パトカーにありがとう
パトロールカーの威光に恐れぬ者はない。人はだれしも犯罪を犯しているからだ。人を殺さないまでも虫さんを殺している。虫さんを殺してない人は皆無である。蟻さんをつぶしたことがない人でも農薬によって間接的な虫殺しに加担している。この場合の犯罪とは人類社会の法律ではない。もっと根源的なところにある法律のことであり、それはどこかにきっとあるからこれ以上の詮索は不要である。では、人間社会に根ざしたパトロールカーであるから、これに恐れる理由が不足するということになりそうだが、そんなことにはならない。なぜかと言って、パトロールカーそのものに恐れを抱く理由があるのではないからである。パトロールカーは人々の社会に備わった自治の象徴として機能するものだが、そればかりでなく存在そのものによって悪に対するなにかしらの攻撃も行っている。我々はパトロールカーの色調とフォルムと堂々とした佇まいにけおされるようにできている。この立証には簡単な方法があり、その実験の一例をざっと紹介すると、目隠しした被験者のまえにパトロールカーを出現させたときと、目の見える状態でパトロールカーを出現させたときとの、被験者の心拍数の変化と驚きの様を観察したのであるが、すべての被験者は目隠しした状態ではパトロールカーの出現という異常現象になんら変化を示さなかったにもかかわらず、目隠しをとった状態で同様の実験を行うと、急激な心拍数の上昇と驚きに満ちた様相を呈した。これはパトロールカーを認知することによる作用と考えられる。この実験によってパトロールカーの視認がもたらす心身への圧迫的作用が証明されたのであるが、そればかりでなく我々は悪行無くして生存できないためでもあろう。先にも上げた通り我々人類は自明的な虫さんの殺害を経て生存しているが、あたかも認知すらしていないような数ミリのダニやミジンコへの直接間接問わない殺害への罪悪感を蓄積している節がある。われわれはあまたの罪を魂に累積しているのかもしれない。その作用がすなわちパトロールカーを視認したときの恐れなのである。われわれは、われわれの社会を持つ際に法律などといういつわりの規律を誇示し、本当の法律を覆い隠してしまったのではないか。偽物に律せられた我々だが、いつの間にか繰り返していた罪についてはしっかりと責を負っているのに相違なく、その反映が恐れの形をとり、正義の象徴たるパトロールカーのまえにたったとき、うろたえざるを得ないのである。我々はパトロールカーを前にしてうろたえる。が、我々の社会の法律など破ってはいない。その後ろに隠された、あるいはその遥か高みからすべてを覆い尽くす範囲で律する真なる法律を破っている。虫さんを殺し続ける日々はパトロールカーとの邂逅によって改めて突き付けられるのである。
けれども我々は偽りに目隠しされてその罪を認知できぬために、パトロールカーの過ぎ去っていったそばからもう罪の意識を霧散させてしまう。虫さんはそこらじゅうを蠢いているのにである。こういった悲劇的な罪の累積は人類の罪であろうか。また、個人の罪であろうか。よもや虫さんに罪はなかろうけれども、そんな虫さん自身もまた別種の罪を抱えているであろう。されども罪深き虫さん、罪人の虫さんだからと言って我々の罪が帳消しになろうはずもない。我々は虫さんというひとかたまりの下等でお粗末で無数に蠢く命に区別などつけないのである。まとめて殺すのである。あれがあのときあのお花にまつわっていたスズメバチで云々などと区別せず、識別もせず、さっき見た虫と今見た虫が同一か別固体かわからなくても気にしない。蚊がマラリアを媒介させても、復讐の名目に殺すべき虫は、実際にマラリアを用いて人を死にいたらしめた蚊であるか、我々は考えない。あのあたりにある蚊はひとまとめにこの腕を赤くした蚊に違いなく、見つけ次第叩き潰すし蚊取り線香で追い立てるのである。我々は虫をひとに及ばないものと見下し社会から排斥している。我々は社会の中に個人を見出し、個人と区別できるものだけを命の観点で識別するものである。我々は命に対し人間的知性によるふるいをかけ、その網を抜け落ちたものを命とみなさない。もっと正確に言えば、決して友人となりえないものと決めつける。それは命の価値を決めるのに等しい。虫の命が軽いのは、友になりえぬからであり、犬の命がやや重いのは同様なのだ。だから、ある者の価値観において、見知らぬ他人よりもよく親しんだ犬の方を大切にし、しかるべき危機に瀕すれば犬を優先する。それは命の価値、すなわち個人の認識に基づいた選別をおこなったのであり、犬なら社会の中に入ることができ選別に加わることはあるけれども、虫さんに同じ地位は稀である。