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オーウェルの「1984年」は、全体主義に支配された世界の話である。そこでは、主人公のウィンストン・スミスを含む全ての人間が、最高権力たる党の出す真理に従わなくてはならない。しかし、党の出す決定がいつも正しく、素晴らしい真理であるとは限っていないので、人は常に『二重思考』を強いられる事になる。人は党の提出する真理を常に「真理」として崇めなければならないが、時に党も間違える。しかしその時も人は、その過ちをすぐに記憶から消去し、そして『現在の党の言っている事こそが正しい』と信じなければならない。つまりそこは過去の消去された世界であり、人は常に毎時、過去を消す事を党に強制されている。そして過去がないゆえに、そこには未来も存在しない。未来が存在するとしても、それは党の差し出す真理を飲み込むという未来なのであり、そうして全ての人間は自主性と意志を剥奪されている。そして、その剥奪されている状態さえも、それこそが自分の意志だと、党によって信じこまされているのだ。
この絶えざる隷属状態の時に、人間は完全に分裂している。ここでは、人間の観念、あるいは意志というのももはや、完全といっていいくらいに社会システムによって汚染されている。そこでは人々には自由と意志があると宣伝されているが、その意志と自由こそが、党の与える最大の奴隷的なシステムである。かつての奴隷制度は肉体を奴隷にしただけだったが、現代では、システムは魂を飼い慣らす事に成功しつつある。
しかし、これは『ドストエフスキー以後』の世界であると言える。ドストエフスキーの小説において分裂していたのは、個々の登場人物の内部においてだった。そこでは、世界システムは想定されていなかった。しかし、それはすでに萌芽として、各個人の内部に沈潜していたのである。スメルジャコフの二重性ーーーイワンの言葉を逆に受け取り、ドミートリイ殺害まで行ったスメルジャコフの内部において、外部の言葉と、その言葉の意味はすでに逆立していた。しかし、なぜ、このような逆転が行われたのか? それはなぜなのか? そして、その事が、オーウェルにおいては、世界と個人の内面性との関係の二重性として規定されるようになったのはなぜなのか?
当然の事ながら、ドストエフスキーはロシア革命以前の人物である。彼は社会主義に否定的な意見を持ちながらも、それに多大な関心を寄せていた。(そしてそれを過去に引っ張るなら、シェイクスピアの偽善に対する鋭い嗅覚とつながるであろう) ドストエフスキーは、社会主義が成就し、そしてそれがソ連という国家になるところまでは知らなかった。知りようがなかった。しかし、オーウェルはその現実を間近に見たのだった。オーウェルは社会主義、集産主義、全体主義の欺瞞と横暴を鋭く見抜いていた。そしてこの両者は、この社会主義の発展の前と後で、ある程度通底した精神を有している。つまり、そこでは、それぞれに、魂は理性によって閉却されている存在だと考えられていた。ドストエフスキーにおいては、登場人物の内面における矛盾として、そしてオーウェルにおいては、肥大した世界システムとして。そして、そこには観念と理性、そして魂の、厄介な二重性がある。そういう二重性を強いる社会・経済条件があった。
少し元に戻って、今の僕達ーー二十一世紀の状況を見てみよう。
現在の我々の世界においては、全体主義は存在していないかのように見える。現代の我々は唯物論と高度資本主義が支配する世界に生きている。しかしながら、そこには、極めて観念的な事件や犯罪が、唯物論的なものの背後で行われている。そして、ここでもそうした二重性が散見される。
現代社会においては、大雑把に言って、物が物の段階から遊離し、精神が物としての段階に身をやつすところまで発展していった。それは、製造業中心の社会から第三次産業中心の社会、ドラッカーの言う所の知識労働が主になっている世界への変化に対応していると考えられる。そしてその場合、知識労働が主になると、その場合、そうした精神が物の段階に身を落とす事になる。しかし、精神は本来、無定形で自由なものなので、それは精神として自由であろうと、その魂の牢獄でもがく事になる。ここに現代の精神と、物質化した精神との深刻な対立がある。
もっと簡単に考えてみよう。例えば、近くのコンビニに入って、そこに出てくるアルバイトが自分に対して「いらっしゃいませー」と言う。この時、このアルバイトは、別に客である自分に対して、心底、温かい気持ちで「いらっしゃいませー」と言っているわけではない。それは義務として、業務としての「いらっしゃいませー」である。それは当然だ。しかし、「いらっしゃいませー」という言葉に現れていなければならないのは、精神の温かさ、あるいは「おもてなし」的精神である。そして、ブラック企業的な企業であるなら、その「いらっしゃいませー」を、本当に心の底から言わせようとする。つまり、そこでもうすでに、オーウェルの描いた共産主義的な側面が現れている事になる。もちろん、「いらっしゃいませー」と言うのは、アルバイトの義務であるが、しかし、それは個人の心性の発露ではない。そうではなく、それはあくまでも仕事の一貫としての、客と従業員の線引きあっての事である。しかし、ブラック的な企業にあっては、これを、本当に「個人の心の底から」言わせようとする。つまり、そこに客と従業員の線引きをなくし、個人の心性の全てを社会幻想に融合させようとする。つまり、ここにはすでに洗脳的な要素、オーウェル的な要素がある。そしてこれこそが、個人を完全に社会集団に融合させようとする、社会主義、あるいは全ての、共同幻想の退廃した、あるいはその理想な姿であると言える。
しかし、もちろん、そんな企業は稀だし、我々皆がそういう企業で働いているという事はない。しかし、我々の社会が、コンビニのバイトのような身近なものから、様々な社会において、肉体労働よりも知識労働、あるいは個人の態度や表情や姿勢そのものが、労働という領域に突入している状態では、もはや、自分の感情や表情が、社会的なものか個人的なものか見分けがつかなくなっている事はありうる。そして、ここにまた、物質化した精神と、そこから逃れようとする精神との二重性が現れる契機があるのだ。
もちろん、ドストエフスキーの時代においては、そんな社会ではなかった。しかし、おそらく、社会主義が興隆する機運の中、また新聞などのメディアが発展し、人々の観念が物質のように増殖している時代において、そういう物質化した精神と、精神との二重の区別の先験性が現れていたのだろう。僕はそう考えている。例えば、精神分析学はドストエフスキー以降に登場し、燦然とした光を当てられる事になったのだが、そこにはまず、精神が無意識として、「大地から遊離している」必要性がある。精神が、生活とか自己の、日常的な生活のレベルから遊離する事と、精神が物質的に捉えられる精神分析学の興隆とはおそらく、機を一つにしている。そして、精神の物象化に対して、一番はじめに、そしてもっとも徹底的に反抗した最初の文学者こそが、ドストエフスキーだった。ドストエフスキーの小説は極めて心理的なものだと言われる。しかしそれは同時に、心理なるものが次第に社会に蝕まれていく過程で、それに逆らう事によって、人間の魂の奥深くにドストエフスキーが潜行していったその結果、彼は心理の底にもう一つの心理を発見したのだった。そして、心理学者、あるいは精神分析学者は彼らがどう望むかは別にして、彼らはそれをもう一度、類型化し、物質化しようとしているのだ。