第四篇 松の丸殿の証言
松の丸殿は、豊臣秀吉の側室である。
京極家の出身で、その教養と気品から秀吉の寵愛を受けた。
秀吉の死後は豊臣家に留まり、淀殿を支える立場として大坂城に仕えた。
大谷吉継とは、豊臣政権下において幾度となく言葉を交わしたとされる。
宮廷の女性が武将と深く言葉を交わすことは、通常多くはない。
だが松の丸殿だけは例外だったと、周囲の女官たちの記録に残っている。
以下の証言は、関ヶ原から数年後、松の丸殿が京都・東山に構えた庵にて行われた。
豊臣家の滅亡後、松の丸殿は出家し、余生を静かに過ごしていた。
筆録者が訪ねたとき、殿はひとりで縫い物をしていたと記している。
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——遠いところをお訪ねしてしまい、申し訳ございません。
いいえ。
最近は訪ねてくる人もほとんどおりませんから、かえって。
(針を置いて)
大谷様のことを聞きに来られたのですね。その顔を見ればわかります。
皆、同じ顔をして来られるから。
——以前にも、同様の方が。
二人ほど。いずれも、大谷様の旧臣という方でした。主君のことを知りたくて、方々を訪ねて歩いておられた。
私が話せることはわずかですが——それでも話しておきたいと、そのときから思っていました。
女の見たことなど、歴史の役には立たないかもしれない。でも、女にしか見えないこともある。
そう思っておりますので。
——松の丸殿が大谷様と初めてお会いになったのは、いつ頃のことですか。
豊臣の世の、まだ明るい頃のことです。
秀吉様がご壮健で、天下が一応の落ち着きを見せていた頃。大谷様はまだ若く、奉行として城中を忙しく歩き回っておられた。
最初に言葉を交わしたのは——そう、ある茶会の席でした。
秀吉様の御前で、様々な方が集まる大きな茶会でしてね。私は女官として末席に控えておりましたが、宴が進むうちに人の輪から少し外れて、縁側で夜風に当たっておりました。
そこへ大谷様が来られた。
同じように、人の輪から外れて。
——最初から、病を患っておられましたか。
その頃すでに、顔に薄く布を当てておられました。ただ今から思えば、まだ軽かった。声も通っていたし、所作にも力があった。
縁側で並んで、しばらく庭を見ていました。
私が「美しい夜ですね」と申し上げたら、大谷様は少し間を置いてから「そうですね」とおっしゃった。
それだけのことなのですが——その「そうですね」の言い方が、妙に心に残って。
——どのような言い方だったのでしょう。
……同意ではなかった。
「美しい」という言葉を、初めて聞いたような——そういう言い方でした。
美しいという感覚を、誰かと共有できることへの、静かな驚きのような。
(少し遠い目をして)
大げさに聞こえるかもしれませんね。
ただそれ以来、城中でお目にかかるたびに、大谷様は必ず会釈をしてくださった。それだけのことです。でも私にとっては——なぜか大切な関係でした。
——病が重くなられてからの大谷様は、いかがでしたか。
変わられませんでした。
それが——正直、不思議でした。
顔を覆う布は厚くなり、歩かれる様子も辛そうになっていった。城中でも、あの方を怖がる者が増えていた。人の目というのは残酷なもので、露骨に避ける者もいた。
私もある日、廊下でお会いしたとき、傍にいた若い女官が後ずさりするのを見てしまった。
大谷様は見ておられたと思います。
でも何もおっしゃらなかった。ただ静かに頭を下げて、通り過ぎた。
私はその後ずさりした女官を叱りました。ひどく叱った。自分でも驚くほど、腹が立ってしまって。
翌日、大谷様にお会いしたとき、申し訳ありませんでしたと申し上げました。すると大谷様は首を横に振られて——。
——なんとおっしゃいましたか。
「松の丸殿、人は怖いものを避けます。それは仕方のないことです。ただ——」
(少し声が変わる)
「ただ、あなたが怒ってくださったことは、嬉しかった」と。
そうおっしゃって、また静かに歩いていかれました。
私はその後しばらく、その場から動けなかった。
嬉しかった、という言葉の重さが——胸に残って。
あの方はずっと、誰かに怒ってもらうことさえ、望めない場所におられたのだと思ったから。
——関ヶ原の前夜のことを、お聞かせいただけますか。
……。
(長い沈黙)
話すべきかどうか、ずっと迷っておりました。
二人の旧臣の方が来られたときも、これだけは申し上げなかった。
——もちろん、お話しいただけない部分があれば——
いえ。
話します。
あの夜のことを黙っていても、何も変わらない。大谷様はもうおられない。豊臣家もない。私にはもう、守るものが何もない。
(静かに息を整えて)
関ヶ原の前日、私は大坂城におりました。
西軍の将たちが出陣していった後の城は——がらんとして、妙に静かでした。戦の前というのに、人がいなくなってしまったみたいで。
その夜遅く、私は用があって城の渡り廊下を歩いておりました。
