閑話 王宮の幽霊。(ミヤ様視点)
・ミヤ様。
ミヤィスン。竜列国の皇女にして、現陛下の元へ嫁いできたが、一度も会うことなく病死した女性。
リリアを気に入り『ミヤ様』呼びを許している。
この国には『黒髪黒目は不吉』だの『悪魔の使い』だとかいう言い伝えがあるらしい。
その程度なら別に珍しいことではない。竜列国にだって似たような民間信仰は存在している。
しかし、だからといってわらわの高貴なる『黒紫色』の髪を黒髪と断じ、侮ることなど許されることではない。
わらわの護衛に来た騎士たちも、身柄の引き取りに来た役人も、……王都へ向かう馬車を覗き込んだ国民たちも。皆、皆、わらわの髪を忌み嫌っていた。何ともくだらない言い伝えを信じ、竜列国の皇女たるわらわを蔑んでいた。
こんな国でうまくやっていけるのか?
鎌首を持ち上げた不安を皇女としての使命感で押しつぶす。個人の感情など関係ない。不安など許されることではない。わらわは竜列国とヴィートリアン王国との友好のために嫁いできたのだ。この身は竜列国のために、そして、ヴィートリアン王国のために捨てる覚悟を持たなければならない。
そうして気を張っていたのが悪かったのか。あるいはわらわの心も体も、一切合切がこの国と相性が悪かったのか。わらわは王都に到着した直後に体調を崩し、自分でも驚くほどあっさりと臨終を迎えてしまった。
結局、自分の夫となるべき人物とは会うことも叶わず。王妃としての使命感を抱いたまま。――わらわは『幽霊』となった。
◇
わらわの生まれた竜列国において、祖霊(幽霊)とは無条件に敬うべきものだ。先祖の霊が成仏できずに苦しんでいるのなら子孫は全力を以て成仏していただけるよう行動するものだし、もしも血縁が絶えていたのなら隣家が。隣家でダメなら村が。村でダメなら郷が。郷でダメなら郡が。郡でダメなら国が総力を挙げて成仏させなければならない。
対して、この国はどうだろう?
生者は祖霊をぞんざいに扱い、下に見て、敬うことすらしない。望まれてはるばるこの国へとやって来たわらわに労いの言葉を掛けることも、挨拶をすることすらしない。
なんと無礼な国民であろうか。
何と教養のない国民であろうか。
王妃として何としても再教育してやらねばと気炎を吐いていたわらわであるが、『幽霊』であるわらわの言葉に耳を傾ける者はおらず……。何年も、何年も経っていくうちにわらわは声を掛けるのを止めていた。生者との――この国の人間との交流を諦めてしまった。
「…………」
嫁いできて10年か、20年か。
幽霊として王宮で過ごし続けたわらわにはもう年月の感覚すら薄れていて。
10年か、20年か。
――結局。
わらわの『夫』は、一度たりともわらわの元へはやって来なかった。
それも当然。王妃最大の使命は次代の王を生むこと。それができないわらわに心を砕く『国王』などいるはずがない。
ない。理解している。が、寂しくないと言えば嘘になる。
10年か、20年か。
わらわがもはやどうしてこの世に留まっているのかすらも分からなくなっていた頃。
「――あ~、はじめまして妃陛下。さっそくですが、あんたこのままじゃ悪霊になりますぜ?」
敬語でありながらまったく敬っていないという器用な言葉遣いの神官がそんなことを告げた。
わらわを悪霊扱いとは、ほとほと見下げた根性であるな。
「本来ならあたしが何とかするべきなんでしょうが、あんたは『リッチ』ですし、大聖教の信者じゃねーから大聖典の効果も薄い。あたしの手には余っちまいますね」
リッチとはこの国の分類で、王族や大賢者などの幽霊のことだったか。
なんともくだらない。
死者とは等しく祖霊。生前の地位によって祖霊を区分するなど最大限の侮辱に他ならない。なんともくだらなく、なんとも不遜で、なんとも不愉快だ。
「あたしに無理ならほとんどの神官も無理なんだが……、ま、“あの子”なら何とかできるかもしれねぇですね」
あの子。
無礼な神官の言葉が妙に耳に残った。不敬なる神官の言葉など気にする必要などないはずなのに。
