この記録について
慶長二十年(一六一五年)夏、豊臣家が滅亡した。
大坂城は炎に包まれ、秀吉の遺した天下は完全に徳川のものとなった。戦国の世は終わり、日本は長い平和の時代へと入っていく——。
これが歴史の教えるところである。
だが同じ年の秋、近江国の古刹・永源寺の僧侶たちは、本堂裏の古い蔵を整理していた折、奇妙なものを発見した。
埃をかぶった木箱のなかに、丁寧に束ねられた一群の書簡と記録文書。
差出人も、宛名もない。
ただ巻頭の一枚に、墨痕鮮やかにこう記されていた。
『刑部はすべてを知っていた。』
刑部とは、大谷吉継のことである。
関ヶ原の戦いにおいて西軍として戦い、敗れ、この地に散った武将だ。
文書の束を丁寧に読み解いた僧侶たちは、やがてその正体を理解した。これは、関ヶ原合戦に関わったおよそ十四名の人物が、それぞれに語った証言の記録だった。いつ、誰が集めたのか。記録者の名はどこにもない。
証言者たちはすでに、ほぼ全員が死んでいた。
本書は、その証言記録の現代語訳である。
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この記録を読むにあたって
■関ヶ原とはなにか
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日。日本の歴史において、これほど多くの人間が一日で命運を決した日はない。
美濃国関ヶ原——現在の岐阜県——に、東西合わせて八万を超える兵が集結した。
東軍の総大将は徳川家康。西軍の実質的な指導者は石田三成。豊臣秀吉の死後(一五九八年)、天下の実権をめぐる対立が、ついに合戦という形で決着を迫られた日だった。
戦いはわずか半日で終わった。東軍の勝利。
この結果により、徳川家康は事実上の天下人となり、三年後に江戸幕府を開く。以降、二百六十年にわたる徳川の世が続くことになる。
これが教科書に載る関ヶ原である。
■石田三成とはなにか
豊臣秀吉の側近として天下統一を支えた行政官。
卓越した能力と誠実な性格を持ちながら、武功を誇る武将たちからは「融通が利かない」と強く憎まれた。秀吉の死後、徳川家康の台頭に危機感を抱き、諸大名を糾合して西軍を組織する。しかし関ヶ原の戦いに敗れ、捕縛の末に京都・六条河原で処刑された。享年四十一歳。
後世、「義に生きた男」として再評価される一方、「負け戦を仕掛けた戦略的失敗者」という批判も根強い。
彼自身の証言は、本記録の第九篇に収録されている。
■大谷吉継とはなにか——そして、なぜ謎なのか
本記録が問い続ける男の名は、大谷吉継。官職名を刑部少輔といい、「刑部」の通称で呼ばれた。
豊臣政権下で行政官として頭角を現し、その能力は石田三成と並び称された。武将としても優秀で、朝鮮出兵においては卓越した統率力を見せた。
だが関ヶ原前夜、大谷吉継は奇妙な立場にいた。
徳川家康とは個人的な親交があり、東軍についてもおかしくない状況にあった。さらに彼は当時、すでに重篤な病を患っていた。ハンセン病とも伝わるその病は、彼の顔貌を蝕み、視力をも奪いつつあった。余命は長くないと、本人も悟っていたとされる。
それでも大谷吉継は、西軍についた。
盟友・石田三成に「この戦いは勝てない」と告げながら——それでも共に立つと決めた。
なぜか。
この問いに対し、十三人の証言者はそれぞれ異なる答えを示す。友情のため、という者がいる。豊臣家への忠義のため、という者がいる。家康への対抗心のため、という者もいる。
しかしどの答えも、どこか釈然としない。
唯一、全員が一致して口にすることがある。
「大谷吉継だけが、すべてを知っていた」
知っていたとは——なにを、か。
それを知るために、この記録は存在する。
■証言者一覧
第一篇 湯浅五助
大谷家家臣。関ヶ原において主君の首を自ら埋めた男。大谷吉継の最期を最も近くで見た人物。
第二篇 黒田長政
東軍武将。かつて大谷吉継と盟友関係にあったが、関ヶ原では敵陣に立った。「なぜ吉継は私を誘わなかったのか」と語る。
第三篇 今井宗薫
堺の豪商。東西両陣営に出入りし、情報と金を操った人物。大谷吉継の「知性」を最もよく理解していたとされる。
第四篇 松の丸殿
豊臣家の女官。関ヶ原前夜、大谷吉継と言葉を交わした数少ない人物のひとり。
第五篇 脇坂安治
西軍武将。戦いの最中、東軍へ寝返った人物。「裏切る直前、大谷様と目が合った」と語る。
第六篇 安国寺恵瓊
毛利家の外交僧。西軍結成の立役者でありながら、「毛利輝元が動かなかった理由」を知る数少ない人物。
第七篇 毛利輝元近習
名を伏せた証言者。「殿は関ヶ原へ向かうつもりだった。ある書状が届くまでは」と語る。
第八篇 小西行長
西軍武将。キリシタン大名として知られる。「誰も三成に本当のことを言えなかった。言えた人間が一人だけいた」と語る。
第九篇 石田三成
西軍の実質的指導者。処刑前に記されたとされる独白。「吉継は私を止めようとした。私が聞かなかっただけだ」。
第十篇 福島正則
東軍武将。武断派の中心人物。「家康殿は、大谷吉継だけを恐れていた」と断言する。
第十一篇 徳川家康側近
名を伏せた証言者。家康の本音を唯一知る人物。「家康様は一度だけ、大谷吉継の名を口にされた」。
第十二篇 平塚為広
大谷軍の副将。最後まで主君と共に戦い、共に散った武将。「大谷様は最後にこう言いました。『これでよい』と」。
第十三篇 大谷吉継
永源寺の蔵に眠っていた、唯一の肉筆手記。
関ヶ原前夜に記されたとされるこの文書だけが、すべての証言が指し示してきた問いに——答える。
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証言記録は以上、十三篇。
本記録を編んだ者の名は、いまも不明のままである。




