第十一篇 徳川家康側近の証言
この証言者は、名を明かさなかった。
面会の条件として、場所の記載も、日時の記載も、一切を禁じた。
筆録者はそれらすべての条件を受け入れた上で、この証言を得た。
証言者について明らかなのは、徳川家康に長年仕えた側近であること、関ヶ原の前後を通じて家康の最も近くにいた人物であること——ただそれだけである。
面会は夜に行われた。
場所については、記さない。
証言者は筆録者が入室する前から、すでに暗がりの中に座っていた。
灯りをつけようとすると、「このままで構わない」と言った。
顔を見られることを、拒んでいた。
あるいは——顔を見せることなく話すことで、この証言が「なかったこと」にできる余地を、残したかったのかもしれない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
——本日はお時間をいただき、ありがとうございます。
時間は限られている。
(暗がりの中から、静かな、しかし刃のような声で)
私がここへ来たのは、義務からではない。
あなた方の記録が、正しいものになってほしいからだ。
正しいものになるためには——私が話さなければならないことがある。
それだけの理由で、ここにいる。
——大谷吉継様のことを。
そうだ。
ただ——私が話せるのは、家康様が大谷様についてどうおっしゃっていたか、だけだ。
大谷様本人については、私は一度もお会いしていない。
遠くから何度か、拝見したことがある程度だ。
——遠くから見て、どのような印象でしたか。
……。
(少し間を置いて)
病を患っておられることは、見てわかった。
布を顔に当てて、輿で移動されていた。
でも——その輿の周囲の空気が、違った。
護衛の兵たちの顔が、違った。
主君を守っているというより——主君のそばにいることを、誇りに思っているような顔だった。
そういう顔を部下にさせる主君が、どれほどいるか。
(静かに)
私は家康様にお仕えしてきた。
家康様の部下たちも、誇りを持って仕えている。
だが——大谷様の兵たちの顔は、また別の種類の誇りだった。
何が違うのか、うまく言えない。
ただ違うということだけは——はっきりとわかった。
——家康様が大谷様について語られた場面をお聞かせください。
二度ある。
一度目は関ヶ原の前、二度目は関ヶ原の後だ。
順に話す。
——お願いします。
一度目は、大谷様が西軍についたと報告が入ったときのことだ。
私は家康様の傍らにいた。
斥候からの知らせが届いた。「大谷吉継、西軍に参じる模様」と。
家康様は報告を聞いた後、しばらく動かれなかった。
そういうことは、珍しかった。
家康様は報告を受けると、すぐに次の指示を出される。間を置かれることは、ほとんどない。
でもあのときだけは——動かなかった。
(少し間を置いて)
しばらくして、傍にいた者を全員下がらせた。
私だけが残った。
——なぜあなただけが。
わからない。
長年仕えているから、気を許していただいていたのかもしれない。
あるいは誰かに傍にいてほしかったが、誰にも見せたくなかったのかもしれない。
家康様は立ったまま、窓の外を見ておられた。
しばらくして——「吉継が来るか」とだけおっしゃった。
独り言のような言い方だった。
——その声は、どのようなものでしたか。
……。
(長い沈黙)
怖れていた。
(静かに、しかし確信を持って)
あの声は——怖れていた。
私は家康様に長年仕えてきた。
恐怖と怒りと喜びと悲しみ——すべての感情を、傍で見てきた。
あのときの声は——怖れだった。
間違いなく。
——家康様が、怖れておられた。
それだけではない。
(少し躊躇ってから)
もう一つ——別の感情が混じっていた。
——何でしょうか。
……口にするのが難しい感情だ。
(長い間)
羨望、に近かった。
——羨望。
家康様は——大谷様を羨んでおられた。
私はそう感じた。
なぜそう感じたか、うまく説明できない。
ただ「吉継が来るか」というあの声には、怖れと同時に——何か、眩しいものを見るような色があった。
(静かに、しかし力を込めて)
家康様は何十年もかけて、天下を手に入れた。
誰よりも長く、誰よりも慎重に、誰よりも多くのものを犠牲にして——天下を手に入れた。
それが正しかったと、私は今も信じている。
だが——大谷様は、そういう生き方をしなかった。
天下を求めなかった。長く生きることも求めなかった。
ただ——自分が正しいと思う場所に、立った。
家康様はそれを、長年できなかった方だ。
できなかったから、天下が取れた。
でもあのとき一瞬だけ——できなかったことへの、何かが。
(そこで言葉を止めて)
……これ以上は、私の憶測だ。
家康様に失礼になる。
——二度目のお話をお聞かせください。関ヶ原の後のことですね。
そうだ。
関ヶ原が終わり、東軍が勝利した。
戦後の処理が続く中で、ある夜——家康様が私を呼ばれた。
他の者は下がらせて、二人きりで話したいとおっしゃった。
——珍しいことでしたか。
あることはあった。
ただあのときは——様子が違った。
部屋に入ると、家康様は文机に向かっておられた。
何かを書いておられるのかと思ったら——ただ座っているだけだった。
筆も、紙も、何もなかった。
ただ机に向かって、座っておられた。
——何とおっしゃいましたか。
しばらく何もおっしゃらなかった。
私は傍に控えて、待っていた。
どのくらい経ったか——家康様がおもむろに口を開かれた。
「大谷が、最後に何か言ったか知っているか」とおっしゃった。
——なんとお答えになりましたか。
知る限りのことを申し上げた。
「これでよい」とおっしゃったと伝わっております、と。
家康様はそれを聞いて——目を閉じられた。
しばらく、目を閉じたままでいた。
(静かに)
私は何も言えなかった。
あの方が目を閉じているとき、声をかけてはいけない気がした。
