2-2.皮肉屋のたとえ話
琉聖は改めて伊達家のほうへと目を向ける。
すっかり夏らしくなった太陽の光が、立派な邸宅から十数段の階段の下ったところに構えられた屋根つきの門扉をよりまぶしく見せている。午後二時半。照りつける陽射しは暑く、昨日まで長く曇天が続いていたことを忘れさせるくらいに強い。
はじめて訪れた弥富の地で、琉聖はひとりきりになった。部活の先輩の家の前。表札の下にあるカメラ付きインターホンは、古風で趣のある門とは些か不釣り合いだった。
ふぅ、と大きく息を吐き出す。突然の来訪だが、応じてもらえるだろうか。
インターホンのボタンを押す。五秒と待たされず、落ちついた女性の声が聞こえてきた。
『はい、どちらさまでしょうか?』
「あ……あの、突然すみません。実里丘高校男子バレー部の久慈といいますが」
『あらぁ、公恭の。ちょっとお待ちになって』
相手の女性はなぜかとても嬉しそうに声を弾ませ、インターホンでの通話を切った。声の感じと話しぶりから、応対してくれたのは伊達の母親だろうと推測した。
緊張しながら待っていると、門の奥、豪邸の玄関扉が開く音が聞こえてきた。脈が速くなるのが手に取るようにわかり、我知らず右手を強く握りしめる。
ゆっくりと階段を下ってきた伊達が無言で門扉を横にスライドさせた。ガラガラッ、と足もとで音が立つ。
白いラルフローレンのポロシャツにジーンズというラフな装いで現れた彼に、琉聖も黙って頭を下げた。
「驚いたな」
扉に手をかけたまま伊達は言った。
「まさかきみが訪ねてくるなんて」
「すいません、突然。どうしても今日じゅうに、伊達さんと話がしたくて」
伊達は無表情のままだった。軽く眼鏡を押し上げながら、うんざりしたような声で言う。
「ぼくがどうしてバレー部の練習に行かないか、って話?」
琉聖は首を横に振った。
「そんなの、訊くまでもない。俺のせいです。俺のやり方がまずかった。俺の言葉ばっかりを押しつけて、伊達さんの話を聞かなかったから」
すいませんでした、と琉聖は腰を九十度に折る。まずは謝らなければならないと思った。絶対にもっとうまくやれた。彼には彼の、彼にしかできないことをやってもらうべきだった。
しばし、沈黙の時が流れる。やがて琉聖の頭の上から細いため息が降ってきた。
「ねぇ、久慈」
琉聖は頭を上げ、「はい」と言った。伊達の目に映る光は鈍かった。
「どうしてペットの犬に人間の食べ物を与えちゃいけないか、知ってる?」
あまりにも唐突な問いかけだった。バレーとはまるで関係のない話なのか、あるいは、なにかの喩えなのか。
知っているか、と言われれば、琉聖は知っている。健康上のリスク、たとえば肥満になることを避けるため、とか。そもそも犬にとって有害なものが人間の食べ物には含まれている場合もあるし、躾けに影響を及ぼしたりもする。
だが、そんな話をどうして今――。そこまで考えて、琉聖はようやく伊達の真意に気がついた。そういうことかよ、と顔を下げる琉聖に、伊達は悲しげな色をした声で告げた。
「答えはね、一度人間の食べ物の味を覚えた犬は、ドッグフードを食べなくなってしまうからさ」
琉聖の吐息が震える。伊達はその小さな立ち姿にわざと浴びせるように話して聞かせた。
「ドッグフードに比べて、人間の食べ物は味が濃い。犬にとっては当然おいしく感じられて、味気ないドッグフードよりもずっと好きになってしまう。結果として、犬はドッグフードを出されても見向きもせず、人間様のおいしい食べ物をよこせと言うようになる。それとまったく同じことが今のバレー部では起きているんだ」
耳を塞ぎたくてたまらなかった。彼の言いたいことは十二分に理解できる。
「佐藤をはじめ、うちのアタッカーたちはきみという腕のいいセッターの上げる上質なトスの味を知ってしまった。一度その味を覚えてしまうと、それよりも質の劣るトスでは満足できなくなる。思うようなプレーができない。久慈のトスだったらもっとうまく打てるのに。そんな風に、どんどん不満を募らせていくんだ。きみだってそうだろう? 一流シェフの料理と三流シェフの料理、同じ対価を払うとしたら迷わず一流の料理を選ぶはずだ」
「伊達さん」
