本編 7
冷たい雨が、新宿の路地裏を灰色に染め上げている。アスファルトに叩きつけられる雨音は、都市が発するノイズを消し去るための鎮魂歌のようだった。
戸田誠司は、ゴミ袋が散乱する路地の中央で立ち尽くしていた。先ほどまで「要塞」として機能していた不動産屋は、すでに警察の機動隊によって封鎖され、かつての日常は物理的にも概念的にも解体された。
手の中にあるのは、先ほど奪ったブラックボックス――システムの深部に触れるための「鍵」だ。
「……あ」
路地の奥から、低い呻きのような音がした。
戸田が反射的に身体を反転させると、影の中に一人の男がうずくまっていた。先ほど、戸田が組み伏せ、喉元を締め上げた男だ。男は雨に打たれ、濁った泥水の中で震えていた。その瞳には、かつて戸田自身が抱いていたのと同じ、世界に対する諦念と、それでも消えない微かな灯火が宿っている。
男は戸田の姿を認めると、かすかに口角を上げた。自嘲、あるいは諦め。
「……お前も、捨てられたのか」
男の声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、あまりにも長くこの街の底で澱を吸ってきた者特有の、乾いた虚無があった。
戸田は無言で男に近づいた。
雨のせいで視界が滲む。男の腹部からは、組み伏せた際に負わせた傷から、赤黒いものが雨水に混ざって広がっている。戸田は深く溜息をつき、ポケットから使い古されたハンカチを取り出した。男の傷口を乱暴に押さえる。
「……首魁は、お前をどうした」
戸田は尋ねた。男は激しく咳き込み、泥を吐き出した。
「消せ、と言われた……。俺が持つデータが、奴らにバレた時点で、俺は……ただの『ノイズ』になった。お前と同じだ。最初から、使い捨ての道具なんだよ」
男の言葉は、戦後の焼け野原で誰にも看取られずに息を引き取った者たちの呟きのように響いた。
この国は、かつての責任を誰一人として負わず、ただ「平穏」という名の仮面を被り続けている。そのシステムに適合できない者は、こうして路地裏でゴミのように掃除される。
「都合がいいよな」
と戸田は言った。
彼の中にある、清太のような少年が、冷酷なまでに世界を断罪する。
「上層部は、自分たちの過ちを隠すために、俺たちにそのツケを払わせる。裁判も、法律も、歴史さえも、全部あいつらに都合のいいように書き換えられていく」
男は震える手で戸田の服を掴んだ。
「……お前は、どうする。そのブラックボックスを持って、どこへ行くんだ」
戸田は答えない。
ただ、路地裏の向こう、新宿の摩天楼を見上げた。眩い灯りが、雨の夜を不気味に照らしている。
そこには、過去の清算を放棄した人間たちが、何事もなかったかのように眠っている。彼らは戦後七十年、一度も国民に頭を下げることなく、自分たちが作った「安寧」に浸っているのだ。
「深見は、俺たちに『血で塗り替えろ』と言った」
戸田は男の手を振り払い、立ち上がった。
男の瞳から光が消えていく。戸田はその瞳を閉じてやった。これは優しさではない。システムという歯車から外れた、ただの死体に対する、せめてもの弔いだ。
男の死体から、同じ形の「鍵」がもう一つ転がり出た。二つを合わせると、箱は微かな機械音を立てて開いた。中には、データベースの断片ではなく、過去の戦争の記憶を隠蔽した、かつての「記録者」たちの実名リストが入っていた。
「……これが、彼らの本当の弱点か」
戸田は冷酷な笑みを浮かべた。
システムを支えているのは、法や正義ではなく、過去の汚点を隠し続けるための「恐怖」だ。それを暴くこと。それこそが、深見が望んだ「復讐」の形。
戸田は死んだ男の傍らに立ち、雨空を見上げた。
深見がどう思おうと関係ない。これは、深見のための仕事ではない。戸田自身が、この理不尽な世界で生きてきた自分自身を、せめてこの最後の一撃で「清算」するための物語だ。
「火垂るの墓」のような悲劇は、もう繰り返さない。死ぬなら、せめて彼らを地獄の道連れにしてからだ。
足音に気づき、戸田は身を潜めた。路地の入り口に、警官の影が映る。
戸田は懐からライターを取り出し、リストを焼き払う準備をした。データはすでにクラウドに自動送信されるよう設定済みだ。あとは、自分が「異物」として、この街をどれだけ汚せるか。
戸田は静かに、銃を握った。戦後という名の欺瞞の中で、ついに駒は自分の意思で銃を抜いた。
「さあ、祭りの時間だ」
誰に言うでもなく呟くと、戸田は警官の隊列に向かって、一歩ずつ、しかし確実な足取りで踏み出した。彼の背中には、この国が忘れてきた、重く冷たい歴史の影が、まるで炎のように揺らめいていた。
筆者注:毎度毎度、申し訳ありません。
破綻している部分は、読み飛ばして頂ければと存じます。
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