『琥珀』
この作品は、私の知人が執筆されたものです。
知人はインターネット環境を持っていないため、当方にて代理投稿という形式で掲載させて頂いています。
評価や感想については「特段指定しない。辛口でも別に構わない」という旨の伝言を預かっていますので、その点ご了承のほど、よろしくお願いします。
思い起こすにはあまりに惨めで恨めしい、掃き溜めのように薄汚い過去。足場が悪く、常に暗澹としていて一寸先すらも見えぬ今。そして、迷走と徒労の果てに辿り着くであろう、深い失望に満ちた未来……
抑うつされた閉塞感でいっぱいになっている日々の中で、僕は窒息死してしまいそうになることがしばしばある。けれど、それでもまだ僕がこの世に踏みとどまっていられるのは、あの魔法の宝石店のショーウィンドウに飾られている、とっておきの逸品を眺める時間があるからだ。
背徳と絶望に彩られ黄昏色に透き通るその結晶には、まるで古代の昆虫が埋もれているように、狂気と災厄の化身が凝結している。その悪意の象徴から滲み出る魔性の輝きには、見る者の心を幻惑して惹きつけてしまう魅力があった。
僕はあの宝石に、いつか触れてみたいと思っていた。またその欲求と同じくらいの強さで、魔法宝石店に入ることが恐ろしくて仕方がない。
店内に渦巻いているあの禍々(まがまが)しい瘴気に中てられたら、僕のように心のひ弱な者は発狂してしまうだろう。臆病者のこの僕は、店の敷居を踏み越えるだけの覚悟や度胸をあいにく持ち合わせてはいないのだ。しかしそれでいて僕は、禁忌の欠片を手に取り鼻先にまで近づけて、その妖しい輝きをじっくり堪能したいと狂おしいまでに渇望している。
僕の魂を煉獄に繋ぎとめ、まるで麻薬のような効能を発揮するあの魔法の宝石。手に入れるには多くの代償を求められることだろう。全財産、社会的地位、人間関係、そして正気……
今の僕の支払能力を精一杯に見積もってみても、とてもあの宝石に見合った代価を用意できそうにはない。そう、僕は所詮、路傍の石ころでしかないのだから。
だから僕は今日も眺める。ショーウィンドウの中央で艶光りしている、あの琥珀色の宝石を。
ある日、僕の片思いの相手に買い手が現れてしまった。少しやつれた風貌のその男は、店の主人と談笑して他の商品も物色していた。そしてその間、僕の愛しい宝石を素手で軽々しく扱っては、透かしてみたり乱雑に握り締めたりしているのだ。
僕はそいつの無遠慮で無作法な振る舞いを垣間見て、今にも卒倒しそうになった。けれども、そいつは終始にこやかな表情で魔導師の店主と語らい合っていたから、きっと魔法宝石の扱いには精通していて、それの飾り方もきちんと心得ているのだろう、と自分を無理にでも納得させることにした。
とても、とても羨ましかった。出来ることなら、すぐにでも彼等の商談を御破算にしてやりたいと思った。もちろん、そんなことが出来ないことは分かっている。仮に僕が店に踏み込めたとしても、その宝石をそいつに売っちゃ駄目だ、などと言える勇気はまずひねり出せそうにない。
魔法の宝石が綺麗な化粧箱に収められてゆく。客の男は、他にも幾つか値の張る魔法の石を一緒に買っていった。
僕はその様子を、ただただ傍観することしか出来なかった。
そして、運命の刻がやってくる。
梅雨の季節には珍しく、清澄した空と穏やかな陽光に恵まれた日の出来事だった。
奴は、突如として往来の只中に飛び込んで来ると、狂気と災厄がたっぷりと封じ込められている琥珀色の魔法宝石を砕き、辺り一帯を魔素で満たし尽くした。そして、己の魂の空隙に呼び込んだ悪鬼にすべてをゆだね、その場に居合わせた人々から地獄の懊悩を徹底的に搾り取ってゆく。
……僕には止められなかった。止める術もなかった。そもそも、路傍の石ころでしかないこの僕に、一体何が出来たというのだろうか。
異様な興奮と不安に包まれたあの場所と、そこに漂っていた微かな死臭を思い出すたびに、僕の魂の空隙が疼く。それは新たな恐怖となって僕の精神を脅かす。
僕は、魔法の宝石の力を乱用したあの男の所業に吐き気を覚えて軽蔑する。けれども同時に、あの男の圧倒的なまでの負の衝動に、極めて微小ではあるがシンパシーを感じてしまっているのだ。その事実に気付かされるたび、慄然としてしまう。
共感の原因はなんであろうか。それは深い井戸の底を覗き込みたくなる好奇心かもしれないし、あるいは暗闇に満ちた羊水の中をたゆたう安堵感への回帰願望なのかもしれない。
僕の中にも、狂気と災厄を欲するような心の暗部があるのだろう。だとするなら、僕とあの男とでは何が違うというのだろうか。僕にもし魔法の宝石を得る機会があったとしたら、あの男のように凶行には及ばぬ保証がどこにある?
己の人生を振り返り、自分が何者なのか、その正体を自身に問うてみる……どんなに記憶を反芻し、泥沼のようにぬかるんだ過去に手を差し込んでかき回してみても、僕を何の罪もない善良な市民として肯定する明確な証拠は遂に引き出せなかった。
そしてまた、僕の鬱屈した日常が続いてゆく。
苦悩の末に訪れるものは狂乱と終焉なのか、それとも安息と再生なのか。今の僕には判らない。けれども、僕が路傍の石ころであることには、これからも変わりはないのだ。
この取るに足りないちっぽけな日々の営みが、今の僕の魂に形式的な戒めを与えている。そうやって無自覚と無責任のモラトリアムの波間に浮かんでいられるなら、ずっとそうしていたい。例えこの魂の空隙に、琥珀色の魍魎が住み着いているとしても……