あの子。あの子とは誰だろう? どんな子だろう? 男だろうか? 女だろうか? 子というのだから子供だろう。だが、こうして王宮を漂っている間に幽霊であるわらわを置いて大人になっているかもしれない。
あの子。
あの子。
あの子。
会ったこともない存在に想いを馳せる、そんな奇妙な時間を過ごしていた、ある日。
わらわは、出会った。
「――お初にお目にかかります。わたくし、レナード子爵家が一子、リリア・レナードでございます」
はじめてだった。
はじめて。幽霊になってからはじめて、あちらから挨拶をしてくれた。
目にも鮮やかな銀髪で。
目を囚われる赤瞳の。
目を離せなくなる美貌を有した。
とても、とても可愛らしい子がカーテシーをしていた。『幽霊』であるわらわに、貴族としての礼を尽くし、敬意の込められた挨拶をしてくれた。
あまりの衝撃に言葉が詰まった。
あまりの嬉しさに思わず笑顔になった。
あまりの美しさに時が止まった。
いいや、時が止まったのはわらわだけだった。
わらわが無反応だと知った少女は、気を悪くした様子もなく「申し訳ありませんが、陛下よりお呼びがかかっておりますので」と一礼してから立ち去ってしまった。
国王陛下からの呼び出しであればわらわからの返事を待てずとも仕方がない。むしろ、何を置いても馳せ参じるべき場面であるのに、『幽霊』であるわらわにあそこまで気を遣う姿には素直に好感が持てた。
『…………』
名乗れなかったことを、あんなにも後悔したのは初めてだ。
リリア・レナード。
また会えるだろうか?
会えたならば今度こそわらわの名を告げなければならない。
子爵家とはたしかこの国の下位貴族であったか。王宮に頻繁にやって来ることはないだろうが、陛下から呼び出されるほどの人物なら二度目、三度目もあることだろう。
わらわは待つことにした。
どうせ幽霊。
成仏もできない身。
何年でも、何年でも待つつもりでいた。
いつか、きっと。
わらわはそなたに名乗るとしよう。竜列国皇帝の妹としての矜持にかけて。二度目の無礼は決してしないと誓おう。
……そして。
その『いつか』は思ったより早くやって来て。
再び下げられた頭を見て、わらわはなぜだかとても誇らしい気持ちになった。
『うむ、よかろう! きちんとした挨拶ができるとは、最近の若者にしては躾がなっているようだな!』
訳:無礼者しかいない中、あなたから挨拶をされてとても嬉しかったです。ありがとう。
『二度も挨拶をされながら名乗り返さぬは皇が一族の恥! 我が名で耳朶を震わす光栄、末代までの誇りとせよ!』
訳:この前はごめんなさい。今度こそちゃんと名乗りますので聞いてください。ずっとずっと覚えていてください。
『我は“竜列国”皇帝カイレザンが妹、ミヤィスン。遠路はるばる海を越え、両国の平和と安寧のためにこの国へと嫁いできた正妃である!』
訳:竜列国の皇女、ミヤィスンです。国王陛下の妃になるべくやって来ました。これからどうぞよろしくお願いいたします。
……正直、もう少しおとなしめの挨拶をするべきだったかと今では思っている。早めの再会が嬉しすぎて舞い上がってしまったようだ。これからは気をつけるとしよう。
うむ、わらわは反省もできる凄い皇女なのだ。
◇
王宮に長く漂っていると不思議な“力”が身につくようであり。わらわは王宮のどこに誰がいるかとか、侵入者が現れたとか、そういうものを感じ取れるようになっていた。
そんなわらわの“力”が、かつてないほどの警報を発した。
多数の侵入者が突如として宝物庫に現れた。
おそらくは転移魔法。
だが、ありえない。
この国の警備状況に詳しくはないが、宝物庫など王宮でも最上級の結界を施してあるべき場所であろう。そうでなくとも普通の王宮であれば抗魔法の結界が張り巡らされていて、転移してくることなど不可能であるはずだ。
しかし現実としてわらわは突如として現れた侵入者たち――正確を期するならば宝物庫内に五人、中庭に三人――が現れたのを察知した。
しばらく後。
膨大な魔力の奔流が王宮を揺らした。
石造り、しかも一つ一つに防護術式を施してある王宮が、魔力の奔流で揺れることなどありえない。あってはならない。
