第五篇 脇坂安治の証言
脇坂安治は、西軍の将である。——いや、そう書くべきかどうか。
関ヶ原において脇坂は、当初西軍として布陣しながら、戦いの最中に東軍へ寝返った。
小早川秀秋の離反とほぼ同時刻、松尾山の西側で突如として東軍への攻撃に転じた。
この裏切りは西軍の崩壊を決定的にしたと、後の史家たちは記している。
戦後、脇坂は東軍への内応を評価され、所領を安堵された。
家は存続した。子も孫も生きた。
だが脇坂安治という人間が、その後どのように生きたかを記録した文書は、ほとんど残っていない。
以下の証言は、関ヶ原から数年後、脇坂の居城にて行われた。
筆録者によれば、安治は終始、窓の外を見ながら話したと記している。
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——本日はお時間をいただき、ありがとうございます。
あなた方が来ることは、わかっていた。
(窓の外を見たまま)
遅かったくらいだ。もっと早く来ると思っていた。
——どういう意味でしょうか。
大谷の話を聞きに来るなら、私のところへ来ないわけがない。そう思っていた。
私は——あの戦いで、大谷の前で東軍へ寝返った男だから。
(ようやくこちらを向いて)
遠慮はいらない。裏切り者と呼んでくれて構わない。今さら気にしない。
——では単刀直入に伺います。なぜ西軍を裏切ったのですか。
家を守るためだ。
それ以外の理由はない。
家康が勝つと読んだ。三成では勝てないと判断した。武将として当然の判断だ。
——事前に家康様と内通されていたと聞きましたが。
……そういう話もある。
——「そういう話もある」というのは。
あったかもしれないし、なかったかもしれない。私の口からは言えない。
ただ——関ヶ原のあの日、私が東軍へ動いたのは、その場での判断だった。それだけは確かだ。
——その場での判断、と。
そうだ。
霧が晴れてきた頃から、戦況は見えていた。小早川が動く気配があった。毛利は大坂から出てこない。西軍の将たちの目が、既に死んでいた。
私は武将だ。勝てない戦に付き合って、家を潰す義理はない。
——義理はない、とおっしゃいますが——大谷様とは。
(少し間が空く)
……知っている。聞きたいのはそこだろう。
私の陣は、大谷の陣のすぐそばだった。
東軍へ動く前に——目が合った。
——詳しく話していただけますか。
大した話じゃない。
ただ目が合っただけだ。戦場ではよくあることだ。
——その目が合った瞬間のことを、もう少し。
……。
(長い沈黙)
大谷は輿の中にいた。病が重くて、馬に乗れなかった。輿の中から指揮をしていた。
私が東軍へ動こうと決めた瞬間——輿の帷が少し開いて、大谷と目が合った。
遠かった。はっきり見えたわけじゃない。
でも——確かに、見えた。
——大谷様の目が。
ああ。
(窓の外へ視線を戻す)
止められると思った。叫ばれると思った。「脇坂、裏切り者」と怒鳴られると思った。
そうしてくれたら、よかった。
——どういう意味ですか。
怒鳴られたら——私はまだ、憎むことができた。
大谷を。自分を。この戦を。何かを憎めば、楽になれた。
でも大谷は怒鳴らなかった。
叫びもしなかった。
ただ——。
——ただ、何を。
(静かに、絞り出すように)
頷いた。
小さく。ほんの少し。
そう見えた。
——頷いた、と。
そう見えたと言っている。気のせいかもしれない。遠かったし、戦場だった。見間違いかもしれない。
私はずっとそう思おうとしてきた。
——でも、違うと。
……違うと思っている。
(声が低くなる)
大谷は知っていたんだ。私が寝返ることを。
いつから知っていたのかはわからない。事前に内通していたかどうかも、私には言えない。
ただあの目は——知っていた人間の目だった。
驚いていなかった。怒っていなかった。
ただ静かに——見ていた。
——それが、なぜ「頷いた」という記憶になったのでしょう。
…………。
(長い沈黙。窓の外で風が吹く音がする)
わからない。
ただ私には——許された、と感じた。
あの瞬間に。
大谷に。
(声が微かに揺れる)
それが——一番、辛かった。
——辛かった、とおっしゃいますか。
怒られた方がよかった。
憎まれた方がよかった。
裏切り者と罵られて、戦場で斬られた方が——ずっと、よかった。
でも大谷は頷いた。
お前の事情はわかっている。お前が何を守りたいかもわかっている。行け。そう言われた気がした。
(拳を膝の上で握る)
私は家を守った。所領を守った。子を守った。
全部、守った。
なのに——あの目が、頭から消えない。
二十年近く経っても。まだ。
——後悔されているのですか。
後悔という言葉では足りない。
(少し考えて)
後悔というのは、「あのときこうすればよかった」という気持ちだろう。
私にはそれがない。
あのとき東軍へ動かなければ、家は潰れていた。子は路頭に迷っていた。正しい判断だったと、今も思っている。
でも——大谷の目が消えない。
正しい判断をした人間の目には、あの目は残らないはずだろう。
残るということは——。
(言葉を飲み込む)
——残るということは、何でしょうか。
……。
言えない。
言ってしまったら、私はこの二十年間、何のために生きてきたかわからなくなる。
——大谷様が、あなたが裏切ることを事前に知っていたとしたら——それはどういう意味だと思いますか。
考えたくない話だ。
——でも、考えてきた。
……。
(長い沈黙の後、静かに)
大谷は——西軍を負けさせたかったのかもしれない。
——どういうことでしょうか。
三成を勝たせることが目的じゃなかった。
家康に勝たせることも、もちろん目的じゃない。
ただ——何かを見届けることが、目的だった。
そのためには、自分が負ける側にいなければならなかった。
私が寝返ることを知っていて、止めなかった。
むしろ——。
(そこで止まる)
——むしろ、必要だったと。
そう思いたくない。
私が裏切ったことが、大谷の計算の内だったとしたら——私は二十年間、あの目に囚われてきたことになる。
大谷が仕組んだ舞台の上で、私は役を演じただけだったことになる。
(静かに、しかし強く)
それだけは——認めたくない。
私はあの日、自分の意志で動いた。大谷に許されたかったわけじゃない。
そうじゃなければ——私の二十年間が、ただの道具だったことになる。
——最後に伺います。大谷様は何のためにあの戦いに立ったとお思いですか。
……私が答える資格があるかどうか。
(しばらく黙って、それから静かに)
あの男は——人間というものを、信じていたんじゃないか。
最後まで。
私のような裏切り者も含めて。
私が寝返ることを知っていて、それでも頷いた。憎まなかった。
なぜ憎まないのかと——今でも腹が立つことがある。
憎んでくれればよかった。憎まれた方が、私は楽に生きられた。
でも大谷は——人が弱いことを、醜いことを、ずっと前から知っていた。知っていた上で、それでもこの世に何かを見ようとしていた。
(窓の外を見たまま、独り言のように)
そういう男だった。
……そういう男に、私は最後に会った。
それだけは——よかったと思っている。
よかったと思うことが、また辛いのだが。
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脇坂安治はそれ以上、何も語らなかった。
筆録者が辞去の挨拶をしても、窓の外を見たまま動かなかったと記している。
廊下へ出たとき、脇坂の家臣がそっと近寄ってきて、小声で言ったと筆録者は書き添えている。
「殿はあの話をされると、必ず夜に眠れなくなります。
それでも話してくださったのであれば——よほど、話したかったのでしょう」
脇坂安治は、この証言の翌年に没した。
享年六十三歳。
辞世の句は、残っていない。
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