第157話 何がなんだか分からない元魔王
右の拳を握りしめたまま、アリエスはじっと立ったままだ。
(なんてことだ。この程度の一撃で拳が砕けるとはな……。さすがに貧弱が過ぎるぞ、この体は)
そう、先程の一撃で右の拳の骨が砕けてしまい、痛みで動けないのだ。身体強化を使っているとはいえ、まさか骨が砕けるとは思ってもみなかった。そのせいでアリエスは立ち尽くしてしまっているのである。
ところが、キャサリーンはまだ動かない。その間に、アリエスはこっそりと手の骨折を治療している。
「ふふふふ……」
突然、キャサリーンが笑い始める。
「あははははっ、やっぱりあなたは最高ですね、アリエス様」
どういうわけか、キャサリーンはとても楽しそうに笑っている。あまりにも予想外な反応に、アリエスは警戒を強めてしまう。
「自分の体格の未熟さと非力さをどうやったら補えるか。実に素晴らしいです。この発想には、私も驚きましたね」
キャサリーンはとても笑顔である。それもとても怖いくらいに。
殴られたはずの左頬を擦る様子もなく、ただ真っすぐとアリエスのことをじっと見つめている。その表情に、アリエスは思わず恐怖を感じてしまう。
「くっ……。さすがは現役最強の聖女様ですね、キャサリーン様は。私程度の拳では、まったく効いていませんね」
痛めた右の拳を擦りながら、アリエスはキャサリーンの次の動きに警戒を強める。
どのような目に遭わされるのか、はっきりいって想像もつかないからだ。
警戒するアリエスに向けて、少しずつキャサリーンが近付いてくる。
「いくら未熟な体といっても、このまま終わるわけにはまいりません。仮にも魔族を統べた王だったのですからね!」
アリエスは、魔法を使ってキャサリーンとの距離を取ろうとする。
ところが、距離を取っても、キャサリーンはすぐに距離を詰めてくる。
(くそっ……、完全に遊ばれている。やはり、戦いを挑むには、体が未熟すぎたか……。あと二年はあれば、少しは違ったのだろうがな)
次の攻撃のためにちょこまかと動くものの、キャサリーンを引き離すことはできなかった。
(こうなれば、一か八かだ。この距離で奇襲をかけるしかない)
どうしようもなくなったアリエスは、距離を取ることを諦めた。
立ち止まって、キャサリーンの顔をじっと見つめている。
「どうしましたかね。もう鬼ごっこは終わりですか?」
キャサリーンはにっこりと微笑んでいる。
「いいぞ、キャサリーン。そのまま、そいつを始末してしまえ。そうすれば、今までの無礼な態度は全部許してやる」
防壁の向こうから動けないでいるクラブ将軍がなにやら騒いでいる。ところが、キャサリーンはまったく聞こえないふりをしている。
「おい、聞こえないのか? さっさとそいつを始末しろと言っているんだ!」
防壁をドンドンと叩くクラブ将軍。周りの兵士たちは落ち着かせようとしているが、クラブ将軍は暴れまわるばかりである。
「まったく。こんな低俗な人間に従っているなんて、神様の使いである聖女としてはやってられませんね」
「なんだと?!」
なんということだろうか。キャサリーンがクラブ将軍の態度に愛想をつかしたのか、急に反発し始めたのだ。
「元魔王とか関係ありません。アリエス様は、立派な聖女です。聖女である以上、私の仲間ですのので、これ以上は傷つけませんよ」
「くそっ! 裏切るのか? 教会がどうなっていいというのか!」
「やれるものならやってみてはどうですか。教会に敵対するということは、私たち聖女への裏切り行為です。ならば、私の攻撃対象になるということもお忘れなく」
「ぐ……ぬ……」
キャサリーンが笑顔で話す内容に、クラブ将軍は完全に表情が固まっていた。
「さあ、お引き取り下さい。もっとも、無事にテレグロス王国にたどり着けたらのお話ですけれどね」
「うん?」
キャサリーンがクラブ将軍たちに言い放っている間、アリエスは自分の足元に違和感を感じた。
よく見てみると、足元の氷がじわじわと拡大しているではないか。
「しーっ……」
キャサリーンはアリエスを見ながら、黙っているように言い聞かせている。
「ふんっ、後悔するんだな! お前たち、引き揚げるぞ!」
「し、しかし、将軍!」
「うるさい! もうあんな奴は放っておけ。国の聖女でも何でもない」
クラブ将軍が振り返って歩き出そうとしたその時だった。
「うべらっ!」
突然転んで、変な声を出しながら受け身も取れずに倒れていた。
「あら、どうされましたか、クラブ将軍。もしかして、お年を召して足を悪くされましたでしょうか」
「いたたたた……。なんだこれは!」
キャサリーンがからかう中、クラブ将軍は自分の足元を見て驚いていた。
なんと、地面が凍り付き、足が張り付いてしまっていたのだ。そのため、歩こうとしても足が動かず、倒れてしまったというわけである。
「くそっ! この氷は、そっちのサンカサスの聖女の力か! なめやがって……」
クラブ将軍は頭に血がのぼってしまい、まるで茹でガニのように真っ赤になっていた。
「殺せ! サンカサスの聖女はもちろん、裏切り者のキャサリーンもだ!」
「は……はっ!」
クラブ将軍の声で、テレグロス王国軍が動き始める。だが、クラブ将軍同様、足元の凍り付きに気付かず、なんともいえない無様な姿をさらしていた。
「あらあら、最強聖女である私の下でのさばっていた割に、大したことがありませんね」
「キャサリーン様、実にいい性格をしておいでですね……」
「自分から動いていたこともありますが、こいつらには実は恨みがたっぷりありますからね。アリエス様みたいに健康的な外見になってみたいですよ、私も」
キャサリーンはぶつぶつと文句を言っていた。
(そういえば、確かにキャサリーンはずっとやせこけていたな。兵士たちの状態を見ると、食糧がないというわけではなさそうだが……。この様子を見ている限り、ずっと我慢していたのだろうな。何かを人質に取られるかして)
キャサリーンの状態を見たアリエスは、その状態の理由を想像して、同情をせざるをえなかったようだ。
「さあ、アリエス様。サンカサス王国軍を止めに行きましょうか。戦いは終わりましたからね」
「え、ええ。そうですね」
足場の凍り付いたテレグロス王国軍をそのまま放置して、アリエスはキャサリーンとともにサンカサスの王都に向かって移動を始めたのだった。
戦いを終わらせることができたものの、どこか落ち着かないアリエスなのである。