けれども侵入者たちは意図的にその『ありえない』を次々と演出していき……、ついに、とうとう、最大級の『ありえない』を実行してみせた。
『――――っ!』
言葉にすらなっていない叫び声。
いいや、人間程度の耳では“竜”の声を理解することができないだけだろう。最高級の神官にしか神の声が聞こえぬように。人間が妖精の姿を見られなくなってしまったように。
王宮が揺れる。
破壊音が響き渡る。
ドラゴンだ。
ドラゴンが王宮に現れた。
絶大なる力を持つドラゴンは当然のごとく転移魔法で自身を自由な場所に送り込むことができる。
だが、ドラゴンがそれをすることはない。
獲物の前に移動するのに、こそこそと姿を隠すのは卑怯者のすることだからだ。力なき者がすることだからだ。
ドラゴンならば。
幻想種であるならば。
正々堂々と空を飛び。高々と声を轟かせ。真っ正面から破壊と絶望をまき散らすべきなのだ。それでこそ誇り高き竜族であるのだ。
そんなドラゴンが、王都の警戒網に引っかかることなく王宮に出現した。
おそらくは転移魔法。
つまりは、ドラゴンが、誇りを捨てた。
そうまでしてこの王宮を破壊したいのか?
そうまでして倒したい相手がいるのか?
わらわには分からない。
分かったとしてもどうしようもない。
そも、ドラゴンとは人間程度にどうこうできる存在ではない。ドラゴンに襲われたなら身を低くして頭を抱え、『災害』が通り過ぎるのを待つしかない。ドラゴン相手に戦うなど恐怖心が麻痺した病人か、己の力を過信した愚か者か、あるいは――命を賭してでも守るべき“もの”がある人だけだろう。
……わらわにはあるか?
王妃として望まれてこの国へ来た。
しかし、わらわはこの国のために戦うことができるのか?
黒髪が不吉という理由だけでこの黒紫色の髪を侮られた。幽霊というだけで下に見てきて、話を聞くこともなく、挨拶すらしてこない。
たとえ“力”があったとして。こんな国の国民のために戦えるか? 戦いたいと思っているのか?
わらわは……。
…………。
………………。
……あの子は、どうするだろう?
リリア・レナードなら、どうするだろう?
あの子であれば、きっと……。
「――おい! 陛下はまだ避難されないのか!?」
不意に、悲壮感すら漂う男の怒声が響いてきた。
「避難されたという報告はない!」
「何をやっておられるのだ陛下は!?」
「知るか! 気になるなら自分で聞いてこい!」
「できるわけないだろう!」
「なら文句を言わずに持ち場へ戻れ!」
「いつ建物が崩れるのか分からないのにか!?」
「陛下が避難されていないのに逃げるわけにはいかないだろう!?」
「くそっ! なんで王宮にドラゴンが出てくるんだ!?」
最後の方は泣きそうになりながらも役人は持ち場に戻った。
これが近衛騎士や近衛魔導師であればまだ平静な態度でいられるだろうが、戦う力を持たない(持っていたとしてもあくまで対人技術でしかない)役人たちにとって、いつドラゴンによって押しつぶされるか、食われるか、焼き殺されるか分からない現状は恐いという言葉では足りないほどの恐怖だろう。
『…………』
今。国王陛下の第二妃エレナは療養のために王宮を出ている。王太子もたしか視察中だったはず。宰相と騎士団長も慌てた様子で中庭に向かったし、国王陛下に諫言できる者はおそらく残っていないだろう。
『……わらわが行くしかないか』
王妃としての使命感でもなく。役人たちを哀れんだからでもなく。夫である国王陛下を心配したからでもなく。ただ、『リリアなら見て見ぬふりはしないだろう』という考えだけでわらわは国王陛下のおわす居住空間を目指した。
◇
王族の私的な部屋の一つにいたのは硬く目を閉じた国王と、顔を蒼くした近衛騎士数人。そして国王に避難を勧告する役人もいくらか。
国王の近くにいることを許されているのだから役人たちもそれなりに上位であるはずなのだが、国王が聞き耳を持つ様子はない。
『……何をしておるのだ、おぬしは』
敬語を使う気にはならなかった。そういうのは敬意に値する相手に使うものだ。非常事態だというのに避難することなく先ほどの役人に無意味な死を強いるような男に対する敬語など持ち合わせてはいない。