稀である上に、無数に飛び交う蚊ともなれば、いったい誰があの一匹の蚊に名前を付けてやり、ほかの命と区別して、場合によればほかの命よりも優先して慈しむのだろうか。虫さんほど人々の社会になじまない命はない。社会とはつながりであり、ただそこにあればいいのではない。友情にもとづいた構築に参加することなのである。虫さんは社会に入ることができない。それは虫に知性がなく、無数の数で群れだつためでもあろう。ここに八頭のトナカイがいたとして、それらがそりを牽いたとき、その群れの多さのためにトナカイは命というよりも物である方が打倒に感ぜられる。それらが動きをやめて一頭一頭が鼻を鳴らしながら、差し上げる手の甲なんぞに鼻息をかけるときに初めて、ああこのトナカイはプランサーだなと思え、我々の社会の一員だという感を抱く。群れ立ってそりを牽く姿に抱きえない固有の感覚をトナカイにおびるのである。それは別の例によっていっそう明晰に理解できるが、ある東京の通勤のさなかを俯瞰するとき、それはビルや歩道橋などからのんきに見下ろすような場合であるが、あの人々の通勤の肩の並びに、個別の人々と接するときのような親しみを覚えるだろうか、ということである。あれは一個の群れを成した超個体というような、大きな一つの流れと感ずる方が自然ではなかろうか。あの大きな流れのなかから何者かのを印象づけられるのか。もっと正確に言えば、同じ動作を行う複数の命のまとまりは虫なのである。もちろんじっくりその中の一人に焦点をあてて観測すればそのものが赤の他人であっても個人という感を抱くであろうが、その感じを群れの中からその多くの命に対して抱くことができるのか。不可能であろう。虫は識別不可能な命の群れであるが、場合によっては他人も同じなのだ。
識別することで我々は命を社会のうちへ取り込む。社会とは虫を殺しても殺害の呵責に責められないようにするための方法である。その意味は人の傲慢さではなく、むしろ人の生まれ持った善良さを示唆するものである。
我々は社会の盾を構えることにより、無際限に命に対する責任を負わないように、心を守っている。生きるということは殺すということなのである。それは循環にほかならず、それ自体を罪と言い換えることはできない。ある者の死によるある者の生存は個別の認識のもとに罪を発生させるだけであり、生と死の交換や命の併合において罪を見出すことなどありえはしない。なぜといって、我々は、また命は、そういう形をとるようにできているからとしか言えない。我々はいかにして生きるのかと言えば、なにかしらを費やして生きながらえるのである。なにを減らしなにを増やしたかと考えてみても、その総和が変わっているものではない。どこかの命はなにかのための命にほかならない。それは運命として決まっているのではないが、生きることと死ぬことだけは決まっている。誰と誰のあいだで取引される命であるのかをあらかじめ知る者はない。そう考えると、命は誰がどう扱っても罪にはならない。死ぬことが決まっている命がどのように扱われても、生命の循環を逸脱しないのである。この点で命の生殺与奪は誰のものでもあり、いかなる行いにも、自然は罪を与えないということになる。
ではなぜ我々は罪悪感に苛まれるのか。それは一つに社会が法律を定めたからであり、もっと正確に言えば倫理を見出したからで、それが繁栄のための知的な進歩と考えるならば社会も法律も殺人罪も正しいのである。なぜなら我々は人類として繁栄の渦中にあるし、ネズミのようにその日暮らしではない。少しの怠惰も社会の助けによって打ち消すことができる。社会は人の理不尽な死を斥ける盾であろう。そして、人であるがためにこうも安寧のなかに生きていけるのも、虫さんを切り捨てているからなのだ。虫さんにも当然命がある。生命は等しく生存している。が、友は選別される。選別から漏れれば容易な死と隣り合わせのハラハラした生存状態にさらされる。人とは比べ物にならないほど容易に死ぬ世界が虫の世界であり、人の社会の外に生きる命の世界が虫の世界である。
我々は身内びいきし、場合によっては人よりも犬を優先するけれども、選別にもれた赤の他人を憐れみ行く末を案じてみないでもない。手は差し伸べられないけれども、うまくやってくれたらいいなと思う。そういう気持ちのもっと小さいものを虫さんに抱くことがある。人は決して虫を友人に迎えはしないけれども、友人の不幸に向けるのと同じような気持ちをふと抱いてしまう。それは、虫さんがある場合において隣人足りえるからである。そういう場合の人間は、おそらくもっと貧苦の中にいて、もっと土に密接な日々を送っているかもしれない。そして殺人罪は人のみならず虫にさえ適用され、ある蟻の行列の中から孝三郎くんを見つけたり、著名な伯爵の姿を認めて恭しく礼をする。が、そんな特殊な場合があるだろうか? これは知性の問題であろう。いまのままの虫がこの特殊な事例と接触することはないだろう。けれども、こんな下等な虫に対しても我々はあるとき可哀想だと思うものである。それはものの十秒で忘れるような感情であっても、確かに抱くことのある心持だ。このわずかな十秒間は、虫を個人として認識し、名前を憶え続け友と呼ぶことさえあるやもしれない。
