第七篇 毛利輝元近習の証言
この証言者は、名を明かさなかった。
筆録者の記録によれば、面会の場所は指定された。
京都郊外の、人気のない小さな社の境内。
証言者はすでに来ており、筆録者の顔を確認してから、ようやく口を開いたという。
以下に記すのは、その証言の全文である。
証言者については、毛利輝元に長年仕えた近習であること以外、何も明らかになっていない。
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——お時間をいただき、ありがとうございます。
まず確認させてください。
(低く、静かな声で)
これはどこかに出回るものですか。
——記録として残しますが、証言者の名前は一切明かしません。
毛利の名も、伏せていただけますか。
——できる限りそのようにいたします。
「できる限り」では困る。
(少し間を置いて)
……わかりました。それで構いません。
あなた方を呼んだのは——私の方だ。今さら怖じけても仕方がない。
ただ、この話は——殿にとって、不名誉になりかねない。
それだけが、心配なんです。
——どういう意味でしょうか。
殿は——関ヶ原へ行くつもりでした。
(はっきりと、しかし重く)
このことを知っている人間は、ほとんどいない。
——詳しくお聞かせください。
関ヶ原の数日前のことです。
大坂城の中で、私は殿のそばに仕えておりました。
その頃の殿は——今から思えば、戦う気でいた。
陣の配置を繰り返し確認されていた。兵糧の手当も、ご自身で細かく指示されていた。東軍と戦うための備えを、着々と進めておられた。
私はそれを見ながら——殿はやはり出陣されるのだと、思っていました。
——それが、変わった。
ある夜のことです。
使者が来ました。
夜遅く、人目を避けるようにして城に入ってきた。誰の使者かは——私には、その場ではわからなかった。
殿は私を含む近習を下がらせて、その使者と二人きりで話された。
どのくらいの時間だったか。一刻ほどだったかもしれない。
(少し間を置いて)
私は——廊下の外で、待っていました。
——使者が去った後、輝元様は。
長い間、部屋から出てこられなかった。
私がそっと様子を窺いに行くと——殿は文机の前に座って、一枚の書状を手に持ったまま、動かずにいた。
声をかけようとして——やめました。
殿の顔が、私が今まで見たことのない顔をしていたから。
——どのような顔でしたか。
……。
(しばらく考えて)
打ちのめされた顔、ではなかった。
怒った顔でも、悲しんだ顔でもなかった。
強いて言えば——何か大きなものの前に立たされた人間の顔、とでも言うのか。
こちらが声をかけてはいけないような。
その書状を——静かに読んでいた。何度も。
私は気配を消して、廊下に戻りました。
——書状の差出人は、誰でしたか。
……。
(長い沈黙)
これを言うべきかどうか、ずっと迷ってきました。
でも——あなた方はこのことを知るべきだと、私が呼んだのだから。
(静かに息を吸って)
翌朝のことです。
殿が書状を片付けようとされたとき——風で一枚、床に落ちた。
私が拾いに行きました。
拾う際に——見てしまったんです。
宛名を。
——誰でしたか。
大谷吉継様、でした。
(静かに、しかし確信を持って)
——大谷様から、輝元様へ。
はい。
殿はすぐに気づかれて、私の手から書状を取られた。
私の顔を見て、一瞬だけ——何かを言おうとされた。
でも何も言わなかった。
ただ「ご苦労」とだけおっしゃって、部屋に戻られた。
——その後、輝元様の様子は変わりましたか。
変わりました。
はっきりと。
それまで進めていた出陣の準備が——止まった。
兵糧の指示も、陣の確認も、ぴたりとなくなった。
代わりに殿は、城の奥にこもって、何かを書き続けておられた。
誰への書状かは、わかりません。
ただ——何枚も。何枚も。
——恵瓊様は「輝元様を動かさないよう、自分が計画していた」とおっしゃっていました。
……。
(少し表情が変わる)
恵瓊様がそうおっしゃったのですか。
——はい。輝元様を守るために、大坂城から出さないつもりだったと。
(長い沈黙)
恵瓊様は——嘘をついておられるわけではないと思います。
そのつもりでいたのでしょう。
ただ——。