庭に面した廊下の途中で——人が座っているのが見えた。
灯りも持たず、暗がりの中にひとりで。
——大谷様でしたか。
はい。
翌日の出陣を前に、なぜ城内におられたのかはわかりません。誰かに会いに来られたのか、あるいは——ただ、ひとりでいたかったのか。
声をかけるべきかどうか、一瞬迷いました。
でも——。
(声が少し乱れる)
肩が、震えていたんです。
——泣いておられた。
……はい。
声は聞こえませんでした。ただ、肩が小さく——。
私は声をかけられなかった。かけてはいけない気がした。あの方がひとりでいることを、選んでおられる気がしたから。
柱の陰でじっとして、どうしようかと思っていたら——大谷様が顔を上げられた。
気づかれていたんです。最初から。
「松の丸殿か」と、静かにおっしゃいました。
——なんとお答えになりましたか。
「はい」とだけ。それしか言えなかった。
大谷様はしばらく黙っておられた。私も黙っていた。庭では虫が鳴いていました。
それからおもむろに、大谷様が口を開かれた。
「明日、私は関ヶ原へ参る」と。
わかっております、と申し上げました。
「戻らないかもしれない」と。
……そのように聞いております、と申し上げました。
(間)
大谷様はそこで少し、笑われた。
「戻らないかもしれない、と言うと、皆、励ましてくれるか、泣いてくれる。あなたは『そのように聞いております』と言う。それが——ありがたい」と。
——励ましも慰めも、望んでおられなかった。
そう思います。
あの方はずっと、事実を事実として受け取ってくれる人を——求めておられたような気がします。
病のことも、戦のことも、生死のことも。
「かわいそう」でも「大丈夫」でもなく、ただ——そうですね、と言ってくれる人を。
(少し間を置いて)
その後、私たちはしばらく、とりとめのない話をしました。
庭の木のこと、昔の茶会のこと、秀吉様がご壮健だった頃のこと。
まるで戦の前夜ではないような、ごく普通の話を。
でも最後に——大谷様が一度だけ、こうおっしゃいました。
——なんと。
「三成のことを、頼む」と。
私は少し驚いて、「私にできることがあれば」と申し上げた。
大谷様は首を横に振られた。
「何かしてほしいわけではない。ただ——覚えていてほしい。あの男が何を信じて、何のために立ったかを。誰かが覚えていてくれれば、それでいい」と。
(静かに、しかしはっきりと)
私は「覚えております」と申し上げました。
大谷様は「そうか」とだけおっしゃって、立ち上がられた。
暗い廊下を歩いていかれる後ろ姿を、私はずっと見ておりました。
振り返られなかった。
それが——最後でした。
——大谷様が泣いておられた理由を、どうお思いになりますか。
……三成様のためだと、最初は思いました。
盟友が、負けると知りながら旅立っていく。その悲しみで泣いておられたのだと。
でも今は、少し違う気がしています。
——と、おっしゃいますと。
大谷様は——この世が、悲しかったのではないかと。
三成様ひとりのことではなく、もっと大きな何かが。
この国で、筋を通した人間がことごとく潰されていく。誠実であるほど、損をしていく。賢いほど、孤独になっていく。
そういうことが——悲しかったのかもしれない。
(少し間を置いて)
私はただの女官です。戦のことも、政のことも、何もわかりません。
ただあの夜の肩の震えは——怒りでも、恐れでもなかった。
あれは確かに、悲しみでした。
もっと言えば——慈しみのような。
この世のすべてを、哀れんでいるような。
そういう泣き方でした。
——最後にひとつだけ。大谷様から何かいただいたものはございますか。
……。
(立ち上がって、奥へ入り、しばらくして戻ってくる)
これだけです。
(小さな、古い文を差し出す)
あの夜の少し前に、届きました。大谷様の筆で、一言だけ書いてあった。
——読み上げても。
どうぞ。
「秋の夜、一人で見る月も、誰かと見る月も、同じ月である。されど、同じではない」
(静かに)
それだけです。
何の説明もなかった。なぜ送ってこられたのかも、わからなかった。
でも受け取ったとき——なぜか、泣けてきた。
今も理由はわからない。
ただ、この文だけは、死ぬまで手放せないと思っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
松の丸殿は、その後しばらく無言で縫い物を続けた。
筆録者が辞去の挨拶を述べると、静かに顔を上げてこう言ったと記している。
「大谷様の手記が見つかったと聞きました。本当ですか」
筆録者が「はい」と答えると、松の丸殿はただ小さく頷いた。
「そうですか。——よかった」
それ以上は、何もおっしゃらなかった。
松の丸殿は翌年、この庵で静かに没した。
享年、不詳。
縫い物の傍らに、あの文が折りたたんで置かれていたと、庵の僧侶が記している。
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