もっともそれは、あまりにも片務的な好意のためにすぐに忘却するものである。
我々は相互でなければ社会を築くことができない。虫が言葉を返してくれるなら、我々は虫に個人を見出し友と呼ぶのもあっさりと成り立つに違いない。
それらはすべて空想の世界にありえる程度の泡のような期待でしかない。我々は虫の下等さを科学的に知っているから、そんな期待は通常抱かない。虫は社会の一部足りえない。せいぜい自然の一部として欠かせないなどと敬意をはらってやるくらいだろう。
虫は人とは違う。もっと粗末なものだ。が、ときおり簡単に奪ってしまうこの命に申し訳なくなる。その心持は正常に違いない。また、法律に背いているのでもないのに虫を殺してしまうことに、殺人に抱きうる罪悪感の片鱗を見るだろう。それがどこか容易には届きえないところにある偉大な法律に定められている罪なのではないかと思い描くことは、あたかも人を殺めようかと心に描いたときの、頭の中に刑法がよぎってドキッとするのとそっくりではないか。かたや厳格に存在する明文律で、かたや不文律にもつかない妄想でしかないのに、これらはある場合において同じ効力を発する権威である。
パトロールカーの色調が、あるいはその音が、ほかの車の中にあってひときわ異質な存在感が、罪を意識させる。
なんら罪を犯してなどいないと信じている者さえも、ふいに狼狽し、汗を感じ、努めて平生を装おうとする。そのとき人は社会から孤立したという実感をもつ。パトカーのフォルムが社会に隔たって、わたしを一人にする。罪は個人を孤独にする。
我々はいま一度謙虚にならなければならない。罪の予感に苛まれたとき、内なる恐れに刃向かってはならない。なぜならその恐れは真実なのだ。我々は命の頂点にあって、奪い取った命は数知れない。そして社会は豊かである。我々の豊かさは結束によってもたらされた豊かさである。社会の恩沢は素晴らしい。孤独に生きることなどできはしないのだから、恐れるままに罪から遠ざからなければならない。社会に内包されなければならない。社会に寄り添えば、いくつかの罪は罪ではないのである。社会は誠実な生存にとって不都合なたくさんのことを覆い隠してくれる盾である。誠実は心の安寧に欠くべからざるよりどころだ。我々は我ら人間の善良さを信じられなければ安心して生きていけない獣だ。まごころに飢えた野蛮な獣なのである。素晴らしき友と団結し、稀釈された個人の意思が、誠実なき外界を食らい肥えるのである。我々は外界の命を奪うことにほとんど自覚なく生存しているが、これこそ素晴らしい社会の恩沢ではないか。我々は盾の庇護のうちにのんびりと生きることができる。それは好ましいことだ。大いなる罪と罰に縛められる生存は苦痛だ。苦痛は我々を不安にし、やがて理性を失う。罪の意識は出来る限り遠ざけなければならない。そうして隣人に優しく生きるのだ。
が、罪を強引に健忘しようと努めてはならない。そうなってしまえば退化である。大いなる罪は確かに存在し常に累積している。決して拭い去れない生存の証しだから、強いて忘れてしまおうとすれば、理性は歪むのである。歪みは最も忌むべき不誠実へいきつく。だから遠ざけるにとどめる、ちょっとのあいだ忘れるにとどめるのだ。
我らは罪を遠ざけ、これがもたらす居心地の悪さから逃れる。命を奪いながら生きることに折り合いをつけなければならない、それも己らを善良と信じながら。そのために社会が罪を罪と認めないようにふるまう。我々はその意に沿って、ちょっとのあいだ忘れる。
そこで、折に触れて罪を突き付けるシンボルが必要になる。これこそ我々の社会を誠実な状態に整えてくれる機能だ。あのドキッとするかたちや色や音や不意に現れるあの感じに、我々は謙虚に対応しなければならない。恐れのままに恐れ、見栄を張らずに、己が忘れてしまった罪を精査し、孤立した個人の恐怖に押し詰まってみる。そしてなにごともなく過ぎ去ってしまえば、もうすっかり忘れてしまってかまわない。なぜなら、またパトカーに出会えば、我々は何度でも罪を感じることができるからだ。そして謙虚なる我を実感し、社会が健全であることを思い知り、満足できる。我らがこのようにして素晴らしい繁栄とともに生命のすべてに対して胸を張って生きていけるのも、ありがたくも「パトカーのおかげ」といえなくもない。