、それ故に瑣事たり得ず――だから、ジルの望みはリュシアンの望みだったのだ。

 一年前、ジルが戻ってきたときは嬉しくて、哀しかった。ジルとまた会えること。傷ついたジルのこと。

 三年前、ジルが行ってしまったとき、哀しくて嬉しかった。ジルと離れること。厭だった。けれど、よかったと思った。ジルが楽になればいいと思った。彼を歪めてゆくだけの此処は、彼には相応しくない。

 それを幸福と呼ぶのなら、此処はリュシアンの唯一の執着で、希みだ。ジルが、幸せになればいい。


  3

 ルネには言えないことがある。

 エポニーヌを――母親をいつか殺そうとしていること。

 諦観の中に落とされた後悔。同じくらいの安堵。

 あの時――エポニーヌも斬ってしまえればよかったのに、けれどあのときのジルにはどうしてもできなくて、それでもあのままではいられなかった。

 だからあの夜。ジルは彼女の手を取った。

 一番大切だったモノを踏み躙った日。

 雨に濡れるのも気にならなかった。寧ろ、熱を下げてゆく雨粒が心地よかった。

 茫と虚空を眺めたまま動けずにいたジルに――“あの少女”は笑いかけたのだった。

「ぼろぼろに傷ついたお兄さん」

 いつから其処に立っていたのか。十二、三歳程の少女が大きな黒い蝙蝠傘を差して佇み、ジルを見下ろしていた。可愛らしい容姿をしているが、その服装と髪型のせいか『少年』と言ってもいいような佇まいの、少女。

「いい物あげるよ」

 少し掠れた、大人びた声音で、少女は歌うように言う。

「憎いんでしょ? 殺したいんでしょ? でも、できないんでしょ?」

 口調は楽しげだが、顔の殆ど半分を覆う薄茶がかった金髪から覗くアーモンド形の瞳は妙に冷めた色をしている。

 けれどジルは、彼女の言葉を咀嚼する気力すらなく、ただ、差し出された『それ』を眺めていた。

 傘と同じ、闇色のケープから伸ばされた腕が、ジルの掌に落とした『モノ』は――。

 それから、少女の姿は目にしていない。

 凝る憎悪は長い月日をかけて積み上げられたものだ。ルネがジルに抱いたような、自衛のための刃とは違う。だがら、滾ることもできずに澱のようにどろどろと、蓄積されてゆくばかり。エポニーヌ・カスタニエ――誰よりも憎い母。

 ――消えてしまえばいい。

 そう、思う。なのに、殺せない。どうしても、刃を振り下ろすことが、できない。だがらジルは、少女の示した『それ』を手に取った。

 もしかしたら、と思う。それは、期待と後悔。不安と安堵。ジルが此処へ戻ってきた理由。

 そうすることが果たして何になるのか、ジルには解からない。だが、もうそれ以外にジルができることはなかった。

 エポニーヌに何か異変があったら知らせると、リュシアンは言っていた。――いや、そのずっと前から既にあいつはエポニーヌの側にいた。

 リュシアンはそうは思っていないようだが、ジルは大分彼に頼っている自覚があった。――精神的な部分も含めて。

 彼には虚勢を張ることも、牙を向けることも必要なかった。リュシアンは、誰も蔑まない。ジルの素性を知ったときも「そうなんだ」の一言で済ませてしまった。――自分でも言っていた。「どうでもいい」のだと。

 だがら、ジルは彼の前だと少し、楽になる。

 思い出すのは、リュシアンの言葉。――「俺は、護るよ」、と。


   4

『俺は、護るよ。エポニーヌを、護る』

 自分の気持ちをジルに伝えたことはない。何故ならそれは、リュシアンの自己満足――一方的な好意。リュシアンはジルが好きという、ただそれだけだから。――けれど、一度だけ。