(慎重に言葉を選びながら)
殿を動かさなかったのは、恵瓊様の計画ではなかった。
少なくとも、あの夜のことを見ていた私には、そう思えます。
殿は恵瓊様に止められたのではない。
大谷様の書状を読んで——自分で、止まったんです。
——書状の内容は、ご存知ですか。
見ていない。見ようとも思わなかった。
ただ——。
(少し迷ってから)
翌朝、殿が書状を手に持って窓の外を見ておられたとき、独り言のようにおっしゃった言葉があります。
私が傍にいることに、気づいておられなかったのかもしれない。
——なんとおっしゃいましたか。
「刑部は——全部、わかっておるのだな」と。
それだけでした。
独り言だったから、返事はしませんでした。
でもその声の色が——私には忘れられない。
——どのような色でしたか。
怒りでもなく、悲しみでもなく。
……安堵、に近かった。
(首を傾げながら)
なぜ安堵されたのか、私にはわからなかった。
出陣できなくなったのに。西軍の総大将でありながら、大坂城に留まることになったのに。
なぜ——安堵されたのか。
今も、わかりません。
——書状の内容について、推測されることはありますか。
……一つだけ。
これは私の想像に過ぎません。
(静かに、しかし確信を持って)
大谷様は殿に——「動かなくていい」とおっしゃったのではないかと思っています。
——なぜそう思われるのですか。
殿が安堵されたからです。
毛利という家を守りたい。しかし西軍の総大将として担ぎ出された以上、動かなければ臆病者と言われる。
その板挟みの中に、殿はずっとおられた。
そこへ大谷様から書状が来た。
「動かなくていい」と言われた。
そして——「それが正しいのだ」と、言われた。
殿の安堵は、そういうことだったのではないかと。
——大谷様が、輝元様に「留まれ」と指示したということですか。
指示ではないと思います。
(少し考えて)
大谷様はそういう方ではなかった、と聞いています。
命令ではなく——「あなたの本心はこうでしょう。それで構わない」と。
そう言える人だったと。
殿は誰かにそう言ってもらうことを、ずっと待っておられたのかもしれない。
——輝元様はその後、どのような様子でしたか。
穏やかになられました。
関ヶ原が終わり、西軍が敗れ、殿が臆病者と陰口を叩かれるようになっても——殿は何もおっしゃらなかった。
弁明もされなかった。
私は一度だけ、「殿、真実を話されるべきではないですか」と申し上げたことがあります。
殿は静かに首を横に振られました。
「話す必要はない」と。
——なぜ、と問われましたか。
はい。
殿はしばらく間を置いてから——こうおっしゃいました。
「刑部が知っておる。それで十分だ」と。
(少し声が震えて)
大谷様はすでに、関ヶ原で亡くなっておられた。
もうこの世におられない方が「知っておる」——それで十分だと、殿はおっしゃった。
私はそのとき——涙が出そうになった。
堪えましたが。
——最後にお聞きします。輝元様が大坂城に留まったことは——正しかったとお思いですか。
私には判断できません。
武将として正しかったかどうかは——わからない。
ただ。
(静かに、しかしはっきりと)
殿は毛利という家を守った。
関ヶ原から二十年以上経った今も、毛利の家は続いている。
恵瓊様は処刑された。三成様も。小西様も。
殿だけが——生きている。
大谷様が書状に何を書かれたのかは、私は知らない。
でも殿が生きていることが——大谷様の望んだことの一つだったとしたら。
(少し間を置いて)
それは正しかったのだと、私は思いたい。
殿のために。
それだけのために——今日、ここへ来ました。
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証言者はそこで立ち上がり、深く頭を下げた。
そのまま社の鳥居の方へ歩いていき——一度だけ、振り返った。
「大谷様の手記が見つかったそうですね」
筆録者が頷くと、証言者はしばらく空を見上げてから、こう言った。
「殿に、読ませてあげたかった」
それが最後の言葉だった。
証言者の名は、今も明らかになっていない。
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