わらわの登場にざわめく騎士や役人たち。しかし、国王は慌てた様子もなく目を閉じたままだ。
わらわの姿を見るつもりはないらしい。
だが耳を閉じることはできないので、国王は渋々といた様子で口を動かした。
「……避難しようとしたら、“悪寒”がした。ここで逃げるべきではないと告げている」
悪寒。
勇者ガルドの直感と並んで幾度となくこの国を救ってきた国王リージェンスの悪寒。王宮に長くいればそんな与太話も耳にすることになる。
『ふむ……』
意識を集中させ、王宮すべてを探る。本来王宮には抗魔法の結界があるせいで魔法を使えないが、わらわのこの力はおそらく地縛霊としてのものであるからか問題なく使用することができた。
なるほど。
国王の“悪寒”は正しいとわらわには理解できた。自分の命を最優先させるなら、ここに留まっていた方がいい。
だが、それは、先ほどのような役人たちだけではなく、今もドラゴンと戦っている近衛騎士や近衛魔導師の命を危険にさらし続けるということだ。死を強要するということだ。
『自分の命のためなら部下がどれだけ死んでもいいと? どれだけの被害を受けてもいいと? そう言うのか国王よ?』
陛下と敬称を付ける価値もない。
名前を呼びたくもない。
結果としてわらわはこの男を『国王』と役職で呼んだ。
「……まだリュースも幼い今。余が死ぬわけにはいかないのだ」
余。
この男が被っているのは国王としての顔であり。……わらわの前では、結局、素の姿を見せるつもりはないようだ。
国王としての仮面を剥がさず、一人の男としての素顔を晒さない。そんな夫婦があるものか。そんな女は『妻』ですらないだろう。
いっそ笑いながらわらわはこの男を糾弾した。
『情けない。そうして目を閉じて、自分のもたらす悲劇から目を逸らすのか? 耳を閉じる手伝いをしてやろうか? まったく情けない。これがリリアであれば――』
…………。
リリア?
わらわは、リリアと言ったか?
国王と比較するのに、リリアの名前を出したのか?
一応は『夫』であるこの男と比較し、貶すために……。
……。
…………。
………………。
『――ふはっ、ふははははっ! そうかそうか! そうであったか!』
突如として笑い始めたわらわに驚いたのか、ようやっと国王が目を開けてわらわの姿を見た。
……ずいぶんと歳を取った。
直接会ったことはないから、わらわの記憶にあるのは結婚前に送られてきた似姿(肖像画)だけだが……。絵からですら国を守る使命感を感じ取ることのできた青年は、国を背負う重圧に押しつぶされそうになりながら、それでも耐え続けてきた証を皺という形でその身に刻んでいた。
そうか。おぬしはずっと戦い続けてきたのか。
何度も折れそうになりながら。
時には非情な決断をして。
その罪を黙って背負っていたのか。
わらわのあとに王妃となった、あの女と共に……。
…………。
うむ。
うむ、うむ、うむ!
清々し!
何とも清々しきことか!
この男の側には“王妃”としてふさわしい存在があり!
もはやわらわは“王妃”である必要もなく!
そしてわらわはやっと気づいた!
『――祝福せよ! リージェンス・ヴィ・ヴィートリア!』
初めて。
名前を呼んだ。
そしておそらく。
名前を呼ぶのはこれで最後だろう。
『はははっ! 妙に気に入っているとは思ったがな! 妙に心がざわつくとは思ったがな! 愉快愉快! 生きている頃にすらしなかった初恋か! 死んでからの恋心か! なぁ、我が“元”夫殿! ――わらわは、どうやら存外に本気であるらしいぞ!』
高らかに笑うわらわの姿を、“元”夫である男は嬉しそうに、寂しそうに、どこか安心したような顔で見つめていた。
挨拶だけで(元)王妃を落とした女、リリア・レナード。
璃々愛
「なるほど。つまりミヤちゃんは皺が出てきた中年男性より、若くてぴちぴちなリリアちゃんの方がいいと?」
オーちゃん
「お前はシリアス展開を台無しにしないと死ぬ病気なのか?」
次回、4月4日更新予定です