 リュシアンは約束した。エポニーヌを護る、と。

 ジルが出て行った夜。彼は、『朝の月』へ行くのだと行っていた。

 ああそうかと、思った。

「お前も行く?」

「やぁだよ、『朝の月』なんて合わねぇもん」

 冗談めかして笑うジルに、リュシアンもいつも通りの軽い口調で返した。

『朝の月』を敵視していたわけではないが、そんな組織は自分に合わないと思ったのは本当だ。だがそれ以上に、ジルと共に行ってはいけないと思った。

 だってジルはきっと、誰もジルを知らない処へ行きたいのだから。そうでなくてはならないのだから。

 此処は、つまらない柵が多すぎる。どうでもいいような事象に囚われた周囲の奴らの偏見は、ジルを歪めた。同じ場所にいて、ジルのことを知っているリュシアンが共にいれば、それは此処にいるジルと変わらない。この先、誰もがジルを知らない処へ行き、其処で漸くジルはジルになれるはずだ。だから、リュシアンは行ってはならなかった。ジルがいなくなることは厭だったし、離れるのは哀しかったけれど、それくらい、よく解かっていた。

「なぁ、ジル」

 もう一つ、訊きたいことがあったから、既に背中を向けていたジルを呼び止めた。

「街へ行くとか、別のセクトに行くとかじゃなくて――『朝の月』に行こうと思ったのって、何で?」

「『朝の月』……同族殺しに行けば、さ――…」

 ジルは背を向けたまま、いつものような不機嫌そうな口調で。

「いつか、エポニーヌを――……かも、しれねぇ……し」

 尻切れ蜻蛉に呟く言葉は、リュシアンの思っていた通りの答えだった。

「……そうだな」

『朝の月』へ行けば、エポニーヌが殺せる。あくまでも、受動的に。

 命じられて、殺す。そんなきっかけが与えられるかもしれない。だから。

 だがらリュシアンは、エポニーヌを護ろうと思った。

 エポニーヌを殺せないジルが、それをできるようになるまで。――殺して、楽になれると思えるならば。

 或いは、エポニーヌを赦せるようになるまで。

 本当にジルが望んでいたのは、どちらだったろう。

 ジルのいなくなったセクトになど、何の価値も感じられなかった。けれど、エポニーヌがいるのなら。

 あのころのジルの感情の殆どを支配していたエポニーヌ――哀れな人。それは、ジルにとって大切な人のはずだから。

 憎しみでも、悲しみでも、愛情でも、その人が心を占めるなら、それはきっと大切な人だ。

 いつでも戻って来れる。いつでも行ってしまえる。そんな意味を込めて、「エポニーヌを護る」、そう言った。

 それは、リュシアンからジルへの手向けの言葉。そして、自分自身への約束。

 エポニーヌに殺されかけたレミーを助けたのも、そのためだ。上手く向き合うことのできない、半分だけ血の繋がった弟が死んでしまったら、ジルはきっと哀しいと――痛いと、思ったから。

 それに――自分と同じように母親に棄てられた子供に、ほんの少し同情もした。リュシアンはジルに助けてもらったが、レミーにはそんな人は現われず、其処で死んだっていいと思えるリュシアンほどレミーは空っぽではないのは容易に判ることであった。――空っぽでないジルの、弟なのだから。

 それでも――ジルと同じことをしてみても――、リュシアンはどうしたってジルには近づけない。

 傷みは分かるけど、痛みは解からない。

 それだけではない。激情。情動、他人への執着――ジルが抱えるそれら全てが、リュシアンには、ない。解からない。

 だからこそ、空虚な心の中に唯一巣を張るのは、ジル。

 ジルの内で濁り滾り渦巻き流れる歪んだ感情にこそ、リュシアンは惹かれる。面白いと思う。そしてそれ以上に、好きだと思う。

 リュシアンはそれらを、欲しいとも思えない。

 けれど、ジルにとっては――不要なものではないはずだ。


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