小指の約束
ローズ王国の北の外れ、王家直轄の薔薇園の奥に、黒曜石の指輪がひとつ落ちていた。古い封印の術式が細かな文字のように表面を巡り、その内側にはかつて世界を呪った悪神ヴォルグが眠っていた。もっとも、千年の眠りは彼をすっかり退屈にし、世界を滅ぼす気力さえ削いでいたのだが
指輪を拾ったのはアイリス・カノン侯爵令嬢。善良すぎるあまり、舞踏会に行く途中で遭遇した事故を取り仕切り、驚いて動けない孤児に上等なショールを差し出し、さらに相手側の腰を傷めた庭師に代わり、薔薇園の様子を見に来たところだった。彼女は指輪の泥を丁寧に拭い、思わず口にした
「まあ、なんて綺麗な黒」
その声にヴォルグは目を覚ました。千年ぶりに聞いた声は、彼を糾弾するものではなく、ただただ在るが儘の彼を受け入れてくれた。悪神は思った。世界を呪うよりこの娘の指で転がされているほうがよほど心地いい
だが、その安寧は短かった
舞踏会。王太子アーノルドは、煌びやかな広間の中央で婚約破棄を高らかに宣言した
「アイリス、君は善良すぎる。王太子妃とは国の体面を背負うものだ。施しは国庫を圧迫し、善良は外交の場で軽んじられる。私にはもっと、相応しい妃が居るに違いない」
周囲がざわめいた。アイリスは泣かなかった。静かに淑女の礼をとった
「拝命いたしましたわ。どうぞ、王太子の御心が健やかでありますように」
静かな別れだった
ヴォルグは指輪の中で震えた。深い怒りが、黒曜石の内側を満たした
「我許さぬ。王太子には足の小指をドアの縁にぶつける呪いを課す」
アイリスは歩きながら、指輪の囁きに首を傾げた。
「ヴォルグ様、今なんと?」
「黙れ。今、復讐の儀を執り行っておる。封じられし身故、大それた災いはいかんともし難いが、この呪いは問題ない。必ずドアの縁に、小指を」
「なんて小さな復讐」
「未来永劫だ」
翌朝、王太子アーノルドは清々しい朝を迎えた。自分の思うがままに婚約破棄をしたのだ。自室の扉を勢いよく抜けた。その瞬間、鈍い痛みが彼を襲った
「っ!?」
彼は片足を抱えてうずくまった。侍従は青ざめ、医師は湿布を貼り、誰もが不運な事故だと言った。だが、その日から王太子の受難は始まった
書庫の扉。評議室の扉。礼拝堂の扉。馬車の扉。果ては庭園の東屋の格子戸に至るまで、彼が通るすべての「ドアの縁」が、正確に執拗に、彼の左足の小指を待ち構えた
「ヴォルグ様。やりすぎですわ」
「まだ足りぬ。あの男は君の善良さを侮辱した。我は許さぬ」
「でも、小指ですの?」
「小指を甘く見るな。人間の悩みとは、案外そこから始まる」
その夜、王太子はアイリスの屋敷を訪れた。扉を開けた瞬間、彼は見事に小指をぶつけ、そのまま跪いた。アイリスが駆け寄ると、指輪の中でヴォルグが低く唸った
「触れるな。我の娘に触れるな」
「ヴォルグ様、お静かに。貴方指輪でしょう」
「悪神だ。指輪であろうと、我が心を持つに変わりはない」
王太子は痛みにうめきながら、顔を上げた
「アイリス、君の呪いか。この呪いを解いてくれ」
「わたくし、呪いなんてかけていませんわ」
「では、なぜ毎日、小指が!」
「それは・・・ええと、運命の采配では?」
ヴォルグは指輪の中で満足げに笑った。王太子はその後も何度か訪れたが、そのたびに玄関応接間、廊下の扉で小指を打ち、最後には「扉というものが恐ろしい」と叫んで帰っていった
やがて王太子はつま先に鋼を仕込んだ靴を履くようになった。特別製だ。流行った
だが呪いは巧妙だった。靴の上からでも、彼は「ドアの縁」に小指をぶつけたような気配を感じ、古傷がうずくような痛みすら感じた。いつしか彼は「つま先王子」と囁かれた。グッズ化した
アイリスは窓辺で指輪を磨きながら、小さく笑った。
「ヴォルグ様。そろそろお許しになってもよろしくてよ」
「我は許さぬ」
「でも、貴方の呪い、なんだか可愛らしいですわ」
「可愛いだと。我は悪神だぞ」
「ええ。とっても、小さな悪神様」
黒曜石の指輪がほんの少しだけ温かくなった
「ほどほどに、ね」
悪神は不機嫌そうに呟いた
「我許さぬ」
けれどその声はもう、誰よりも優しい響きをしていた