「たとえばずっと一流シェフの作る絶品料理を食べてきた人が、『二ヶ月だけ三流シェフの料理で我慢してください』と言われて、はいわかりましたって素直に我慢できると思う? 無理だろうね。せいぜい最初の二週間が限度だ。日に日に一流シェフの生み出す味が恋しくなって、けれど一流シェフは厨房に立てない。代打の三流シェフが手を抜いているわけじゃないと知っているから文句も言えない。募っていくのはイラ立ちばかりだ」
「もういい!」
琉聖は顔を下げたまま首を振る。
「もういいよ」
聞きたくない。こんなことを言われるために、バレーの世界へ戻ってきたんじゃない。
ダメだ、このままじゃ。わかっているのに、言葉がうまく出てこない。
みんなの想いを託されてきたのに。絶対に伊達を取り戻すと決めたのに。
一方的に言われるばかりじゃ、中学の頃とまるで同じだ。
「嫌味なことだとわかっていて言うけどね」
必死に言葉を探し続ける琉聖に、伊達は吐息混じりに続けた。
「きみはきちんと自覚すべきだ。きみの力は、天性のバレーボールセンスは、他人に与える影響がとてつもなく大きいんだということを」
いよいよ琉聖は顔を上げられなくなった。息苦しさと軽い頭痛を我慢して、震える指先を握り込む。
一ヶ月と少し前、中学時代のチームメイトである星工の松永修《しゅう》からも同じことを言われた。バレーボール選手としてのおまえは、周りに与える影響がデカすぎるんだ、と。
知らない。俺にどうしろって言うんだ。
そんなことを言われても、自分の力ではコントロールすることなんてできないのに――。
「ぼくたちもそうだし」
伊達は静かに言葉を紡ぐ。
「きみの中学時代のチームメイトだってそうだ。黒矢くん、だったね」
もっとも聞きたくない名前が出た。条件反射で、琉聖の身がこわばる。
「彼に限らず、きみがかつての仲間からの集中砲火を浴びることになったのは、きみ一人が飛び抜けてうまかったせいなんじゃないかな」
「そんな」
琉聖は跳ねるように顔を上げた。
「俺は、俺なんて……」
「わかるでしょう」
琉聖の否定を、伊達は許さなかった。
「嫉妬したんだよ、みんな。ポジションこそ違えど、きみだけがどんどん力をつけ、成長していく姿を見ていられなかった。恐ろしいほどに進化していくきみに置いていかれたくなかった。だから彼らはきみの足を引っ張るような真似をした。きみ一人が一歩先を走っていくことに耐えられなくて」
「違う」
琉聖の声は震えていた。これ以上声を出すことを心が許してくれなくて、胸の中でひとりつぶやく。
そんなんじゃない。俺は全然すごくない。
あいつらはただ、生贄が必要だっただけ。それが俺だった。俺が一番ヘタだったから。勝てなかったのは、俺のトスワークが悪いせいで――。
「ごめん、話が逸れたね」
再び顔を下げ、肩で息をし始めた琉聖に、伊達はさらに温度を下げた声で言った。
「とにかく、きみと同じチームでセッターをやるのはぼくには無理だ。みんなが我慢してくれているのがわかるから余計につらい。きみと遜色ないくらいうまくなれる気もしない。ぼくでは力不足で、チームの足を引っ張るばかりだ。きみの代わりにコートに立つことは、ぼくには、できない」
今度は伊達が吐息を震わせる番だった。長らくかかえさせてしまった彼の苦しい気持ちがようやく言葉になって具現化され、琉聖の胸に矢のように深く突き刺さる。
琉聖と一緒は、イヤだ。
この感情を、琉聖は誰よりもよく知っている。
特定の誰かと、同じコートに立ちたくない。
「あと一ヶ月もすればきみは完全復帰できるんだろう。そうすればぼくは必要なくなるし、なにもかもがうまくいくようになるよ。最悪、愛知県選手権は出場を見送って、春高に照準を合わせて練習するのがいいと思う」
「伊達さん」
「がんばって」
これ以上ないほど冷えきった声で伊達は言った。
「応援してる」
悲しい響きだった。冷めて、他人事で、すべてのことをあきらめていて、言葉に乗った感情はまるで別の色をしている。どんなに苦しい試合展開の中でもチームを鼓舞し続けてくれたこれまでの彼とはまるで別人のような声。
違う。
こんなの、伊達さんじゃない。
彼をこんな風にさせてしまったのは俺だ。
悪いのは、全部――。
「バカ野郎!」
邸内に戻ろうと伊達が琉聖に背を向けかけた時、耳慣れた大きな声が住宅街に響き渡った。
二人は声のしたほうを振り返る。
そこには煌我が、怒りの感情をその顔に映して立っていた。




