第81話 待たされる元魔王
「ふわぁ……」
当然のように、翌日のアリエスは大あくびである。
「気になりすぎて、よく眠れませんでしたね。ひとまず顔でも洗って目を覚ましましょうか」
寝不足だとはいっても、聖女である以上は日常生活のリズムを崩すわけにはいかない。アリエスは気合いでしっかりと目を覚ます。
朝食へ向かう途中、サハーに頼んでゾディアーク伯爵にカプリナに来てもらうように伝えてもらう。
サハーもさすがに「こんな朝から、急な話をするとは……」と呆れていたのだが、決まったのが昨日の夜中である。やむを得ない話なので頭を下げてまで頼みごとを聞いてもらった。
さすがにアリエスに頭を下げられたとあっては、サハーも断れない。しょうがないなとゾディアーク伯爵邸へと向かっていったのだった。
朝の祈祷を終えたアリエスは、今日の講義を受けるために教会の広い部屋へとやって来ていた。
おとといの講義を終えた時に、予定を巻きで進めようとする態度を見せたので、アリエスはとても警戒しているようである。
ところが、いつもなら始まる時間になっているのだが、ヴァコルが姿を見せない。
アリエスは首を捻っている。
(どういうことだ? あの真面目な魔導士が、時間に遅れるなどあるものなのか?)
内なる魔王は、ヴァコルのことをかなり評価しているようである。それゆえに、今日の遅刻はずいぶんと困惑しているようだ。
そんなこともあるかと、アリエスは持ってきていた教本に黙って目を通し始める。
この教本は、アリエスがヴァコルの講義を受けるにあたって、初日に手渡されたものである。魔法使いの基本についてあれこれと書かれている本で、ヴァコルから説明を聞かなくてもアリエスが理解できそうな内容だった。
教本を眺めながら、アリエスはよくまとめられていると感心していた。普段は偉そうにしているが、根はやさしい人間なのだろう。少なくともアリエスはそう感じている。
ぱらり、ぱらりと一ページずつじっくりと目を通していると、外がようやく騒がしくなってくる。
(なんだ。ずいぶんとうるさいな)
教本をじっくりと眺めていたアリエスは、思わず軽く眉間にしわを寄せた。読書を邪魔されるのが嫌なのである。
(だが、ここを動くわけにはいかぬ。ここはぐっと我慢をして様子を見ることにしよう)
我慢するのは魔王時代からも慣れていることだと、アリエスは騒ぎを聞いても出ていくことなく、そのまましばらく教本を眺め続けていた。
「急なお呼びたてをしたのはすまなかったと思いますが、もう少し静かにしてくれると助かったのですけれどね」
「申し訳ありません。つい嬉しくなっちゃって、うっかり遅れかけてしまいました」
ようやく騒ぎの主が現れたようである。
騒ぎの原因はどうやらカプリナのようである。あったのが昨日の今日だというのに、なんとも騒がしい限りだ。
「すまない、待たせてしまったようだな、聖女」
「いえ。おかげで静かに集中して勉強できました。この分でしたら、早めに終わらせることも可能かと存じます」
「そうか。それは期待ですね」
アリエスの淡々とした受け答えに、ヴァコルはにやりと笑っている。
今日初めてヴァコルの講義を受けるカプリナは、どういうことだろうかと不思議そうな顔で二人を見つめている。
「ありえすさま、たのしそう」
カプリナの頭の上で、スラリーがぽよぽよと踊っている。
「ちょっと、スラリー。動かないでくれないかしら。首が痛くなりそうなんだけど」
「かぷりな、ごめん」
カプリナに怒られると、スラリーは頭から下りてきて首周りにくるりと巻き付いた。
スラリーは相変わらずの自由さのようである。
「まったく、魔物のスライムだというのに、ここまでおしゃべりだと思いませんでしたね。というよりも、スライムって喋れたのですか」
「すらりー、とくしゅ。まおうさま、きたえてくれた。だから、しゃべれる」
カプリナの肩で楽しそうに動くスラリーである。
そのスラリーの姿を見て、ヴァコルはとても興味深そうにじっと視線を向けている。
「うーむ。許されるのなら持ち帰って研究してみたいものだな。喋れないはずのスライムが、このように達者な口を利くようになるにはどうしたらいいのか、解明してみたい」
「すらりーは、わるいすらいむじゃ、ないよ」
ヴァコルがじっと見つめてくるので、スラリーは適当なことを言ってボケている。
魔法使いの研究材料になんかされてたまるかという意志の表れである。
「ヴァコル様、そのスラリーは私の部下でございます。私が許可をしませんので、どうか諦めて下さいませ」
「むう、聖女のものであるのなら、手を出すわけにはいかぬな。仕方がない、諦めよう」
さすがの宮廷魔導士であるヴァコルでも、聖女の持ち物に勝手に手を出すわけにはいかないのだ。
ヴァコルの反応を見て、アリエスもカプリナもほっとひと息をつけたようである。
カプリナとスラリーのコンビも参加してのヴァコルの講義が始まる。
いざ始まったら、アリエスも含めてみんな真剣である。
なぜなら、カプリナも聖騎士として力を制御できなければならないからだ。まだ十歳であるので、腕前は未熟としかいいようがない。
全員揃って真剣に講義を受ける様子に、ヴァコルはずいぶんと満足そうに笑っているのだった。