何かを——受け取っておられた。
あの言葉を。
「これでよい」という言葉を。
——家康様はどのくらい、目を閉じておられましたか。
随分と——長かった気がする。
実際はそれほどでもなかったかもしれない。
でも私には、とても長く感じられた。
それほど——深いところへ、行っておられた。
(少し間を置いて)
目を開けられたとき、家康様の顔が——少し変わっていた。
——どのように。
……何かを、置いてきたような顔だった。
背負っていた何かを——あの沈黙の中で、置いてきたような。
それが何かは、わからない。
ただ・・・目を閉じる前と、開けた後では、違う顔をしておられた。
それだけは確かだ。
——家康様はその後、何かおっしゃいましたか。
一言だけ。
「大谷は、わかっておったのだな」とおっしゃった。
——何がわかっていた、とおっしゃったのでしょうか。
わからない。
私は聞けなかった。
(静かに、しかし重く)
聞いてはいけない気がした。
あの言葉は——私に向けて言ったのではなかった。
家康様が、大谷様に向けて言った言葉だった。
私はたまたまそこにいただけで——あの言葉を受け取るべき相手は、もうこの世にいなかった。
だから私は——黙って、頭を下げた。
それだけが、私にできることだと思って。
——「大谷はわかっておった」、何が、わかっていたとお思いですか。
……。
(これまでで最も長い沈黙が、暗がりの中に続く)
私は武士だ。
長年、権力の中枢にいた。
人が何を求め、何を恐れ、何のために動くか——それを見続けてきた。
大谷様が何をわかっておられたか、私には正確にはわからない。
ただ——。
(静かに息を吸って)
家康様は、天下を取った後も——怖れ続けておられた。
誰かに奪われることを。何かが崩れることを。
それは仕方のないことだ。天下とはそういうものだ。
大谷様は——その怖れを、持たなかった。
奪われるものを、最初から持とうとしなかった。
家康様が一生かけて手に入れようとしたものを、大谷様は最初から必要としていなかった。
(静かに、しかし確信を持って)
「大谷はわかっておった」という言葉は——。
天下を取っても手に入らないものが、何かあるということを。
大谷様はそれを知っていて、家康様はそれを——関ヶ原が終わってから、初めて気づいた。
そういうことではないかと、私は思っている。
——大谷様の手記が、永源寺で見つかったと聞いております。
知っている。
(即座に)
——ご存知でしたか。
私のところへも——話は入ってくる。
(少し間を置いて)
家康様は、ご存命であれば——読みたいとおっしゃったかもしれない。
それとも、読まずにおいたかもしれない。
どちらかはわからない。
——あなた様はいかがですか。
……。
(長い沈黙)
読みたい。
(静かに、しかし迷いなく)
ただ——読む資格が私にあるかどうかは、わからない。
私は東軍の人間だ。
家康様にお仕えしてきた。
大谷様が命をかけて守ろうとしたものを、ある意味で私たちが壊した側だ。
——そうは思いません。
あなたは優しいことを言う。
(かすかに、暗がりの中で笑う気配がして)
でも私は——ずっとそう思ってきた。
家康様が目を閉じておられたあの夜から、ずっと。
あの沈黙の意味を、私はまだ理解しきれていない。
理解しきれないまま、ここまで生きてきた。
(静かに)
大谷様の手記を読めば——わかるかもしれない。
あの沈黙の中で、家康様が何を置いてきたか。
「大谷はわかっておった」という言葉が、何を指していたか。
(少し間を置いて)
読ませていただけるなら——読みたい。
それだけを、お伝えしておく。
——最後にお聞きします。大谷吉継様は、何のためにあの戦いに立ったとお思いですか。
……私が答える立場にない問いだが。
(しばらく暗がりの中で沈黙して)
一つだけ——思うことがある。
家康様は天下を取った。
その天下は、長く続くだろう。子へ、孫へ、ずっと続いていくだろう。
だが——天下が続く間も、誰かがあの問いを立てなければならない。
天下とは何か。勝つことと、正しいことは、同じか。
力で手に入れたものと、筋を通して失ったもの——どちらが本当に価値があるのか。
(静かに、しかし重く)
大谷様は——その問いを、この世に残した。
負けることで。
死ぬことで。
「これでよい」という言葉で。
家康様の天下がどれほど続こうとも——その問いだけは、消えない。
消えないように——大谷様は、あの場所に立ったのではないかと。
私は——そう思っている。
(静かに立ち上がる気配がして)
もういいか。
言うべきことは、言った。
——ありがとうございました。
礼はいい。
(少し間を置いて)
記録を、正しく残してほしい。
それだけだ。
大谷様が立てたあの問いを——この記録が、消さないようにしてほしい。
それだけを、頼む。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
証言者は立ち上がり、暗がりの中を歩いて部屋を出た。
筆録者が灯りを持って後を追ったとき——廊下には、もう誰もいなかった。
この証言者が誰であるか、今も明らかになっていない。
ただ筆録者はこう書き添えている。
「部屋を出た後、私はしばらく動けなかった。暗がりの中から聞こえてきたあの声が、頭から離れなかった。怖れと羨望——その二つの感情が家康という人間の中に同時にあったとするならば。大谷吉継とはいったい何者だったのか、という問いが、今まで以上に大きく、胸の中に広がっていた」と。
家康が目を閉じたあの夜、部屋の中で何が起きたか。
その沈黙の意味を知る者は——この世に、もう一人もいない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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